2024年05月23日

『ハムレットQ1』つづき

『ハムレットQ1』が『ハムレット』のQ1版の日本初演をうたうだけでも特筆すべきことなのだが、それだけでは物足りないとばかり、主役のハムレットを女性が演ずるという女性版ハムレットを打ち出した。

女性版ハムレットのこの試みは、今回の舞台をみるかぎり成功したといえる。なにしろ、美しさとりりしさを兼ね備えた男前の吉田羊は、そのたたずまいからして美青年の貴公子というか高貴な王子そのものであり、その強烈な存在感は、舞台で観る前から、ポスターとかチラシでも衝撃的だったし、実際に舞台でみると、近くからでも遠くからでも、その容姿には圧倒される。そして完成度の高いというか完成された演技によって、これはもう『ハムレットQ1』という劣化版でも廉価版でもない『ハムレット』そのものの上演である。

かつてはQ1は、劣化版とみなされて「粗悪な四折版」(Bad Quarto)とも呼ばれていたのだが、現在ではこの名称は使われず、『ハムレット』Q2あるいはF1といった現行の『ハムレット』の定本ともいえる版の再編集版もしくは原型といわれていて、もし再編集版なら廉価版として作られたと考えられている。廉価版だから悪いということにはならない。またそれは漫画のアニメ版とか劇場実写版との関係にもなぞらえることができる。あるいは、もし原型ならQ2とかF1との比較によって、進化の痕をたどることもできるし、進化ではなくオルターナティヴな版としてみることもできるが、いずれにしても劣化版とはいえない。

ただしBad Quartoという過去の名称は決して理由のないことではない。とくにQ1のセリフは単純であったり簡略すぎたり説明的で情緒的でなかったりと、Q2やF1に比べると見劣りする(聞き劣りする)ところがある。ただ誤解のないようにいえば、Q1のセリフはQ2やF1よりもわかりにくいとか未熟だとかいうことではない。むしろわかりやすすぎるセリフのほうが多い。Q2やF1のほうが圧倒的にセリフはわかりにくく、ギクシャクしている。そのためQ1は出来の悪い劣化版というのではなく、むしろ完成しすぎて深みがないという意味での「劣化版」なのだ。たんにQ1が下手なセリフと下手な台本だというのならいいのだが、通常ならよくまとまった作品で、ただQ2とかF1のような複雑怪奇でわかりにくい作品と比べると、そのわからなさという点で劣っているという、やっかいない存在なのである。

このやっかいさは日本語の翻訳では再現不可能である。むしろ日本語の翻訳の場合、Q1の完成度――まあ「良さ」といってもいいのだが――なら、うまく表現できる。Q1の見劣り(聞き劣り)を日本語の翻訳では表現できないために、Q1を完成した作品として示すことができる。Q1の再現には失敗するしかないが、それによってQ1のよさを、評価されるべき独自性を適切に再現できるという逆説が生ずる。そのため、今回の『ハムレットQ1』は、Q1の欠陥の再現には失敗しているが、それゆえにQ1の良さや独自性を際立たせることには成功している。だからこそ、Q1の良さをみるには、翻訳版の上演にまさるものはない。

翻訳のパラドックスがここにある。翻訳は、どうしても原典よりもわかりやすくなる。そもそも『ハムレット』は、わかりにくくてめんどくさい作品である。とくにその台詞。たとえば有名なTo be or not to beの独白からして議論が噴出している。この曖昧なあるいは抽象的な表現は、ハムレット自身が生きるか死ぬかを問題にしているだけではない。親の仇のクローディアスを生かしておくべきか殺すべきかという意味も含んでいる(またそれ以外にもさまざまな意味を含む)。となると「生きるべきか死ぬべきか」というのは誤訳ではないが問題の一面しかとらえていない劣化版翻訳である。とにかく、翻訳では、意味の単純化、簡易化、平明化は避けられないから、翻訳はいかにすぐれた翻訳といえでも原文の劣化版であり、それに満足するしかない。翻訳のほうは、わかりやすくなる。翻訳とはQ1づくりなのである。

