私の知る限り誰も語っていない説なのだが、まあ私の考えることだから、ほかの誰かが思いつくことは十分に考えられる。また、しっかり考えたことなら、絶対に、ほかの場所でもほかの誰かが同じことを考えているはずだと思うべきで、それは落胆すべきことではなく、新たな発見と洞察が共有されてゆく希望につながるのだという趣旨のことをエドワード・W.サイードが語っていたことを思うと、たとえ珍説と言われようとも、たとえすでに誰かが多語っていたとしても、私としては自信をもっているこの説をここに記すことは、この説が広く知られるための一助にはなるはずで、無駄ではあるまい。
シェイクスピアの『ハムレット』の第二幕第二場の最後、旅役者たちの朗誦を聞いた後、ひとりになったハムレットは、復讐に手間取っている自分はなんと見下げ果てた男だろうと長い苦悶の独白をする。『ハムレット』のなかの多くの独白のなかで、この独白は最長のものである。そして自分自身を責め苦悩するハムレットのこの鬼気迫る独白には観客は圧倒されるしかない。
問題はこの独白の前にハムレットが旅役者にする指示である。明日の晩『ゴンザーゴ殺し』という芝居を上演できるかとハムレットは尋ねる。できますという答えを得たのちに、ハムレットは、セリフを追加したいが大丈夫かというと、大丈夫ですと旅役者は答える。この部分はQ1をはじめとしてQ2でもF1に存在する。これが問題なのある。
【参考までに、その箇所を引用すると
『ハムレットQ1』安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫、p.75 8(2・1)
ハムレット あ、ちょっと。お前たち「ゴンザーゴ殺し」はやれるか?
役者一、二、三、四 はい。
ハムレット それなら、私が十二、三行台詞を書き加えたら、それも覚えてえもらえるな?
役者一、二、三、四 はい、そのくらいなら雑作〔ぞうさ〕なく。
『ハムレット』松岡和子訳、ちくま学芸文庫、p.110(2.2)
ハムレット (役者一に)おい、待ってくれ。『ゴンザーゴ殺し』はやれるか?
役者一 はい、殿下。
ハムレット 明日の晩、見せてもらおう。できれば十五、六行ほど台詞を書き加えたい、覚えられるか?
役者一 はい、殿下。
ふたつの訳文が異なるのは、原典が異なるからであり、訳者の問題ではないことは明確にしておきたい。】
何が問題かというと、この後(翌日という設定)旅役者たちはハムレットの要望どおり『ゴンザーゴ殺し』をクローディアスとガートルードという国王夫妻の前で上演する。その芝居は、クローディアスによる先王ハムレット殺害を強くにおわせるもので、クローディアスがそれを観て動揺するかしないかをハムレットはじっと見ている。またその芝居のセリフには、ハムレットが追加した12行から16行のセリフも含まれているだろうと推測できる。なにが問題なのかと思われるかもしれないが、これは大問題なのである。
というのも、クローディアスに、この芝居をみせてクローディアスを動揺させようと決心したのは第二幕第二場の独白の最後においてである。つまり長い独白の最後にハムレットは『ゴンザーゴ殺し』の上演を思いつくのである。
【これも参考までに、その箇所を引用すると
『ハムレットQ1』安西徹雄訳、光文社古典新訳文庫、p.76 8(2・1)
ハムレット ……考えろ、考えるのだ。そうだ、聞いたことがある。罪を犯した男が、芝居を見ていて、舞台の真実に魂を揺すぶられ、思わず、殺人の罪を白状したことがあるとか。……確かな証拠がほしい。芝居だ。芝居を使って、奴の良心を罠に掛ける。それだ。
『ハムレット』松岡和子訳、ちくま学芸文庫、p.113-114(2.2)
ハムレット ……頭を使え。そうだ――聞いたことがある。
罪を犯した者が芝居を見ているうちに
真に迫った舞台に
魂をゆさぶられ、
その場で犯行を自白したという。
殺人そのものに口はないが
不思議な力の働きでひとりでに語り出すものだ。
あの役者たちにいいつけて、
父上の殺害に似た場面を
親父の目の前で演じさせよう。……
……
確かな証拠がほしい。それには芝居だ。
この罠で王の罪の意識をあぶり出してみせる。】
