それはともかく、劇の冒頭、イアーゴーはロダリーゴー相手に、オセローの悪口を言っている。悪口はオセローその人だけではなく、オセローの副官となったキャシオにまで及ぶ。
イアーゴー マイクル・キャシオーというフローレンス生まれの野郎だ
美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ。
One Michael Cassio, a Florentine,
A fellow almost damned in a fair wife, 1.1.21-22
【小田島雄志訳を使わせていただいた。以下、同じ。なお引用でない場合はキャシオとする】
キャシオは美しい妻のために身の破滅という憂き目をみている。具体的にいえば、「美人の女房をもらって浮気をされて泣きを見」ているということである。英語の原文からはここでいいうキャシオはすでに結婚している、美人の女房をもっているという情報を受け取ることができる。
ところが『オセロー』という芝居を読んだり観たりした者にとって、はっきりわかるのはキャシオが結婚していないということだ。彼にはビアンカというガールフレンドがいる。しかし本人は独身である。ところがイアーゴーのセリフではキャシオは結婚している――このことで昔からもめていた。
シェイクスピアの最初のプランではキャシオは結婚していた。しかし途中でプラン変更となり、キャシオは独身ということになったのだが、最初のプランの痕跡が残ってしまった。あるいはシェイクスピアはこの劇を書き始めたころはキャシオを既婚者と想定していたが、途中からキャシオを独身者にした。ただ最初のほうの、つじつまのあわないセリフを消し忘れた……。
要はシェイクスピアはうっかり者だった――ということをバカなシェイクスピア学者がいいつのってきたのだが、シェイクスピアがそれを知ったらどう思うのだろうか。憤死するのではないかと心配である。もう死んでいるのだが。
この美しい妻云々のセリフは、やや深遠な意味を読み取れないこともないのだが、しかし、単純に考えれば、そしてそれが正解だと思うのだが、イアーゴーは、何も知らないロダリーゴーに、キャシオは美人妻に苦しめられている愚か者だと嘘をついているのである。
小田島雄志訳では「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」とニュアンスを着けて訳している(仮定法的に意味をとらえている)。キャシオというのは、結婚したら美人妻に苦しめられそうなやつだというように。それは独身のキャシオと整合性をとるための措置であることはわかるが、単純に考えたほうが正解である場合もある。
劇の冒頭におけるイアーゴーとロダリーゴーのやりとりをみてみよう。長いけれども、とくに面倒な議論をするつもりはないので、ただ漫然と読んでいただければいい。
ロダリーゴー おまえ、言ってたじゃないか、あいつを憎んでいるって。
イアーゴー おれに唾をひっかけるがいいさ、それが嘘ならば。
この町のお偉がたが三人もやつのところに出むいて、
おれを副官にと頭をさげて頼んでくれたんだ。おれだって
自分の値うちはわかるさ、その地位はちーとも重荷じゃない。
ところがやつは、おのれを大事にして我を通す男だ、
長ったらしいホラ話に軍隊用語をやたら詰めこみ、
それでもって三人のお偉がたを煙に巻いちまった。
あげくのはては、
歎願却下さ。「実は」とやつは言いやがったね、
「副官の選考はすでに終えておりますので」
で、そいつがだれだと思う?
おどろいたね、人もあろうに算盤(そろばん)はじきの大先生、
マイクル・キャシオーというフローレンス生まれの野郎だ、
美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいとこだ。
だいたい戦場に出て軍隊を指揮したことなどないし、
小娘ほどの知識もない。ご存じなのは机上の空論ばかり、
それにしたって軍服には無縁の宮廷人でも
わかっているようなものさ。口先ばっかり実行さっぱり、
というのがやつの戦陣訓だ。そのやつがだよ、おまえ、
副官に選ばれてだな、このおれは、将軍の目の前で
ロードス島やキプロス島、キリスト教国や異郷の国、
いたるところで手柄をあげたこのおれは、あの算盤はじきの
帳簿の出し入れ野郎の風下におとなしく引っこまされるんだ。
やつはまんまと副官様だ、ところがこのおれは
なんたることか、将軍閣下の旗持ちだぜ。1.1.8-35
ノン・キャリア組のたたき上げの軍人たるイアーゴーが、キャリア組のエリート軍人キャシオに対して階級的怨嗟をぶつけていると理解できるこのやりとりだが、そのセリフのファクト・チェックをすれば、おそらくほとんどが嘘であろう。誹謗中傷以外の何物でもないセリフが発せられている。考えてみてもいい。ヴェニスのお偉がたが3人そろって、オセローに対し一介の旗持にすぎないイアーゴーを副官に推薦するなどということがあろうか。イアーゴーは、何も知らない信じやすい愚かなロダリーゴーに対して、自身を大きくみせようとしているにすぎない。典型的な詐欺師の戦略である。
イアーゴーの手にかかれば、オセローは情実人事あるいはエリート優遇の人事を平然としておこなう愚かな将軍であり、キャシオは実戦経験のないキャリア組の軍人で美人妻の尻に敷かれている愚か者であり、いっぽうイアーゴー自身は、のちに28歳とわかるのだが、歴戦の勇士で若くして副官になるにふさわしい優れた軍人だが愚かな将軍ゆえに冷遇されているということになる。
だがこのイアーゴーによる誹謗中傷と自己尊大化――要するにイアーゴーによる演出と自己演出――は、このあと登場するオセローやキャシオと大いに齟齬をきたすことだろう。どんなひどい将軍が、どんなひどい算盤野郎が登場するかと思うと、予想外に威厳がある人格者の将軍と将軍に忠誠を誓う有能な副官が登場するのだから。
そしてキャシオは、美人妻に振り回されるどころか、結婚すらしていないことが観客にわかった段階で、イアーゴーの嘘が、詐欺師の戦略が、誹謗中傷と自己劇化が、露見するということになろう。
「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」と訳するよりも、もっと単純に「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見ている男だ」とニュアンスなしに訳しても全然かまわないのである。またそのほうが、イアーゴーの誹謗中傷行為がよくわかる。それをバカなシェイクスピア学者によって作者の不注意などと指摘されては、シェイクスピアにとってはほんとうにいい迷惑である。シェイクスピアは死んでも死にきれないぞ。
追記:
「美人の女房をもらって浮気されて泣きを見るのがいいところだ」は、嘘を述べていないとい考えることもできる。キャシオにはwifeがいた。ビアンカというwifeが。
いやしかし、キャシオと仲良くしているビアンカはキプロス島の娼婦であって妻ではないと言われるかもしれない。だが商売女と堅気の妻とを区別することは、近代的な区分であって、もともとは、父権制において、娼婦と妻との区分はないといってもよい。
なぜなら妻とは家庭に入り込んだ娼婦だからである。この妻という名の娼婦は、基本的に安価もしくは無償の商売女である。つまり無償で男の世話をし男の性的欲望を満たす存在となった娼婦を、父権制では、妻という名をつけ、制度化したのである。
だから〈娼婦と暮らすキャシオ〉と〈妻と暮らすキャシオ〉との間に根本的な断絶はなかったのであり、したがってイアーゴーは嘘を言っていないと考えることができる?