女性版『ハムレット』の場合は、このことは関係ない。どのような翻訳劇も、女性版をつくることと同じだとは言えないのだから。森新太郎と吉田羊は、俳優が全員女性という『ジュリアス・シーザー』を上演しているのだが、コロナ禍で引きこもっていた私はそれを観ることはできなかった。ただ全員女性という上演と、ハムレットだけ女性という上演では意味がちがってくる。今回、『ハムレット』の宝塚版を上演したわけではないのだから。

ただそうであっても、今回の『ハムレットQ1』は、宝塚の男役のもつオーラ(女性しかだせない、男性の美しさとりりしさ)をそのまま舞台に移入し再現しようとした観がある。実際『ハムレットQ1』では、旅芸人たちは、全員女性が演じていた(女性が演じなければいけないという必然性はない)。そして劇中劇の場面(どのような『ハムレット』でも演出家がさまざまな趣向を試みる)では、イタリアのコメディア・デ・ラルテ風の衣装と意匠を、宝塚のミュージカルのように仕上げていた――楽曲のメロディーや歌い方などまさに宝塚(あるいはそのパロディかパスティーシュ)であった。吉田羊もどのような宝塚の男役にも見劣りしないオーラを発散していた。おそらくこのあたりが『ハムレットQ1』のねらいどころだったのだろうと私は推測した。もちろんその試みは成功していたことを急いで付け加えておかねばならないが。

『ハムレット』上演史において女性版ハムレットは長い伝統がある。サラ・ベルナールが舞台で上演しまた映画でも演ずることなった女性版ハムレットは、ハムレットという人物のなかに女性とむすびつく何かがあるにちがいないのだが、そのなにかについては、議論あるいは解釈はいろいろあるにしても、それも近似値にすぎないのは、そもそも正解はないのか、あるいは私自身が、いまだ正解にぶつかっていないのかのいずれかである。

【狂人のふりをするようになってからのハムレットのセリフは謎めいたものが多い。そのためハムレットは、文学史上のモナ・リザとかスフィンクスのようだともいわれてきたが、モナ・リザもスフィンクスもともに女性である。またデンマークの王子なのだが、父親が死んだあとその王位を叔父に奪われ、未来の後継者として飼い殺し状態になっているため、その抑圧性が父権制において抑圧されている女性と似ているともいわれる。しかし舞台での女性版ハムレットは、女の謎の体現者でもないし束縛され身動きもできない不自由な身でもない。からめてではあっても攻撃的な人間だし、その立場とか性格とか文化的機能といった面だけで女性性を認定するのにはむりがある。】

今回の『ハムレットQ1』には、女性版ハムレットについての何かヒントが得られるのではないかとかなり期待したが、私にかぎっていえば、多くのヒントは得られなかった。もちろんだからといって上演が失敗だったというのでは断じてない。女性版ハムレットについてのなんらかの見解を示すのではなく、女性版ハムレットを上演するのが、今回の公演の目的であって、それをどのように考察するかは観客の手にゆだねられる。俳優や演出家の責任ではないのだから。

これは上演そのものとは関係のないことだが、上演パンフレットには、松岡和子氏と森新太郎氏との対談(それ自体、きわめて示唆に富む有益な対談ではあるのだが)、そして小田島恒志氏のエッセイ(ちなみに小田島恒志氏は、彩の国さいたま劇術劇場での吉田鋼太郎演出の『ハムレット』のプログラムにもエッセイを寄稿している)でも、女性版ハムレットについてのつっこんだ考察あるいは紹介はなかった。執筆者がいないのか?とはいえ女性とハムレットについて書ける人、考察している研究者はいるはずなので、というかいるので、どうして執筆を依頼しなかったのか不思議でならない。もし誰かが女性版ハムレットについて短くてもよいので考察を展開していたら、それが決定版であればその啓示を私は感謝しつつ受け入れたことだろうし、もし決定版ではなくても、なんらかの有益なヒントは絶対にもらえたはずなのだから。

