2024年05月29日

『マーヴィンズルーム』

5月24日から6月9日まで、劇団昴によるスコット・マクファーソン作の有名な戯曲『マーヴィンズルーム』を上演中。訳・演出=田中壮太郎、会場=Pit昴/サイスタジオ大山第一。Cast:米倉紀之子/ベッシー、あんどうさくら/リー、佐藤しのぶ/ルース、岡田吉弘/マーヴィン、赤江隼平/ハンク、屋鋪琥三郎[児童劇団「大きな夢」]/チャーリー、磯辺万沙子/ウォーリー医師、林佳代子/シャーロット医師、岩田翼/ホーム長、白倉裕人/ボブ。

訳・演出の田中壮太郎氏の作品としては、2022年の『ラビットホール』以来だが、『ラビットホール』、映画にもなった有名な作品で、田中壮太郎氏の演出と出演者たちの演技で満足したし、なおかつ映画も見直したこともあって、2023年のパルコ劇場での『ラビットホール』は観なかったというか観る必要を感じなかった。パルコ劇場での『ラビットホール』は、藤田俊太郎氏の演出で、翻訳も小田島創志氏で、魅力的ではあったのだが、観なければいけない義理もないし、作品自体、大劇場には向いていない気がしたので。また小劇場のPit昴/サイスタジオ大山第一での上演は、舞台装置が松岡泉氏によるもので、美術面では、こちらのほうに軍配が上がるとも考えたので。

『マーヴィンズルーム』も有名な作品である。作者のスコット・マクファーソン自身が映画のために書いた脚本に基づいて映画化もされた。『マイ・ルーム』(このタイトルは日本側で勝手につけた意味不明のタイトルかと思ったが、アメリカで映画会社がつけたものだった)は姉のベッシーをダイアン・キートンが、妹のリーをメリル・ストリープが、リーの息子でベッシーの甥をレオナルド・ディカプリオが演じていた。またポンコツ医師かもしれないウォーリー医師を映画ではロバート・デニーロが演じていた。

私は原作は読んでいないが、而立書房から出版されている(1998年)松本永実子氏の翻訳で読んだ。今回の上演でも、而立書房の翻訳を販売していたようだが、まだ在庫があったのか、あるいは増刷したのかわからないが、翻訳者(演出家でもある)松本氏が亡くなっていたことには驚いた(もっとも本には松本氏の年齢は書かれていなかったので、享年はわからない)。今回、田中氏の翻訳を使うということだが、松本氏の翻訳との大きな違いというのはなかったように思う。【映画の字幕はひどいのだが、原作の翻訳は信頼がおける。】

率直な感想として、原作のよさをうまく引き出した優れた公演で、観る価値は絶対にある。また今回の公演で、ずいぶん前に観た映画と、これもずいぶん前に読んだ翻訳では気づかなかったことを新たに発見することもできた。その意味でも、今回の公演に感謝したい。観る価値のある誰にでも推薦できる公演である。

またスタジオは小さいので、どの座席に座っても舞台がよく見える。私は今回は前から二番目の席で、前の列の観客が、別に大柄な男性ではなかったのだが、私の視界の三分の一以上を占めていたのだが、舞台に近いため演者の顔や表情がよく見えるので、その迫力で、視野の狭さが十二分に補えた。



あと雑感。

劇中、みんなでディズニー・ワールドへ行く場面があるのだが、映画では面白い場面だったが、小さな舞台では無理な設定ではないかと思った。とはいえ、そんなことはどうでもよく、ディズニーは著作権にうるさく、よくこんな設定で芝居ができたものだと驚いた。今回の公演でも、ディズニー・ワールドで聞こえてもおかしくない音楽を使っていたが、そのものではない。そのものを使うとディズニーの著作権警察がうるさいし、高額の著作権をとられるか、罰金をとられるか、公演が中止に追い込まれかねない。そのことは原作者もわかっていると思うのだが、あえて攻めたのだろうか。もっともディズニー・ワールドの悪口をいっているわけではない芝居なので、余計な心配かもしれないが、ただそれにしてもディズニーはめんどくさくて危険である。【ちなみに今年、2024年はショーン・ベイカーの作品がパルムドール賞を受賞したのだが、そのショーン・ベイカー監督の2017年の映画『フロリダ・プロジェクト――真夏の魔法』では映画の最後の方に実際にディズニー・ワールドへ行く(ただし夢という設定だったように思うのだが)場面があり、あれはゲリラ撮影のようだったが、その後、ディズニー側ともめたりしなかったのだろうか。これも余計なお世話だが。】



