渋谷のパルコ劇場で上演中のシェイクスピア『ハムレットQ1』は、この作品の日本での上演史上画期的な出来事であるといって過言ではない。
第一に、それは現存する『ハムレット』の三つの版本のうち、Q2(第二・四折版)とF1(第一・二折版)(どちらも作品の定本としての資格を有し、またQ2とF1を合わせて定本とするのがふつうだった)に比べ、その半分とまではいかないが、三分の二くらいの長さしかない、短いQ1を上演するからである。観客にとってこれほど貴重な体験はまたとないだろう。なにしろ私たち観客は、従来にない作品像を舞台で目の当たりにできるのだから。
これだけでもじゅうぶん野心的な上演なのだが、それでもまだ足りないかのように、主人公ハムレットを女性(吉田羊)が演ずるという、さらなる驚きの試みが待っている。この2点において今回の『ハムレットQ1』は、興味のつきない刺激的なパフォーマンスとなる。
ただし残念ながら、日本語による翻訳劇という条件ゆえに、この野心的試みは限界に逢着することもまた事実なのだ。『ハムレットQ1』 安西徹雄訳(光文社古典新訳文庫, 2010)をみていただくとわかるのだが(それにしてもQ1を文庫本で読めるというのはすばらしいことである。そして松岡さんのご翻訳も早く文庫本で読みたいと思う)、安西訳は韻文の部分を行替えせずに散文訳にしているために、ただでさえ短いQ1が、かなり薄い本になっているのだが、Q1の特徴はただ短いというだけではない。劇の流れも、Q1とF1と異なるのだが、セリフや言葉遣いも違う。
Q1を、“Bad Quarto”と昔は呼んでいたのだが、理由なきことではない。言葉遣いが単純で、詩的な美しさや陰影に乏しく、また重要なセリフもQ1では短いだけでなく要約的であったり簡略化されているところがあって、定本となるQ2版もしくはF1版もしくはQ2とF1のミックス版とは比べ物にならないくらいレベルが低い。そのぶんわかりやすいという利点もあるのだが、このQ1については、劇団員(幹部クラスではない)が記憶を頼りに復元した台本を『ハムレット』人気にあやかって急遽出版したものという説が長らくまかりとおってきた。繰り返すが、そう考えるのも理由のなきことではない。たとえ現在では、この説は否定されているとはいえ。
つまりQ1は『ハムレット』(Q2かF1かQ2+F1)の劣化版もしくは廉価版というイメージが強い。だが、翻訳劇では、このイメージは示しにくい。なにしろ翻訳者に下手に翻訳せよと求めることになるからだ。今回は松岡和子氏の翻訳なのだが、その台詞は、わかりやくすまた耳に心地よく、とにかく歯切れのよい台詞であって、完成度の高い翻訳となっている。りっぱな翻訳である。劣化版とか廉価版のイメージはどこにもない。光文社文庫の安西徹雄訳も、りっぱな翻訳で、劣化版とか廉価版のイメージはない。そもそも優秀な翻訳者に下手な翻訳を求めることはできないのだ。
しかし、Q1のセリフの特異性の再現には失敗しているのだが、舞台そのものは、完成型の日本語表現の見事な台詞を俳優に語らせるという充実したパフォーマンスを実現することには成功している。もしこれがQ1のぎくしゃくした未熟な台詞の真に迫る再現であったらなら、『ハムレット』の劣化版を観に来たのではないと観客が怒りを爆発させてもおかしくないものとなっていただろう。
【ちなみに私は松岡訳、安西訳をうわまわる翻訳などできないが、それを下回る翻訳は自信をもってできるが、そんな翻訳を誰が読んだり聞いたりしたがるのだろう。ただそれ以上にやっかいで怖いのは、私がいくらひどい翻訳をしても、それを--俳優はセリフ回し、抑揚その他の発声技術そしてセリフに呼応するかセリフを際立たせる所作を通して--自然な美しい台詞と観客に思わせてしまうことができて、私の翻訳のひどさが目立たなくなるということだ。】
ではQ1らしさは、セリフではなく舞台構成にあるということになる。たとえば有名なTo be or not to be...の独白は、現行の定本では、「言葉、言葉、言葉」というハムレットとポローニアスのやりとりの後に置かれているが、Q1では、「言葉、言葉、言葉」の前に置かれている。実際、話の流れとしてはQ1のほうがすっきりしている。現行版では展開がぎくしゃくしているのも事実である。
ただたとえQ1を上演するものではないとしても、To be or not to be...の独白を、「言葉、言葉、言葉」の前にもってくる演出もないわけではない。さらにいうと、どのような『ハムレット』の上演でも、定本のセリフを省略せずに使うと、3時間どころか4時間くらいになったりするため、セリフの省略はどうしてもやむをえない。また実際の『ハムレット』の上演の際には、セリフの大幅なカットとか場面と展開の変更や修正を行なうことによって、たとえ『ハムレットQ1』の上演でないとしても、『ハムレットQ1』と同じような上演時間と内容になっている公演はふつうに存在する。
そのため『ハムレットQ1』の舞台を観る私たちは、Q1の特殊性とか、すでに述べた劣化性とか廉価版性を体験しようとしても、通常の『ハムレット』上演とそんなにかわらない舞台を観ることになる。
Q1の特異性を、セリフではなく上演形態とか劇的展開の面で舞台に載せようとしても失敗するしかない、あるいは不可能だということなのだが、これはけなしているのではない。むしろ誉め言葉である。私たちが『ハムレットQ1』の舞台で観たのは、立派な、何一つ遜色のない『ハムレット』の舞台そのものであって、『ハムレット』の魅力、面白さ、あるいは謎を、充分に堪能できる。そうこれは誰にも勧めることができる『ハムレット』の舞台である。Q1であることは、そんなに気にしなくてもよい。Q1らしさ――劣化性とか廉価性――を出そうとしても限界がある。だがその限界は、『ハムレットQ1』 を『ハムレット』のあまたある公演のひとつに格上げするといってもよい。繰り返そう、これは誰にでも観てほしい『ハムレット』である。 つづく