2024年07月09日

『オセロー』

7月7日の紀伊国屋サザンシアターで千穐楽を観劇。そのためこの舞台を推薦しても、もう上演が終わっているので意味がないように思えるのだが、7月に数日別の場所でも上演するので全く無意味ではないと思う。上演期間が短いのは、最近のあるいはこれからの文学座の公演の特徴なのだが(理由は不明)、長く上演してもよい舞台だと思った(主演の横田英司復帰の舞台なので、長期公演は負担なのかもしれないが)。

ステージナタリーのネット記事から、その一部を引用すると:
これは、ウィリアム・シェイクスピアの「オセロー」を、小田島雄志の訳、鵜山仁の演出で立ち上げるもの。出演者にはオセロー役の横田栄司、裏切り者であるイアーゴー役の浅野雅博、オセローの妻デズデモーナ役のsaraのほか、石川武、高橋ひろし、若松泰弘、石橋徹郎、上川路啓志、柳橋朋典、千田美智子、増岡裕子、萩原亮介、河野顕斗が名を連ねた。

なお本作で鵜山は、文学座の代表に就任後、初めて劇団公演を演出する。初日を経て鵜山は「横田栄司の舞台復帰と、saraの劇団デビュー。オセローとデズデモーナの『向こう見ずな、運を天にまかせた』結婚をめぐって、文学座の『オセロー』、沸き立っています。 それにしても、このエネルギーの向かう先、到達点は、一体どこなんだろう。観客席の皆さんと、とんでもない旅路を共にしたいと思いながら、何か得体の知れない畏怖を感じている……不思議な初日です」とコメントした。【以下略】

鵜山仁氏のコメントは、自身が演出した舞台なのに、なにか他人事のような印象を受ける。だが、それは氏のおそらく偽らざる感想なのだろう。そう、この舞台は、鵜山氏の優れた演出もさりながら、まさになんといっても横田英司(以下俳優名は呼び捨て)の演技が起こす化学反応がなんともすごいことになっていた。まさにこれはシェイクスピア劇を材料にして展開する横田ワールドである。それは「得体の知れない畏怖」を伴う「とんでもない旅路」であるかのような観劇体験を私たちにもたらしてくれた。

もちろん浅野雅博によるイアーゴーにも、また初めて観るsaraの(評判通りの)みごとなデズデモーナにも感銘を受けたし、それは一流の演技であると確信をもって言えるのだが、なんといっても、横田英司の超人的演技はオセローのパーソナリティとその可能性の中心ともいえるものを余すところなく展開してみせてくれた。それを指して誰もが横田ワールドと言いたくなるのではないだろうか。

思い返すと、シェイクスピア劇の舞台で横田英司とはこれまで何度も出会ってきた。そのすべてを回顧できないのだが、たとえば今回の舞台をいっしょに観劇した知人から、『ヘンリー五世』(2018年5月、演出:鵜山仁、新国立劇場)のフルーエリン役が印象的だったと言われた。そのフルーエリン役については私自身一応覚えていたが、その後観た別の『ヘンリー五世』(2019年2月、演出:吉田鋼太郎、埼玉さいの国芸術劇場)でフルーエリンを演じた河内大和(いまや『Vivan』の悪役で一般にも知られるようになった)の怪演が強烈で、フルーエリンが舞台で齧る生ネギの匂いが客席に伝わってきた。この匂いの記憶が横田英司のある意味怪演を後景に押しやった観があったのだが、しかし、この『ヘンリー五世』(2019)で横田英司はフランス王という重要な役を演じていたことを忘れていた【なお、今回の『オセロー』の終幕で、殺されたデズデモーナが幽体離脱のようにベッドから起き上がり、寝室の周りを動き、最後の顛末をみているという演出があったが、この知人の考察によれば、わけもわからずにオセローに殺されたデズデモーナの魂が、事の次第をすべてを知り、最後にオセローを赦しオセローと和解するようにさせたものであった。なるほどと、洞察の深さにただただ感心をした。実際舞台ではデズデモーナの魂がオセローを抱きとめていたのだから。】

比較的最近の舞台でも、シェイクスピア関連もふくめて、ジョン・フォード『あわれ彼女は娼婦』ヴァスケス役(2016年6月、演出:栗山民也)、チェーホフ 『ワーニャ伯父さん』アーストロフ 役(2017年8月、演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ) 、シェイクスピア『アテネのタイモン』執事フレヴィアス役(2017年12月、演出:吉田鋼太郎)、チャペック『音楽劇「白い病気」』元帥役(2018年2月、演出:串田和美)、 ショーン・オケイシー『The Silver Tassie 銀杯』テディ・フォーラン役(2018年11月、演出:森新太郎)、三谷幸喜作『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』マイクロフト・ホームズ役(2019年9月、演出:三谷幸喜)【ちなみにシャーロック・ホームズ/柿澤勇人が演技なのか不覚にもなのかわからないが、舞台で吹き出してしまった、兄マイクロフトがみせる変顔というのはどういう顔だったのだろうか――客席からは見えなかったので】 、シェイクスピア『終わりよければすべてよし』パローレス役(2021年5月、演出:吉田鋼太郎) などが思うかぶ。もちろんこれ以外にも多くの舞台に出演しているのだが。

