2024年07月12日

ダブル・タイム 『オセロー』雑感 3

シェイクスピアの『オセロー』には、二つの時間枠があると、昔から指摘されてきた。つまり短い時間枠と長い時間枠。これをダブル・タイムDouble Time問題と言っているのだが、どちらか一つが正しいとか基盤であり、いまひとつはイリュージョンあるいは派生的なものというのではなく、ふたつの時間枠は共存しているとみることができる。

『オセロー』の物語を時系列に沿って整理してみよう。

第1幕はヴェニスが舞台。オセローがデズデモーナと密会をしているところに、ヴェニスの公爵から呼び出しがかかる。オスマントルコの艦隊がヴェニス領キプロス島に攻撃をしかけてきたので、これを撃退すべく、オセローを総指揮官とする艦隊を派遣することが、その夜のうちに決まる。

なおこの夜にはオセローとデズデモーナとの結婚を許さないデズデモーナの父親ブラバンショーが結婚無効を公爵に訴えるが、訴えは退けられ二人は晴れて正式に結婚をする(もちろんオスマントルコの艦隊を撃破するために傭兵のオセロー将軍の力を借りねばならないヴェニス公国としては元老院議員のブラバンショーよりもオセローの希望を優先させるという政治的判断をしたともとれるのだが)。

つづく第2幕で、舞台はキプロス島になる。オセローよりも先に到着したキャシオ、イアーゴー、デズデモーナがオセローを出迎える。再会を祝するオセロー一行。その夜は、オスマントルコ艦隊が嵐によって撤退したこともあり、危機が去ったことを祝福する宴を開くことになる。だがその宴の席で刺傷事件が起こり、酒乱となった副官キャシオ―が職を解任される。ここまでが第二幕。

そしてその翌朝が第3幕第1場。この日を境にしてイアーゴーは、オセローに対し、デズデモーナの不義密通の疑惑を吹き込むことになる。

問題は、第3幕第1場以降の時間経過が漠然としていることである。第3幕から終幕までにどのくらい時間がたったのか定かでない。

前回話題となったキャシオだが、彼に妻はいないが、ビアンカという恋人がいる。そのビアンカはヴェニスから彼のあとを追ってキプロス島にやってくる。彼女は、キプロス島の安全が確保されたあと、ヴェニスからキプロス島へと移動したと思われるから、そしてヴェニスとキプロスとはかなり距離があることから、彼女がキャシオと再会するまでにはかなりの日数が経過していたとみることができる。

またヴェニスからの使者ロドヴィーゴが、キプロスに到着し、キャシオをキプロス島の総督に任命する旨を伝えるのだが、ヴェニスからの使者が到着するまでには、一定の時間がかかっているとみることができる。

まあ常識的に考えても、オセローが妻のデズデモーナを殺害するまでには、数週間、あるいは数か月かかっているとみることができる(ひょっとしたら数年かかっているかもしれない)。

これがロング・タイムLong Time。長い時間枠である。この何が問題なのかと思うかもしれないのだが、実は『オセロー』という作品、キプロス島へ到着してから次の夜に悲劇が起こるような印象も受けるのである。

もちろんこれはおかしいといえばいえる。オセローの艦隊がすべてキプロス島に到着したその翌日、ヴェニスからロドヴィーゴがやってきてオセローに帰還命令を伝えるというのは、可能性としてないことではないが、蓋然性にとぼしいだろう。

しかし第3幕1場以降、つまり朝になってから、ずっと昼間の場面が続き、第5幕つまり終幕になって夜の場面になるにために、第3幕から第5幕までが長い一日であるかのような印象を受ける。オセローがデズデモーナを殺害するのは長ければ結婚してから数年後(数週間後というのが妥当なところだろうが)、短かければキプロスに到着した翌日ということになる。

これはシェイクスピアの混乱のせいではないだろう。むしろ意図的に慎重に仕組まれたダブルスキームなのではないか。そして長い時間枠、短い時間枠、どちらにも意味をもたせているとみることができる。

長い時間:最側近のイアーゴーに、毎日毎日、デズデモーナの疑惑を吹き込まれたオセロー将軍は、真実と虚偽の見境がつかなくなり、デズデモーナへの信頼を失いはじめ、妻の不貞を確信して殺害に至るというのは、一方で十分にありえることである。

