シェイクスピア劇のテクストは幕(Act)と場(Scene)に区切られている(「場」は演劇台本一般では、昔は、あるいはいまも、「景」と表記することもある)。「場」はどこで区切られているかはわかる。シェイクスピア劇の場合、舞台に誰もいなくなったら、そこが場面の終わりである。最近の演出では、前の場面が終わっていないうちに次の場面の人物が登場したりすることも多いが、それでも場面の終わりとはじまりはわかる。
では「幕」は、どうやってわかるのか。そもそもシェイクスピアの時代の劇場に昇降させたり引いたり開けたりする幕などないから、どこが幕の終わりか、劇場内に、これは第二幕ですというような表示でもしないかぎり観客にはわからない。そもそも幕と日本語に訳されているのは英語ではActである。
ただギリシア・ローマの古典劇ではActの切れ目は観客にわかる仕掛けになっていた。それは舞台に誰もいなくなったときが幕の終わりであった。古典劇は幕と場に別れている。では場はどうやって区別したのか。それは舞台上の人物の増減によって場を区切ったのである。すでに登場していた人物が減れば、それが場の終わりになる(ただし全員退場したら幕の終わりになる)。また新たに人物が登場するとき、それが新しい場となる。したがって古典劇の場合、幕と場は明確に区別できた。
実際、シェイクスピアの時代にも、この古典劇の「幕Act」と「場Scene」の切り分けで書かれた作品もあったが(代表的なのがシェイクスピアの同時代人であるベン・ジョンソンによる戯曲)、シェイクスピアは、この方式を採用せず、場面の終わりごとに舞台上から人物を全員退場させる方式にした。したがってシェイクスピア劇にかぎっては、「幕」の概念はない。繰り返すが、観客は、どこが「幕」の終わりか判断する材料はなかったのだから。
したがってシェイクスピアは場面中心の劇作家である(“Scenic Playwright”と呼んだりする)。とはいえ現行のシェイクスピア劇のテクストは「幕Act」と「場Scene」に別れているのはどうしてかと疑問に思われるかもしれないが、これは後世になって付け加えたのである。勝手にといえばそれまでだが、一応、古典劇の構成にのっとって幕と場面に分けた。だから、それはシェイクスピアのあずかり知らぬおところであり、観客にとってもどうでもいいことである。
といえ古典劇の「幕」(基本は5幕形式)と「場」という形式をシェイクスピア劇に当てはめると、なんとなくうまく当てはまったということも事実であり、シェイクスピアは無意識のうちに古典劇の5幕形式で芝居を書いていたともいえる。
さらにいえばすでに述べたように、シェイクスピアと同時代の演劇作品にも5幕形式の古典劇形式で書かれたものもあったので、古典劇形式についてシェイクスピアならびに同時代の劇作家が無知であったということもなく、たとえ5幕形式に従わずとも、それを意識していたことは充分に考えられる。
あと、住所の番地表記の場合、住戸の通し番号だけだったら、たとえば東京都678900番という表記は、場所がどこかイメージしにくい。また探すのもたいへんである。東京都千代田区~2丁目3番地といった表記のほうがわかりやすく探しやすい。「2幕4場」という表記はたとえ後世における付加だとしても便利であることも事実である。
現代のシェイクスピア劇の場合、ふつう途中で1回休憩を入れるから、観客には前半と後半という区切りがわかる。現代のシェイクスピア劇は、いうなれば二幕構成で上演されるといってよい。劇場によっては時間配分表に前半を第一幕、後半を第二幕と表記しているところもある。もちろんどこで区切るかは演出家の判断によるが、ただ前半と後半の区切りは、原作の場面の区切りにあわせるのがふつうであろう。なんとかゴッドウィンという演出家が日本での『ハムレット』公演で行った愚かしい区切りのような例外はあるにしても(この件については2024年5月14日の記事で触れた)。