私にとって個人的に印象深かった横田英司のシェイクスピア劇出演は、『お気に召すまま』(2017年1月、演出:マイケル・メイヤー、シアター・クリエ)でのオリヴァー役だった。柚希礼音主演のこの公演では、シアター・クリエの通りを隔てて向かい側にある東京宝塚劇場よりも女性観客の比率が高く、数えるほどしかいない男性観客のひとりであった私は肩身の狭い思いをしたのだが、舞台は映像化して残しておいて欲しかったすぐれたものだった(まあ、夜の9時に幼稚園児を多数登場させた舞台でもあったので、映像化には問題があったのかもしれないのだが)。そのなかで横田英司はオリヴァーを演じていた。せっかく横田英司を使うのだから、もっとよいというか重要な役があるのに、これでは宝の持ち腐れだと最初は落胆した。オリヴァーというのは、主人公オーランドーの兄で、あとで改心して善人になる小悪党であり、なんとも中途半端な役どころなのだが、それを横田英司が演ずると信じられないほど面白く魅力的な人物に変貌した。すぐれた俳優が演ずれば、目立たない人物でもここまで驚異的な巨大な人物になるのか深い感銘を受けた記憶がある。

今回オセローを演ずる横田英司は、オリヴァーを演じた横田英司をほうふつとさせるとこがあって、オセローという人物の可能性の中心をまざまざと見せてくれたといっていいだろう。

TimeOutの記事には、こうあった:

演劇モンスター・横田栄司が「オセロー」で2年ぶりのカムバック、舞台復帰でかみ締めた思い

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の和田義盛役でも知られる俳優の横田栄司が、ホームグラウンドである文学座で、シェイクスピアの四大悲劇の一つ、「オセロー」のタイトルロールを演じる。【中略】

2022年秋に休養を発表してから約2年。ファン待望の舞台復帰となる今回、世界の名優たちが演じてきたこの役に、どう向き合うのだろうか。

そう2022年9月8日に『欲望という名の電車』を「肝機能障害と慢性疲」症候群およびメンタルヘルスに於ける不調の診断を受けたため、降板することを発表」(Wikipedia)とあってから2年(とまではいえないかもしれないが)たっていた。シェイクスピアの『ジョン王』(最初の公演はコロナ渦で中止)の再演/初演では横田英司が予定されていたが、健康上の理由で吉田光夫と交代したのは残念だった。ただ、そのまま横田英司が演じていたら、小栗旬とのからみで――つまり『鎌倉殿の13人』での北条義時と和田義盛との関係から――確実になにかアドリブが入ったと思うので、そんなものを見たくない私としては、吉田光夫で満足したのだが。

今回の横田英司の復帰はなによりも嬉しく、心から祝福したい。それも英語でいうwith a vengeanceで舞台に復帰した。猛烈な復帰である。なにしろ復帰第一作が主役の舞台なのだから。そしてこれからも、横田英司の主役の舞台を観てみたいと切に願っている。


これは批判ではない――危険な可能性への危惧めいたものにすぎないのだが、横田英司の今回のオセローは、多面的な人物像をみせてくれて、人物そのものを大きく膨らませてくれた。横田英司は演劇モンスターかもしれないが、オセローもまた横田英司を通してモンスターへ大きく変貌を遂げた。しかしいうまでもなく、異人種をモンスターへと変貌させるのは、人種差別につながることがある。今回の舞台が差別的であるということではない。ただ、差別化につながる要因はあると言わねばならない。

昔、テレビ(日曜洋画劇場)で、ローレンス・オリヴィエ主演の映画『オセロー』をみて、白人の俳優がここまで黒人になりきれるのかと、その演劇モンスターぶりに驚愕したことを今でも覚えている。映画はオリヴィエの舞台をもとに、舞台そのものではないが、簡素な空間設定で、舞台そのものをほうふつとさせた。この映画版は『オセロー』の映像化としては決定版ともいえるもので、長らく教材としても使われていたと記憶する。

だがイギリスでのこの映画の評判は散々なものだった。イギリスのあるテレビ番組で、この映画が人種差別的として批判されていたのを見て、私はただただ驚いた。しかし、この映画を見返してみれば、たしかに、黒人が、オリヴィエが演技しているように、あんなふうに目をむいたり、妙な笑い方をすることはないとわかる。ましてや黒人にとってみればオリヴィエの黒人像は差別的なもの以外の何物でもないかもしれない。

そういえばこの映画をテレビで放送したのは、日曜洋画劇場であったのだが、その時、解説者の淀川長治は、オリヴィエがオセローを演じるにあたって、動物園でゴリラなど類人猿の仕草や動作や顔の表情を観察して参考にしたという逸話を面白おかしく語っていた。その時は、子供心にもおかしいと思ったと語りたいが、そうでもなく、オリヴィエは研究熱心ですごいとしか思わなかった私はただのバカ少年だった。またそういう差別的逸話が英国から伝わり日本のテレビも無批判にそれを伝えていた。