公演のパンフレットには、公益財団法人日本骨髄バンクの広報渉外部長による寄稿があった。白血病には骨髄移植が必要で、この作品が書かれた頃には適合者を探すのは至難の業だったこと、そして骨髄バンクによって適合者が見つかりやすくなったこと、しかし現在ドナー登録者の多くが54歳以上になって大量のドナー引退時代を迎えようとしていて、骨髄バンクがピンチ状態にあるという、実に深刻な内容の文章だった。

白血病も、癌(白血病も血液の癌なのだが)も、エイズも、いまや誰もが怖れる病気ではなくなったというのんきなことをいう人間がいまもいるのだが、それらは基本的に不治の病である。そのうちどれかに罹ったら死を覚悟するしかないことは、今も昔もかわりない。骨髄バンクがあるから白血病は怖くないなどと言っている時代ではないのだ(骨髄バンク自体が危機に瀕している)。この作品における白血病は、ゲイであり、また余命いくばくもなかった作者のエイズのメタファーだと思っていたのだが、もちろん、そうした面はあるのだが、同時に、メタファーに収まらない独自の存在感を主張していることが、今回の骨髄バンク関連の寄稿によって認識できた。



その骨髄だが、演出の田中壮太郎氏が、Marvinという名前を調べてみたら、「その由来が元々ウェールズ地方の名前で「marrow(骨髄)」からきている、というものでした。作家が意図していたか、ただの偶然かわかりませんがそれを発見した時、ちょっと鳥肌が立ったのを覚えています」とパンフレットに書かれている。

田中氏が、何を参照されたのかわからないが、たとえばWikipediaにはこんな記述がある:
Marvin is a male given name, derived from the Welsh name Mervyn, an Anglicized form of Merfyn. The name Merfyn contains the Old Welsh elements mer, probably meaning "marrow", and myn, meaning "eminent".

あるいは“Meaning of the Name”というサイトのMarvinの項目では、こんな記述も:
Marvin is a Welsh name in origin, predominantly used in English and German. It is derived from the Welsh name 'Merfyn', composed of the words 'mer', which means 'marrow', and 'myn', which means 'eminent or great'.

ここでいう骨髄とは、解剖学的な意味での骨髄ではなく精神的な意味での「精髄」とか「大黒柱」という意味だろう。ベッシーが父親Marvinを介護しているこの家(あるいは舞台)の後景にあるのはMarvinという大黒柱がいる部屋なのだ。この満足に言葉も発せられない痴呆症になった老父が、ベッシーの生を支えている大黒柱とは、いったいどういう意味なのだろう。

どういう意味とは、どういう意味なのか。そもそもそれはそのままの意味でしかない。介護生活とは、寝たきりの病人がその中心軸にある。そしてその病人を介護することで介護人たちの人生と生活が決定される。寝たきりの病人は、介護生活の中心、王様もしくは女王様、精髄の心髄であり、介護する者たちの人生に君臨し、彼らの人生を棒にふらせる。しかし、この棺桶に片足をつっこんでいる病人は、介護人に多大の犠牲や奉仕を強いるだけではない。介護する者たちに生の意味と愛の対象を与えるのだ。

介護はつらいし耐えられない。介護する者は自分の人生を棒に振る。しかも見返りなどないのだ。実際、この作品で20年父親の介護をつづけているベッシーにとって、父親はもはや彼女の存在すら認知できない頭脳状態にあって、感謝の言葉も期待できないというか感謝しているのかどうかもわからない。しかしそれでも、あるいはだからこそ愛せるのである。