しかし前半と後半の区切りは、幕と場の区切りとは異なり、シェイクスピアの意図を無視しておこなわれているとは言い切れないところがある。つまりどこで区切ったかはわからないが、シェイクスピアの劇も、実際の上演には2幕構成つまり2部構成だった可能性はつとに指摘されているのである。
実際のところ、1回休憩があると、私のような頻尿の老人にはトイレに行くことができてありがたいのだが(とはいえシェイクスピア時代の上演時間は2時間(なお誰もが時計で時間を計っていた時代ではないので、実際には、2時間から2時間30分くらいだったろうが)でそれほど長い上演時間ではなかったのだが)、それはともかく、劇場物販は、劇団にとって昔も今も重要な収入源であった。そのため休憩時間は必要だったし、また劇作家のほうも、前半部と後半部との間の休憩を意識して劇の構成を考えたにちがいない。
2部構成について確認すべきは、それは長い一連の出来事を時間的に均等になるようにしていったん真ん中で分断したということではまったくないということだ。前半と後半という構成にするには(テレビドラマとか映画などの前編・後編を考えていただければいいが)、それぞれに完結性をもたせることが条件となる。たとえばシェイクスピアの二部作『ヘンリー四世』では、第一部において無頼の徒とつきあい父王ヘンリー四世を困られたハル王子は、戦いで父王の窮地を救い栄誉を勝ち得たのだが、ハル王子は第二部においても無頼の徒との付き合いをやめず評判を落としていて、第一部での活躍は何であったのかと疑問をもたずにはいられないのだが、第一部のパタンを第二部でも踏襲するからこそ、二部構成作品として成立するとみることができる。
では、一つの作品の場合はどうか。それが二部構成となるために、後半も前半のパタンを踏襲する必要がある。あるいは前半と後半がそれぞれ完結性をもつことが必要となる。そのためにもシェイクスピアは常に二度ベルを鳴らす。マクベスは、魔女と2回出会うことになる。ハムレットは先王の亡霊に、後半でも出会うことになる。あるいはよく言われていたシェイクスピア劇ではクライマックスが真ん中にくるという指摘も、そのクライマックスは、前半の終わりか後半のはじまりとみることができる。
たとえばハムレットの場合、国王をはじめ宮廷人が一堂に会して劇中劇をみるという大掛かりな場面が劇の中ほどに設けられているのだが、これは前半の終わりを示す締めくくりの場面か、国王の犯行を確信したハムレットがいよいよ復讐に走る後半部のはじまりの場面か、そこは解釈がわかれるところと思われるが、二部構成が意図されていることは推測できる。
先ほどふれたマクベスの場合も、魔女から予言をもらったマクベスは、予言通りに事をすすめたマクベスは、さらなる予言を求めて魔女に会いにでかける。マクベスの二度目の魔女との出会いは、前半の締めくくりとも、後半のはじまりとも、どちらともいえるのだが、その前後に休憩を入れることで、作品を二部構成に近づけているといえよう。
またシェイクスピア劇の二部構成については、『冬物語』が一つの典型例となる。劇は前半と後半の間に16年が経過する。後半の初めに、「時Time」という口上役が砂時計をもって登場し16年後の世界へと観客を導入する。「時」は、二部構成の後半のプロローグの役を果たしているのだが、このような構成は、一回休憩時間があることによって、さらに効果の強度を上げることができるだろう。
シェイクスピア劇の場合、真ん中に休憩を入れるという現代の上演方式は、奇しくも、当時の上演方法と合致していたのである。
【なお、どこが前半・後半の切れ目かというと、第3幕までが前半、第4幕と第5幕が後半というように考えられているが、ただ「幕Act」は後世の後付けであるために、シェイクスピア劇において現行の第4幕が後半のはじまりとして意図されているかどうかは確定できない。】
2024年05月20日
二部構成とシェイクスピア劇
posted by ohashi at 14:24| 演劇
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