しかし、独白の前にハムレットは旅役者に『ゴンザーゴ殺し』を上演するようにたのんでいたし、おまけにクローディアスを苦しめるであろうようなセリフを追加することにしていたのだ。ところが、独白のなかでハムレットは、突然、あたかもはじめてであるかのように、クローディアスを動揺させる芝居の上演を思いつくのである。
これはなぜか。段取りが狂ったのだろか。実際、そのように考えられてもきた。『ゴンザーゴ殺し』の上演とセリフ追加の確認のところは、ハムレットのこの第二幕第二場の独白のあとにもってくるはずだったのが、独白の前に置かれることになった。不注意で、あるいは適当な置き場がなくてということか(とはいえハムレットは第三幕第二場の冒頭で役者たちに指示をあたえているから、そこに『ゴンザーゴ殺し』と追加のセリフに関する情報を入れることは可能だったはずだ)。
Q1でも、それ以後の版でも、『ゴンザーゴ殺し』とセリフ追加の件は、独白の前に置かれている。作者も劇団関係者が不注意だったかもしれないのだが、さもなければ彼らは、そこが不適切な場所とは思わなかったということだろう。となるとそこにはどんな意味が込められていたのか。
これに関連してもうひとつの不思議な箇所がある。第二幕第二場の独白で、ハムレットは最初に、ようやくひとりになれたというのだ。
ローゼンクランツとギルデンスターンに別れを告げたハムレットは、“Now I am alone”【松岡和子訳では「さあ、独りになった」】と言い、“O what a rogue and peasant slave am I!”以下の独白をはじめるのだ。
だが、ポローニアスも、旅役者たちも、ローゼンクランツとギルデンスターンも退場した直後のことである。ひとりになったことは、わざわざいわなくてもわかるのではないか。なぜこんなことを口にするのか。
独白がはじまることの合図といわれるかもしれないが、独白とは心の中の声とか思考である。そのためにはひとりにならなくてもいい。周りに人がいてもいい。たとえ役者が大声で独白のセリフをまくしたてても、それは心の声だから周囲の人物には聞こえていないというのが大前提である。むしろ周囲に人がいたときに限り、以下のセリフは、誰かへの語りかけではなくて、心の中の声、独白であることを、観客が誤解しないように、何かセリフを付け加えることがあるかもしれないが、周囲に誰もいなくなってからの、一人語りは独白以外のなにものでもないので、さあ、独りになったという述懐は異様である。
この、さあ、独りになったという述懐の違和感を扱った日本語の論文を私は以前読んだことがある。鋭い着眼点に敬服したのだが、残念ながらどういう結論だったのか忘れてしまった。それは私がその結論に納得しなかったか、あるいはその結論の意味をその時は理解できなかったかのいずれかだったのだろうが、ひょっとしたら、今私がこれから披歴しようとしているのかもしれないことは、その論文で先取りされていかもしれないことを断りつつ――
ハムレットは、旅役者たちに、その場で、芝居の一部をやってみせてくれと頼む。正確にはトロイ陥落を扱う芝居の語り、ナレーションの朗誦が求められる。語る旅役者は特定の人物を演ずるのではなく、口上役としてのセリフを朗誦する。だが、その朗誦のなかで旅役者は顔面蒼白になり両眼には涙を浮かべはじめる。それをみていたハムレットは、いったい旅役者は、どのような劇中人物に憑依したのか。なぜ涙を流したのか。その涙は誰による誰のための涙かといぶかるのだ。古代ギリシアの神話世界の出来事にすぎないトロイ戦争の物語、それも老王の死とその妻ヘカベの悲嘆と絶望をめぐる朗誦に、かくも感情移入できる役者とは対照的に今の自分は、身内の出来事にもかかわらず冷静で何もできないなさけない人間だという長い自己譴責が始まる……のだが。
ではなぜ、このとき、ようやくひとりになれたと述懐するのか。そしてすでにある『ゴンザーゴ殺し』の上演計画を、なぜ長い独白の最後で思いついくのか、あるいはふりをするのか。
私の答えは、旅役者の鬼気迫る朗誦に接したあと、それに刺激された、芝居好きのデンマークの王子が、自分も役者のように、セリフを朗誦してみようと思い立ったのではないか。それが第二幕第二場の独白となる。
