2024年09月18日

『チャイコフスキーの妻』

キリル・セレブレンニコフ監督の2022年の映画(ロシア・フランス・スイス合作映画)。同性愛者だったチャイコフスキーと結婚した女性を待ち受ける悲劇と苦難の人生というような映画なのだが、ゲイの男性を慕う「おこげ」(Fag Hag)の女の話かと興味津々だったが、男性と男性の身体的なからみはなく、妻の性的妄想のなかに裸の男性が多数登場する。

予告編的映像のなかで(とはいえ私はその映像を観ていないのだが)、男性のペニスを握り、そのすぐあと手の匂いを嗅ぐという同性愛場面があってショックを受けたという人がいたが、映画のなかでその場面をみたとき、男性のペニスをしっかりにぎり、手の匂いを嗅ぐのはチャイコフスキーの妻であった。映画には幻想か現実かわからない場面がいつくもあったのだが、それもそのひとつ。妻の性的な妄想の世界(おそらく)に、「練馬変態クラブ」のような男性たちが登場するのである。

【ちなみに「おこげ」というのは侮蔑語であるとWikipediaに書いてあるが、たしかに「おこげ」も英語のFag Hagも侮蔑語であるが、LGBTQ評論・研究では、侮蔑語をコンプライアンス重視のようなかたちで使用しないということはなく、むしろその逆である。つまり歴史から隠されてしまう(hidden from history)LGBTQにとって、侮蔑語でも、それがあることによって、欲望のありかがわかるという機能をもっている。侮蔑語はパースの記号論でいうインデックス記号である。それがそこにあることの指標なのである。】

したがって『チャイコフスキーの妻』は、夫の側の同性愛についての描写はなく、妻の側の妄想にセクシュアリティの比重が置かれているため、くりかえすが「おこげ」の話になっていない。「おこげ」どころか、妻が愛するのは、異性愛者としてのチャイコフスキーである。なぜなら女性の妻だけがチャイコフスキーを救えると信じているからである。くりかえすが、ゲイの男性を愛するおこげの話ではない。

悲劇について
だがこの映画は紛れもなく悲劇になっている。

悲劇とはなにか、その定義はさまざまだが、そのなかのひとつに、妄執にさいなまれて破滅してゆく人間の悲惨と栄光をテーマとするという定義がある。

たとえばアーサー・ミラーの『セールスマンの死』。現代のアメリカの庶民の社会という、ギリシア悲劇から何光年も離れているような世界に、悲劇は可能かという問いに対する答えがその作品だった。

主人公のウィリー・ローマンは仕事上すでに負け犬になって会社からも疎まれているが、二人の息子にはそのことを隠し自分の古臭い人生観を押し付け続けている。それはアメリカン・ドリームともいえないような、人気者が社会の成功者になるという浅薄きわまりない人生観だった。

幼い頃は無批判に父親を尊敬していた二人の息子も、大人になるにつれて父親の人生観に懐疑的になり長男にいたっては父親と決裂するまでになる。しかし会社からも子供からも嫌われても、ウィリー・ローマンは自分の浅薄な人生観に固執する。それが崇高な大義というのなら同情も共感もできるのだが、ただ幼稚で愚にもつかない人生観に固執しつづけ、自分で自分の首を絞めている男ウィリー・ローマン――この愚かな頑固者のクソオヤジに対しては救いの手を差し伸べることすら無意味に思えてくる。この負け犬のなかの負け犬。決して自分の非を認めない負け犬。周囲に迷惑をかけ子供たちの人生を致命的に狂わせそうになった負け犬、愚かな父親。愚劣で蒙昧で頑迷固陋な最低の人間ウィリー・ローマン。

だから彼は偉大なのである。だから彼は現代の悲劇の主人公なのである。

節を曲げないこと。自分自身にどこまでも忠実であること。内省も反省もなくただ一途にひとつのことに固執し、それに殉ずることすらいとわないというか、それにすすんで殉ずる。そこに人間の偉大さをみるのが悲劇というジャンルの特徴なのである。