とはいえ今回の上演から私はひとつのヒントをもらったことも確かである。ハムレットがその復讐物語でそのような機能なり役割を担うかではなく、ハムレットが舞台で劇場でどのようなオーラを、その両性具有的な、あるいはトランスジェンダー的な魅力を放つかという点で考えれば、そこにハムレットという人物のもつなんとも言い難い、異色の、あるいは彼岸的な、超人的=超男性的なエイリアン性をみずにはいられなくなる。ハムレットはこの劇において、ある意味、異星人である。いいかえればこの劇において、男性世界のなかにまじった、男性としてパッシングしているトランスジェンダーの女性/男性である。

英国の俳優デイヴィッド・テナントの『ハムレット』は観ていないのだが(おそらく映像化されているだろうから、観ていない私は怠慢であることの責めを負うしかないが)、テナントは、2013年にシェイクスピアの『リチャード二世』を主役として演じて、その舞台を録画したものが全世界の映画館で公開された(ストラットフォード・アポン・エイヴォンのスウォン座の舞台だったと思うが、私はそれを日本の映画館で観た)。その舞台では登場人物(映像化にあたってはどの人物の顔もアップになる)は男性であれ女性であれ、みんな顔がいかつくて、中世イングランドの宮廷の王侯貴族というよりも、邪悪な犯罪者一家、悪魔と魔女の集団、スラム街の悪の巣窟の住人たちにしかみえず、もし私が現実にこうしたいかつい顔の男女に囲まれたら、たぶん怖くて泣いていただろうと思ったのだが、そのなかにあって優男の二枚目であるデイヴィッド・テナントだけは、その端正な顔立ちで異彩を放っていた。そう彼だけが、犯罪者にみえない高貴な人間にみえた。『リチャード二世』がそうした芝居なのかどうかは意見の分かれるところだろうが、少なくとも映画館でみたその舞台ではリチャードだけが「掃き溜めに鶴」のような異彩を放っていたことを思い出した。

つまり『ハムレット』とは、もしかしたらそうした芝居なのではないか。当時ハムレットを演じたであろうリチャード・バーベッジには出来の悪い肖像画しか残っていなくて、それをみると中年のくそおやじでしかなく、劇団の主役俳優としてのオーラは皆無なのだが、しかしハムレットを演じた頃は、誰もが圧倒される美青年であったにちがいない。シェイクスピアを含め同性愛者の集団でもあった劇団のなかでトップになるためには腕力よりも美しさが絶対的な条件だった。そして劇中で演出家・劇作家のごとく演技指導するハムレットの姿にはトップ俳優のリチャード・バーベッジの姿が重なる。

とはいえ今回の『ハムレットQ1』が「掃き溜めに鶴」のような演出なり舞台であったということはない。吉田羊のハムレットのりりしさと美しさは際立っていたが、同時に吉田栄作のクローディアスもかっこよすぎて、これからもまだまだ主役をはれる俳優であることを実感したのだが、ハムレットとクローディアス、吉田羊と吉田栄作、このW吉田の競演こそが『ハムレットQ1』の醍醐味であり見どころであるようにみえた。

いっぽうで「掃き溜めに鶴」的な女性的だが同時に男性的な異質の存在であるハムレットをめぐる、ある種、エロティックなファンタジーが舞台を包む。またいっぽうで、甥(ハムレット)と叔父(クローディアス)との対立が、それも男同士の対立であるとともに男女(W吉田)の対立があるのだが、この対立は、対立に名を借りた愛でもあり、そうなるとジェンダーの境界が侵犯され、幻惑的なジェンダー攪乱の渦中に若きハムレットが屹立することになる。そこには、異性愛とも同性愛ともつかないクィア的な時空間が立ち上がる。私たちが観客としてみるのは、クィア性発生の瞬間である。