昭和の時代のテレビ番組における不適切にもほどがある解説ということになるのだが、もしオリヴィエの逸話が本当なら、オリヴィエとしてはオセローを超人的な異人種というモンスターにしたくて動物をモデルにしたのではないか。もちろん黒人=類人猿という差別的な同一化も念頭にあったことはまちがいなのだが。

今回のオセローのモンスター化は、差別的意図はないと思うが、差別的に受け取られるかもしれない危険領域に足を踏み入れているところがなきにしもあらずだろう。ヴェニス社会における異人としてオセローに、暴走する野蛮人あるいは獣人のイメージをまとわせるという意図はなかったかもしれないが、図らずもそうしたイメージを生んだということなのかもしれない。

ただオセローのモンスター化はシェイクスピアの意図でもあったのだろう。いまでは珍しくなったが、しかし難病としてまだ人を苦しめている病気にてんかんがある。オセローはてんかんの発作を起こす数少ない登場人物の例である。横田英司の、てんかんで倒れるオセローの演技はリアルではなかった。そこは配慮があったのだろう。モンスター化の要素に病人をもってくるのは現代では控えるべきであろうから。しかしシェイクスピアの時代は病人は差別的処遇の対象になっていた。

あと、横田英司の声は大きくて劇場内によく通り、しかも、言葉一つ一つが明晰で、理想的なデクラメーションを発声できる俳優のひとりとして特筆に値しよう。私としては、そのまま最後まで大きくまた聞きやすいセリフ回しを続けて欲しかったのだが、これはシェイクスピア劇だけのことか、あるいは一般的な傾向なのかわからないが、セリフに強弱をつけて、大きな声で、ときには絶叫調でセリフを語ったかと思うと、ささやくような小声でセリフを語ったりすることが多い。小声でのささやき声のセリフでも劇場のマイクが拾ってくれて聞き取れないことはないのだが、それでも聞き取れなくなることはある。

オセローの最後のセリフは、ヴェニスからの使者にむけての、辞世の演説(まあ、こういう表現があるかどうか知らないが)であって、そこは横田英司の朗々たるセリフを聞きたかった。実際その最後のセリフは、T.S.エリオットがオセローという人物の自己劇化、自分を元気づける・景気づけるものとして、その愚かさを批判的にみたところだった(シェイクスピアはそのような人物としてオセローを作ったとエリオットは考えた)。たしかにオセローはヴェニスからの使者を前にして語るのであって、それを小声で語るというのは意味がとおらない(実際に、その最後の辞世の演説では、演説ではなく、ささやきであったので、聞き取れなかった言葉も多かった)。エリオットの所説を確認することすらできなかった。

とはいえオセローの最後のセリフについて、エリオットが自己劇化だのボヴァリズムだのと突き放して考えたことについては、セリフの違和感に敏感なエリオットの優れた感性の証しであることはまちがいないだろうが、結論はおかしい。というのも、繰り返すが、それはオセローの辞世の演説である。このあとオセローは自害する。これはヨーロッパ人がしないことである。むしろ辞世の句を詠んで切腹する日本人のサムライがするようなことである(辞世の句は東アジア的であるという説もある)。しかしシェイクスピがサムライと切腹と辞世の句を知ることなどなかっただろうから、日本を念頭に置いたわけではなかっただろうが、これはまちがいなく非ヨーロッパ人の異人種の死の儀礼なのである。

実際、オセローの最後のセリフは、愛する女性を騙されたとはいえ殺してしまった自分は、愚かな異教徒・異人種・ムーア人、総称して黒人であって、黒人化してしまった自分をこうして処罰することで、自分は白人の魂を最後まで失うことはなかったとして、自害するのである。なんという名誉白人かと、痛ましく思うのだが、同時に、切腹のようなかたちで自害することによってこの名誉白人は、最後は、あるいは最後まで異邦人・異教徒であることを印象付ける。非ヨーロッパ人であるオセローは、イギリス人よりもヴェニス人よりも日本人に近い、あるいはオリエント的アジア的存在なのである。

この重要な儀礼的なセリフの部分、辞世の演説が、小声で消え入るような声で発せられたのは、残念である。ただし、横田英司は、あるインタヴューで、自分の声を大きさにコンプレックがあると語っていた。体格がよすぎたり、背が高すぎたりする人がもつ、コンプレックスのようなものを横田英司も自分の声に対してもっていることに驚いた。むしろ自分の声が通らない、人の注目を集めないということでコンプレックスをもっている人が多いのに、これはなんという贅沢なコンプレックスなのか。舞台人なら、ふつう、どこまで大きな声が出せるか、どこまで劇場の隅々まで自分の声を届けることができるかに集中するところ、その心配はない横田英司は、どこまで小さな声でセリフを発せることができるかに集中したきらいがある。ご本人にとっては常に念頭にある重大問題なのかもしれないが、それによって聞きづらくなった台詞が多少あったのは、瑕疵ではないが、やや残念であった。
posted by ohashi at 02:57| 演劇 | 更新情報をチェックする