他方では、たとえ最初はイアーゴーに騙されて妻の裏切りを確信しても、長い時間がたつうちに、反省と熟慮を重ね、イアーゴーの言葉自体にも疑念が生じ、やがて妻に対する信頼を取り戻す。またその間、イアーゴーの戦術にもほころびが生まれ、墓穴を掘ることになるかもしれない--つまり最初は妻の裏切りの可能性に激高し絶望しても、時がたつにつれて冷静になり、真実を見抜くことにができるようになるかもしれない。

こう考えれば、長い時間枠というのは、悲劇を展開させる装置としては適切ではないかもしれない。長い時間がたてば、どんな悲劇も喜劇にかわる。もちろん当時の古典劇の理論としては、悲劇も喜劇も24時間以内に完結するというが基本ではあるのだが、同時に、喜劇には長い時間枠というのが想定されていた【詳しいことは別の機会に】。古典劇の理論では、喜劇の場合、舞台は、長いドラマの最後の一日なのである。

また長い時間枠で『オセロー』をみる場合、最後が惨劇で終わること自体、予想外のことで、ふつうなら喜劇的結末が期待される。まさにそうなのだ。そもそも騙されて、妻に嫉妬する愚かな夫というのは、喜劇の題材ではないか。

たまたまこの5月に、18世紀のイタリアの劇作家カルロ・ゴルドーニの『二人の主人を一度に持つと』(加藤健一事務所公演)を下北沢の本多劇場で観た――ちなみに、演出は奇しくも、文学座・横田英司主演の『オセロー』と同じく鵜山仁だったが。もちろんゴルドーニのこのコメディは『オセロー』とは似ても似つかないのだが、しかし、召使に騙されて嫉妬に狂う夫というテーマは、そこに変装した人物の陰謀と策略などが加われば、もう典型的なコメディア・デ・ラルテの世界、あるいはコメディア・デ・ラルテを刷新して人間味を加えた、いかにもゴルドーニの喜劇世界の中心的要素となるだろう。たしかに『二人の主人を一度に持つと』の主人公、口から出まかせ、デタラメ言いまくりのトゥルッファルディーノ(加藤健一が演じる)のなかに、イアーゴーの末裔をみることは容易である。

そもそもシェイクスピアの悲劇は、喜劇のパタンを踏襲したものが多い。このことは、喜劇というマトリックスをもとに作られた悲劇というかたちで論じられたり、悲喜劇(Tragicomedy)という言葉があるが――悲喜劇は究極的には喜劇的結末を迎える――、シェイクスピアの悲劇は喜悲劇(Comitragedy)だと言われたこともある。

たとえば『ロミオとジュリエット』は、親が争う家の子供が恋に落ちるというは基本的に喜劇のパタンであり、ハッピーエンドが予想されるがゆえに、悲劇的結末が痛ましいものとなる。父親を裏切る二人の娘と、父親から嫌われても最後は助ける末娘の物語(『リア王』)は喜劇を通り越しておとぎ話の世界であり、本来なら約束されたハッピーエンディングで終わるはずだった。とまあ、喜劇的世界あるいは喜劇的結末を予期させてそれを覆すのが、シェイクスピアの劇作術だとすれば、『オセロー』の喜劇的要素が横溢していることは驚くべきことではない。むしろ喜劇的結末を予想させて、それを裏切るところにシェイクスピア劇の真骨頂がある。

短い時間:悲劇は短い時間で展開することで、その良さが発揮される。破局にむかって一直線に進んでゆく、いかなる回避手段も、別の可能性も、否定され、破滅こそが唯一の必然的結末であるように作られるのが悲劇である。