だが、このクィア時空間の立ち上げによって抑圧とはいかなくとも隅に追いやられた要素がある。それも『ハムレットQ1』ならではの特徴が。

光文社文庫版の安西徹雄訳の『ハムレットQ1』を読むとわかるのだが、翻訳者も解説者(小林章夫氏と河合祥一郎氏)もガートルードが、他のQ2やF2に比べ、Q1では格段に重要になっていることを指摘している。実際、かつて『ハムレットQ1』で卒論を書いた私の学生も、私が誘導したわけではないのに、ガートルードの重要性をQ1から読み取っていた。そうこれは誰もでも気づくことだが、Q1以外の版ではガートルードは、クローディアスが先王ハムレット(ハムレットの父でガートルードの夫)を殺害しとまでは知らないというか、ハムレットによって聞かされていない。しかしQ1でハムレットはクローディアスが父の仇であることをはっきり言うし、ガートルードもハムレットに全面的協力することを誓う。そしてガートルードもハムレットと同様に自分を偽ってクローディアスに接することになる。

フランコ・ゼッフィレリ監督の映画『ハムレット』は、主役のメル・ギブソンから連想されるようなマッチョなハムレットではなく、むしろ母親を愛する、それも近親相姦的に母親を愛するマザコン・ハムレットを提示した点で特筆すべきものだった。この映画のなかでは、グレン・クローズ演ずるガートルードが女王として、まさにディーヴァのごとく宮廷に君臨する。クローディアスもポローニアスも、いや宮廷人全員がガートルードを欲望し、ガートルードの前にひれ伏してしまう。ああ、ディーヴァ! もし「掃き溜めに鶴」がハムレットだとしたら、それをさらにしのぐ鶴が、このディーヴァであった。

このゼッフィレリ版『ハムレット』のポスターでは、ハムレットを中心に、むかって右隣りにはグレン・クローズのガートルードが、そしてむかって左隣にはヘレナ・ボナム・カーター演ずるオフィーリアがいる。ハムレットとガートルードとオフィーリア、この三角関係が劇中における愛を左右することになり、クローディアスとかポローニアスは、この三人の外側に位置する脇役にすぎない。

『ハムレットQ1』のポスターとかチラシは、これと同じような構図をとっていて、センターは吉田羊のハムレット、そしてその両隣を……。右隣がクローディアスを演ずる吉田栄作。そして左隣がオフィーリアを演ずる飯豊まりえ(私が舞台を観たときには知らなかったのだがすでに結婚していたとは!)。つまりクローディアスとオフィーリアとハムレットは、三角関係にはならない。ならばガートルードを演ずる広岡由里子はどこにいるかというと、むかって右端。完全に端役にすぎない。この扱いの違いは何だろう。

ゼッフィレリの映画との比較ではない。Q1と比較したときの話である。今回の演出では、Q1では大きな存在であったガートルードが、『ハムレットQ1』では卑小な存在になってしまった。これは俳優のせいではない。演出のせいである。演出がW吉田の闘争を主軸におくあまり、ガートルードとの関係性を夾雑物かのように扱ったとしか思われない。吉田鋼太郎演出・柿澤隼人主演の『ハムレット』(さいたま芸術劇場)では、ハムレットとガートルードの寝室場面を予告編入りで強調していたのだが(予告編とは何かと思われた方は、吉田版(三度目の吉田)『ハムレット』に足を運んでいただければわかる)、『ハムレットQ1』ではその意義が大きくそがれてしまう。なぜならハムレットからクローディアスの犯行を聞き、ハムレットに協力することを約束するガートルードであったが、ハムレット退場後に入れ替わりやってきたクローディアスを遠ざけるどころか、いとおしそうにその腕に抱きつき、従順な妻にもどってしまうのだから。長身の吉田栄作と小柄な広岡由里子は、夫婦というよりも、国王と王妃というよりも、仲の良い親娘のようにしかみえない。ガートルードは、頭のおかしいハムレットに調子をあわせて復讐に協力することを約束しながら、クローディアスの前では元の従順な妻にもどるのだ。そこに葛藤はまったくない。