子供は言葉を覚えるとき、ひとりで、親に隠れて、言葉を反芻して覚えることがよくある。実際に言葉を使う前にリハーサルしているわけである。子供時代のことなので私自身はそういう記憶はないが、子供をみているとそれはふつうに起こっている。また子供が、好きなアイドル歌手の歌や振付をまねるときにも、マスターするまでひとりでリハーサルしていることはよくある。ハムレットも、プロの旅芸人のみごとな朗誦を聞いたあと、ひとつ、誰もいないところで自分もやってみようかと思い立ったのではないか。
子供がひとりで隠れてなにか言葉や踊りの練習もしくは実演をしているというのが、私にとっては、このアイデアの原風景である。もちろん子供は、みんなの前で、親や友達のまえで、ほめてもらうために最初から実演してみせることもあるかもしれない。しかし子供ではなく大人になれば、さすがに人前でのリハーサルもいきなりの実演も抵抗がある。ハムレットのように周囲に誰もいないことを確認して、自分でも朗誦を試みるのである。
ではハムレットはここで何を朗誦しようとしているのか。旅役者が口にしたトロイ戦争を扱った芝居の口上ではない。ハムレットが自分ひとりで独白を試みた、その芝居あるいは筋書きとは、ハムレットという人物の現在の状況における苦悩と葛藤と決意である。おそらくそれは漠然としたものであろう。文字化された台本ではない。しかし独白することで内的思考が完成する。また独白と内的思考とは同時に起こっているのだが、内的思考が先行する台本であり、それを暗記し、その人物になりきったハムレットがいるというかたちになる。つまりハムレットは演技をしているのである。自分自身を演じているのである。
このことが明確になるのは、『ゴンザーゴ殺し』上演計画のおかけである。この劇の上演は、すでにハムレットの頭のなかにある――旅役者に上演を指示したのだから。そして長い自虐的な独白の最後に、上演をいま突然思いついたかのように語ることで、浮かび上がるのは、そうした上演計画をあらかじめもっていた人物を、いまハムレットは独白を通して演じているということである。ハムレットの独白は真率の直接的な心情吐露ではなく、独白する行為=演技を、こっそりと人にみられることなく、ある種の自己満足も伴いながら、悲劇的葛藤のなかにある人物、苦悩する人物、またその苦悩から活路を見出す人物を演じているのである。この独白に先行して『ゴンザーゴ殺し』上演計画があることで、この独白の再現性と演技性が際立つ。
繰り返すが、問題となるこの独白は、ハムレットという人物が自分の心の声を舞台に響かせるというのではなくて、悲劇的葛藤にとらわれた人物の長い独白を、みずから演じてみせたということである。演劇好きのデンマークの王子は、劇作家のようにセリフを書いたり、演出家のように役者に指示をあたえたり、評論家のように上演の出来栄えを判定するだけでなく、またたんに好きな芝居のセリフを覚えるだけでなく、みずからも劇中人物になりきって演ずることを試みたのである。そもそも、そうせずして何が演劇好きといえるのだろうか。繰り返すが、演劇好きの王子は、プロの旅役者の朗誦に刺激されて、みずからも長い独白を演じてみたくなり、誰もいないところで、そうしたのである。「さあ、独りになった」
【余計な想像だが、ひとりでリハーサルするとか実演するというのは、子供に限ったことではない。イングランド中部の田舎町に育った演劇好きのウィル少年は、旅役者たちの巡業に刺激をうけて、みずからも一人で朗誦を試みたり、劇中人物の一人になって演じたりしたにちがいない。また当時の俳優になる条件としては、朗誦がしっかりできること、歌って踊れること、また剣劇ができることであったが、ウィルはこれらを演劇学校などない田舎町で、ひとりで練習に励んでいたにちがいない――「さあ、独りになった」。人に知られたり見られたりするのは恥ずかしだろうから、周囲に誰もいなかことが重要だった。かくしてシェイクスピアがロンドンに上京したときには素人ながら未完成ながら役者の条件を満たしていたことは想像にかたくない。】
ここからいえることは多い。
ひとつは、ハムレットの心の声、その率直な吐露と思えたものは、演劇好きの王子の実演であったのであり、本心は、たとえあいまいなものであっても独白に先行していたとなると、この独白するハムレットと、ハムレット自身とは距離がある。