そのため悲劇は必然的な破滅までの時間が短ければ短いほどいい。またすべてが破滅、死へと、収束することをめざすのであり、夾雑物は徹底して排除されることが望ましい。

特殊な終わりある時間(フランク・カーモードが『終わりの意識』のなかで紹介してくれた神学的時間の議論を参照すれば、「カイロスの時間」)こそ悲劇であり、夾雑物、必然性ではなく偶然性、そして日常性は、悲劇的純一性を損なうことになる(ちなみに、この対極にあるのが、終わりなき循環の時間、生と死を繰り返し、偶然性に支配され、多様性と不純性にみちた、日常的時間、「クロノスの時間」である)。時間が解決してくれるというのは、長い時間をかけた和解と再生作用を前提とする喜劇的世界観である。それはまた夾雑物が排除されず、多様性が確保され、偶然性が認知され、日常性の価値が評価される俯瞰的・全体的な世界観である。

その対極にあるのが悲劇であり、『オセロー』のなかにある短い時間と思われるものは、悲劇的要素を際立たせるものとして最初から仕組まれているとみるべきだろう。

今年の2月、マイウェン監督の映画『ジャンヌ・デュ・ベリー――国王最期の愛人』(2023)を観たのだが、監督兼主役のマイウェンが出演していた映画『フィフス・エレメント』(1997)を思い出した。彼女がリュック・ベッソンと結婚していたときに、ベッソン監督の映画に出演したのだが、それは異星人のオペラ歌手ディーヴァ・プラヴァラグナの役で、彼女がアリアを歌うのだが、その場面が映画の中の代表的場面のひとつとして今も記憶されている。またこのとき異星人という役なの元の容貌がわからない特殊メイクでのマイウェンの登場だったのだが、今回の『ジャンヌ・デュ・ベリー』に主演している彼女をみると、『フィフス・エレメント』のときの異星人の容貌ととさほど変わらなかったということで驚いたが、それはさておき、『フィフス・エレメント』で彼女(歌は吹き替え)が歌っていたのは、ドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』(Lucia di Lammermoor)のなかのアリア「甘いささやき」Il dolce suonoであった。

私はオペラ通ではないし、オペラについてはまったく無知といっていいのだが、ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』はウォルター・スコット原作のスコットランド物であって、英文学と関係するからたまたま知っていたにすぎない。

ルチアは婚礼の夜、夫となる男を刺殺する。そして続く狂乱の場で、本来の結婚相手であった男への愛をうたうのだが、それがアリア「甘いささやき」であり、『フィフス・エレメント』で異星人のオペラ歌手(マイウェン演ずるところの)が歌っていたアリアである。ただ、それにしても婚礼の晩に夫を殺す妻。ああ、なんという絵に描いたようなオペラなのだろうか。そしてこれは、遅れた婚礼の晩(かもしれない)に妻を絞殺する嫉妬に狂う夫の物語と響きあう。『オセロー』はヴェルディによってオペラ化される以前に、すでに、絵に描いたようなオペラであった。

ダブル・タイム:『オセロー』には、喜劇的要素と悲劇的要素が混在・共存している。それは長い時間枠と短い時間枠に対応している。短い時間枠は、破滅と終末へと突き進む終わりある時間、カイロスの時間である。長い時間枠は、日常性の時間、死と再生を繰り返し終わりの来ない継続的時間、すなわちクロノスの時間である。

カイロスの時間は、悲劇に相当する。しかも『オセロー』の場合、この悲劇は、いかにもオペラにふさわしいものだった。たまたま類例というよりもただ乏しい知識のなかで思い出したにすぎないオペラの典型としてドゥニゼッティの『ランメルモールのルチア』をあげたが、このオペラはオペラ・セリア(正歌劇:ノーブルでシリアスなオペラという意味)のある意味典型であった。その対極にあるのがオペラ・ブッファ(コメディア・デ・ラルテに範をとる喜劇的オペラ)であり、この要素も『オセロー』にはある。ある意味、オセローがオペラ・セリア的要素を担い、イアーゴーがオペラ・ブッファ的要素を担うということもできるのだが、これは、オセロー自身のなかにも喜劇的要素と悲劇的要素が共存する以上、やや図式的か。

ただどうであれ、『オセロー』は、長い時間と短い時間、喜劇と悲劇、クロノスとカイロス、オペラ・ブッフェとオペラ・セリア、その他を、この対極にある要素の数々を、コインの両面のごとく、同居・共存させているのである。

posted by ohashi at 02:21| 演劇 | 更新情報をチェックする