そのためにも中途半端な主義主張に殉ずるのはだめである。なぜなら、それには誰もが殉ずることになるから。そうではなくて、その個人だけが信奉し信奉すればするほど侮蔑され孤立を余儀なくされる理不尽な愚劣な信条、自分だけにしか価値をもたない信念、それに身をささげることが求められる。この不条理こそ悲劇が求める人間の実存的なありようなのである。

アンティゴネーは、国家の法に対して、血族の掟を対峙させているのではない。彼女は戦死した兄弟を埋葬したいだけであり、そのためには、国家の法を踏みにじろうとも、自ら罰せられ破滅しようとも意に返さないのだ。誰が説得しても彼女は自信の決断を撤回することはない。彼女の内面は、それをこじ開けようとも開けられないほどに固く閉ざされている。そう、自分の尻尾に食らいつく蛇――ウロボロスこそ、悲劇の主人公の究極のイメージである。ウィリー・ローマンも、現代のアメリカ社会のウロボロスである。そして、そこに、繰り返そう、悲劇は、なにものにも傷つかない人間の偉大さ、あるいは人間の魂をみているのである。

チャイコフスキーの妻はどうか

チャイコフスキーの妻アントニーナが、チャイコフスキーに魅かれたのは、有名な作曲家だからという浅薄なミーハー的な理由からだった。いっぽう独身主義者だったチャイコフスキーがなぜ彼女と結婚するにいたったかについては、おそらく記録も残っていないだろうし、明確なところはわからない。彼女が高額な持参金をちらつかせ、夫の仕事の邪魔をしない献身的な妻=家政婦になると思ったのかもしれないが、彼女の方は夫の理想的なパートナーとなるという独りよがり的な妄想を抱いているように思われる。夫は自分を愛し、自分も夫を愛している。夫を救えるのは自分であり、夫は彼女を愛することで夫自身も救われるという破廉恥とはいわないが、薄っぺらな夢を彼女は抱いている。問題はその薄っぺらな夢を彼女が最後まで捨てないことである。

夫が生きているホモソーシャルな世界に女性あるいは妻が入り込む余地はない。おそらく財産目当てあるいは世間体のためにチャイコフスキーは結婚したのだろうが、それが過ちであり、女性を傷つけたことを悟り、別居から離婚することにしても、手遅れである。妻のほうは、道具・手段として扱われプライドを傷つけられたことの恨みからか、絶対に離婚に応じない。

冷静に考えれば、さっさと離婚して慰謝料をもらい、第二の人生を歩んだほうが賢明であることは、おそらく本人もわかっているだろうし、周囲も彼女にとってよかれと、そのような選択をすすめるのだが、彼女は、断固として離婚の書類に署名をしないし、周囲の説得に応ずることなく夫が自分を迎えに来るのを待ち続けるのである。

おそらく弁護士の男と肉体関係をもち三人も子供を作りながら、彼女はチャイコフスキーの妻――それがオクシモロン的存在であることなどものともせずに――でありつづけるのである。しかも彼女の愛とは著名人に対するミーハー的感情からそんなに隔たったものでもなかったのだが。もうこうなっては、誰も彼女を止められない。彼女を救えない。彼女はウロボロスになっている。そしてそこに彼女が人間の魂そのものとなっている偉大さがみえてくる。人間の魂のなんという悲惨な偉大さ。彼女は正真正銘の悲劇の主人公になりおおせたのである。

最初に述べたようなこの映画はゲイの男性を慕う「おこげ」の話ではまったくなかった――そのようにすることもできたとはいえ。むしろ、これはそうトリュフォーの映画『アデルの恋の物語』(L'Histoire d'Adèle H.1975)ではないか。くだらない男に捨てられても、男を慕い続け発狂してゆく、ヴィクトル・ユゴーの次女アデル(アデーレ 1830-1915)の物語は、チャイコフスキーの妻アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリューコヴァ(1848 – 1917)とどこか重なってみえるのは、私だけだろうか。
posted by ohashi at 02:06| 映画 | 更新情報をチェックする