ベッシーは、妹のリーに、自分の人生は恵まれていたという。寝たきりの父や伯母から信頼され愛されたからかと妹はいうが、ベッシーは、そうではなく、ふたりをほんとうに愛することができたからという。自分には愛する人たちがいたからだという。この愛はいっぽう通行である。見返りなどない。絶対にないからこそ愛せるのである。これは片思いということではない。たとえば重度の障害を抱えた子の親は、親のことさえ認知できず、当然、感謝すらしてもらえない子のことがいとおしくてたまらないという。見返りなどないからこそ愛せるのである。これは、障碍者は介護する者に害をなすだけで殺してもかまわないという邪悪な犯罪者には絶対にわからないことである(そもそも平気で多くの人を殺せる者に人間的感情を求めても、また基本的な理解力を求めても無駄なのだが)。まただからといって介護の困難さを軽減する社会的努力をやめてはいけないこと、それが介護人への報酬を忘れてよいという理由にはならないことは強調しておかねばならない。

おそらくこうした無償の愛が可能なのは、愛の対象が家族だからであろう。家族以外の者にそれを感ずることはむつかしいかもしれない。もちろん家族の定義を広げ、疑似家族的関係を含めるときには愛の対象は広がるとしても。これが家族愛の不思議であり神秘である。それは最も脆弱で最も無力なもの最も無意味なものが家族において――良い意味でも悪い意味でも――中心軸になることを、この作品はあらためて私たちに思いたらせることに成功している。



この劇のなかに、劇全体の主題を暗示するようなベッシーのセリフがある。あたかも中心紋のように、劇中のなかから劇全体を照射するようなエピソードが語られる。
【「中心紋」は「紋中紋」ともいい、Wikipediaの次の簡潔な定義を参照のこと。紋中紋(もんちゅうもん)は、主に芸術作品において、あるモティーフ(または主題)の中に、同じようなモティーフが入れ子構造で入っている表現・手法をいう。フランス語ミザンナビーム(Mise en abyme. 「底知れぬ深みに置くこと=入れ子状態に置くこと」といった意)の訳語。】
ここでは中心紋がベッシーの語る経験を通して語られる。妹のリーから、好きになった人はいなかったのかと聞かれたベッシーは、実は、移動遊園地の観覧車係の男性が好きだったと語る。その男性は笑い方が特徴で、大口をあけて笑うのだが、声がでていなかったというのだ。ただ、その恋は悲劇的結末を迎える。移動遊園地の家族とかスタッフでピクニックに出かけたとき、その男性が川に入っておどけて見せた。その男性は大きな口をあけて笑っているようにみえた。だが、実は溺れかかっていたのだが、誰もが笑っているものと思い、助けようともしなかった。そしてその男性は溺れて死んだというのである。

死にかかっている。あるいは必死で助けを求めているのに、笑っているように、幸せそうに思われてしまう。道化師の悲哀といえばそれまでだが、この劇の主題を集約しているのではないか。

実際、主人公のベッシーは溺れかかっている。彼女が介護している父親や世話をしている伯母には、もう先がない。余命いくばくもない。痛みをとるための装置をつけているという伯母のルースにしても、そのような装置、あるいは鎮痛薬というのは、病気を治すのではない、はかない延命装置にすぎない。そして介護をするベッシーは白血病にかかり、骨髄移植の適合者を身内には見つけられないのである(実際、気の合う甥のハンクが適合者ではないかと期待させるように劇は作られているのだが、そのような甘い期待を劇は最後には打ち砕く)。ベッシーは死にかかっている。いや、父親のマーヴィンも、伯母のルースにも、そして介護するベッシーにも確実に死が迫っている。彼らは、とりわけベッシーは溺れかっている。彼女が愛し、溺れ死んだ男性と同じく、ベッシーも溺れかかり死にかかっている。

笑っている人間は、助けを求めて叫んでいることもあろう。彼らは絶望のあまり泣き叫んでいるかもしれない。だがその絶叫も慟哭も聞こえない私たちは、笑い顔しかみえないために、幸福な恵まれた人生と生活を想像するしかない。このなんという真昼の闇。陽気に生きようとする主人公の、底知れぬ絶望と救いのなさに、私たちは言葉を失うほかはない。そしてそのときの私たちの顔は、声を出さずに笑っているように見えるのかもしれないのだ。
posted by ohashi at 13:10| 演劇 | 更新情報をチェックする