ただし本心と心情吐露行為との間には距離があっても、どちらも相互に支えあっていることも事実である。大筋はできていても細部が未完成の本心は、独白によって細部と全体を完成させることになる。しかも劇中人物の心情として。これはまた主体が演劇的ペルソナとして構築されるということである。
近代的主体とは、自分自身とは一致しない、あるいは自分自身と距離をもつ、演劇的主体であるとやや大げさに宣言できるかもしれない。
いいかえるとこれは虚構と現実との関係において、現実の価値が減少するというか、現実と虚構とがせめぎあい、ときには混然と一体化するといってもいい。
たとえばデンマークの演劇好きの王子は、プロの旅役者の朗誦に感銘をうけ、自分でも試してみる(これが私の説)アマチュアなのだが、しかしプロとアマチュアとの関係は、舞台では逆転する。なにしろ旅役者を演ずる俳優は、シェイクスピアが所属する劇団では端役を演ずるメンバーであり、演劇の好きのアマチュアであるデンマークの王子は、ハムレットという主役を演ずる俳優であって、その朗誦の質は、おそらくハムレットを演ずる者のほうが、つまり劇中では演劇のど素人のほうが格段に優れているであろう。旅役者(プロ)とハムレット(アマ)という劇中の関係(虚構)が、劇場では、ハムレットを演ずる主役クラスの俳優と旅役者を演ずる端役の俳優との関係(現実)とせめぎあう。この劇は、この劇作家は、その優位性の揺れと戯れているということもできる。
あるいは言い方を変えると、虚構と現実の混然一体化は、同時に、現実が虚構でしかなく、虚構が現実であるという、ある種の乖離現象にもつながるはずである。これが次の有名な“To be or not to be…”の独白にもつながっている。つまりこの有名な独白は、どこか他人事なのである。自分の気持ちを他人事のように、あるいは非人称の朗誦のように、本心や肉声とはどこかずれている仮面の告白のように語るのだから。
また、さらにいえば、近代的自我の確立というは、自我意識が確固たるかたち出来上がるということではなく、自我をみつめるもうひとつの自我の誕生を意味するのかもしれない。いいかえれば近代的自我とは、自我の分裂の別名なのである。かりに第二幕第二場のハムレットの独白にかぎっても、この独白は、直接的・無媒介的・自然発生的な嘘偽りのない心情吐露ではない。そんなものは、もう消え去った。独白は心情の吐露ではなく、心情の構築であり、すでにあるモデルや筋書きにもとづいて、あるいはなぞらえて、自我を生成することである。演技する自我あるいは演技によって生成・完成する自我といってもいい。古き良き時代よさらば。いまは、自分が自分を斜に構えてみているような、純粋な行動ではなく、つねに演技性を意識しないではいられない自意識過剰な演劇としての行為しかなくなった。人間はみな役者になった。人間は分裂したといってもいい。もう分裂以前の全一的な人間にはもどれない。『ハムレット』第二幕第二場の最後の独白は、自我の分裂、自己の亡霊の誕生、演技する自我の時代への、まさに開かれではなかったか。
いや、なにをバカな。子供が親をおどろかしてやろうとこっそり歌の練習をしているように、ハムレットも、芝居好きがこうじて、誰もいないところで、悲劇役者がよくする自虐的・自己譴責的な台詞を朗誦してみようとした? しかも、この発想のオリジナリティは、すでに誰かにもっていかれたと心配している? そんな珍奇なことを考えるのは、おまえだけだ。オリジナリティのことを心配する必要はない。いったい誰がこんな珍説を思いつくのだ。こんな珍説に納得などしないという方々もいるかもしれない。
だが、ならば問いただしたい。そもそも『ハムレット』第二幕第二場でシェイクスピアはものすごく攻めていて、斬新で大胆な実験を試み、演劇性の限界へと到達しているのだが、それは舞台で旅役者に延々と朗誦をさせ、そのあとハムレットに長い独白をさせるという構成によくあらわれている。旅役者のパフォーマンスがハムレットの独白を汚染する、あるいは異化するのではないか。いいかえれば、なぜ旅役者のパフォーマンスをもってきたのか。これはハムレットの独白の人為性・演技性をいやがうえにも喚起するものではないか。観客は、ハムレットが自己の心情や決意を語っていると思うよりも先に、悲劇役者として悲劇の主人公として演技していると思えてならないのではないか――、と、そう私は問いたいのである。