息子に責められ、説得されて、自分の元夫の弟であり今の夫クローディアスに嫌悪感をいだき、ハムレットに協力して、ハムレットの復讐を成就させる(最後にはハムレットを守るべく毒杯をあおって自己犠牲をもいとわない)ドラマを低俗なメロドラマと演出の森新太郎氏は考えたのだろうか。

あるいは女性版ハムレットにしたことで、ハムレットとガートルードの関係は強度が弱まるとでも考えたのだろうか。
ハムレット⇔ガートルード
息子    母親  (異性愛的:フロイト的解釈ではマザコン)
主役俳優  少年俳優(同性愛的:俳優と少年俳優、伯父/叔父と甥 いずれも同性愛関係を強く連想させる)

これが女性版ハムレットとなると
ハムレット ⇔ ガートルード
息子      母親    (愛憎関係:ハムレットのミソジニー)
女性(娘)   女性(母親)(同性愛的:葛藤あるいは和解・連帯)

こう考えたとき、女性版ハムレットで生ずる母娘関係への暗示が演出家によって嫌われたということかもしれない。『ハムレット』/ハムレットほど、女性のことを悪くいう作品/人物はない。もし女性版ハムレットなら、娘から母親にむけられた女性への呪詛には、救いがない。女性の自己否定のスパイラルに陥るばかりで、そこには救済も解放も和解もなにもない。致死的・自虐的な自己否定しかない。だが母娘関係は、映画『哀れなるものたち』における究極のそれのように、あるいは最近出版されたアンソロジー『母娘短編小説集』利根川真紀編 (平凡社ライブラリー2024)にあるように、開拓され創造さるべき豊かな関係性を秘めている。

『ハムレットQ1』における、ガートルードの扱いの小ささについては、その理由は最終的にはっきとはしないのだが、落胆したことは確かである。おそらく今回の『ハムレットQ1』の公演に対する唯一の落胆。そして凡百の演出家とは異なり、シェイクスピア劇についても、クィア演劇についても優れた洞察を示してくれる演出家についての唯一の落胆である。

【ただしもうひとつ落胆ではないが、なにか違和感が残ったのは、吉田羊のハムレットは狂気を装うときに、なんといってよいかわからないが、声を裏返して茶化すような、おちょくるような話し方をする。もし突然、そんな話し方をするようになった人が身近にいたら、困惑しつつも、人を小ばかにしているのかと怒りを感ずるのだろうが、しかし、それを狂気のなせるわざとは思わない。あくまでもそれは軽率な茶化すような話し方であって、狂気の発作的言説ではない。なるほどそれは、ハムレットが周囲の人間にどう対処しているかについては、わかりやすい仕掛けであるが、同時に、ほかにも選択肢があったような気がする。あくまでも個人の感想にすぎないが。】

もちろん、だからといって、森新太郎氏の洞察の尋常ではない鋭さについての確信がゆらぐことはまったくない。たとえば『ハムレットQ1』では、吉田羊のハムレットは時々歌をうたう。Q2とかF1でもそうなのだが、ハムレットの韻文のセリフのなかには、当時の小唄のような、あるいは歌曲の歌詞のようなものがあって、おそらくそれは舞台では歌われたと推測されている。これは異様なことである。私が学生の頃、ハムレットが歌をうたうことを取り上げていた丸谷才一の論文を読んで驚いたことを思い出す。そもそも悲劇の主人公は歌をうたわない。オセローが、マクベスが歌をうたっただろうか。リア王が歌をうたったような気がするのは(実際には歌っていない)、リア王が狂気に陥るからであるが、歌と狂気はむすびついている。狂ったオフィーリアは歌をうたう。さらにいえばハムレットは狂人のふりをしていないときに歌をうたう(たとえば劇中劇が終わったあと、一瞬にひとりになったときのハムレットのセリフは、歌の歌詞であろうという説がある)。歌うハムレットは、ハムレットの不思議さのひとつである。そしてそれを演出の森新太郎氏はわかっている。歌うハムレットを舞台に実現させたのだから。
posted by ohashi at 23:37| 演劇 | 更新情報をチェックする