演劇公演の場では、同種のあるいは連作になる作品を同時にあるいは交互に公演することで、いま述べたような相乗効果とか、ときには異化効果をもたらすことができるため、2作品(あるいはそれ以上の作品)を、合わせ鏡的に上演することはよくある。
昨年の10月から11月にかけて新国立劇場中劇場で上演されたシェイクスピアの『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』は、成立時期も同じで内容にも共通点がある二作品の上演であった。パンフレットも1冊で2作品をカバーすることで、1作品あたり、通常の公演の半分の価格ですむことになった。一作品しか見ないとパンフレットを購入するとなると割高なのだが、2作品をみると割安になる。2作品を見ることを最初から想定しているのである。
あるいはこれも5月に公演は終わったのだが、フロリアン・ゼレールの『父』『母』『息子』の三部作の内、『母』と『息子』の同時上演も合わせ鏡的な上演だった。たとえば東京芸術劇場のシアター・ウェストで『母』を午後に上演し、その日の夜にシアター・イーストで『息子』を上演するという方式をとった。いっそのこと同じ時間帯に上演してもよかったのだが、それは2作品とも同じ俳優による上演なので、不可能であった。
ゼレールの『母』と『息子』が顕著なのだが、同じ俳優が演じ、また登場人物名も同じなのだが、しかし同じ家族の物語ではない。『息子』では息子の両親は離婚して父親は再婚しているのだが、『母』では息子の両親は離婚していない(離婚の危機にはあるが)。ならば『母』は離婚前の物語、『息子』は離婚後の物語かというと、そうでもなく、『母』は精神を病んで入院中だが、『息子』では離婚した母親は特に精神を病んではいない。名前は同じでも、同じ物語の世界線上にふたつの作品は位置していない。まただからこそ、連続性ではなくて、相似性のほうが際立ち、そこに差異と同一性を立ち上げる合わせ鏡的効果を期待することができた。
シェイクスピアの『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』の同時上演は、同じ俳優による、同じ舞台装置によって――つまり両作品で同じ舞台空間と舞台デザインを共有していた――合わせ鏡的効果をねらっていたと言えるのだが、しかし、同じ舞台装置を共有しながらも、両作品は、類似性よりも差異性のほうが目立つのであって、合わせ鏡的上演にする必然性は希薄であったように思う。両作品に共通しているのはベッドトリックという趣向であって、それ以外に物語上の類似点はないとはいえないのだが、少ないことは確か。
ただし『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』という、あまり上演されることのない二つのシェイクスピア作品を翻訳劇として日本でみることができるたのは実にすばらしいことであって、二作品上演の意義はどれほど強調しても強調したりないのだが、ただ二作品の合わせ鏡的効果はない。なお、この二作品上演については、別に機会を設けて語る予定。
今回はシェイクスピア作品のなかでかなり性格の異なる作品が実は同じような構造をもっていて、合わせ鏡的に照らしあっていることを考えたい。それは『ハムレット』と『オセロ』である。
どこでとは言わないが、シェイクスピア劇についての私の講演で、もっとも評判が悪く、あきれかえられて反響さえ呼ばなかった講演(そんなのはいっぱいあるだろうと言われそうだが、そのなかでも特に)が、シェイクスピアのいわゆる四大悲劇が同じ構造をしているという個人的知見を述べたものだった。最悪の講演とも言われたのだが、私自身は、その内容と洞察には、かなり自信をもっていたのだが。
『ハムレット』と『オセロ』に限らず、シェイクスピア劇は最初に、シェイクスピアが座付き作者でもあった劇団によって上演された。したがって作者も劇団員に当て書きした可能性もある。『ハムレット』で主役を演じた俳優は『オセロ』でも主役を演じた――とはならないところから、この両作品の、これまで気づかれなかった差異と類似がみえてくる。
ハムレットを演じたる俳優が『オセロ』でオセロを演じたかどうか疑わしい。というのもハムレットはヴィテンベルク大学生であり、のちの墓堀の場では30歳くらいと想定されるのだが、オセロは、妻となるデズデモーナの父親ブラバンショウと同世代で友人でもあったのだから、50代か60代である。おそらく20歳代のハムレットを自然なかたちで演ずることができた俳優(推定で20~30歳代)でも、オセロを演ずるのは無理がある。
ただしこの考察あるいは推察は、証拠なり証言に基づくものではないので、これ以上すすめることはできるが、同時に、どうでもよいことである。ハムレットを演じた主役俳優が、イアーゴを演じたかどうかは基本的にどうでもよい。重要なのは、『ハムレット』におけるハムレットは、『オセロー』においてはイアーゴであるということである。
この観点は、『ハムレット』も『オセロ』も、ともに不釣り合いな結婚、問題のある結婚に対する異議申し立てを主軸にしているということである。
両作品を対比させてみる。
ハムレット イアーゴ
母と叔父との結婚に反対している。 オセロとデズデモーナの結婚を妨害。
20から30歳 28歳
クローディアス オセロ
ハムレットの叔父にして義父 イアーゴにとって父親ほどの年齢差
ハムレットに殺される イアーゴによって翻弄され自害
ガートルード デズデモーナ
ハムレットの母 問題のある結婚をする。
オフィーリア エミリア
ハムレットの恋人 イアーゴの妻
二人の女性をハムレットは娼婦に譬える 二人の女性をオセロは娼婦に譬える
(イアーゴによるそそのかしによって)
先王ハムレット
ハムレットの亡父
ポローニアス ブラバンショウ
クローディアスの側近 オセロの友人
オフィーリアの父親 デズデモーナの父親。心痛で死去。
ハムレットに殺される
ホレイショウ ロデリーゴ
ハムレットの友人 イアーゴの友人で金づる
旅芸人たち キャシオとビアンカ(旅芸人はいない)
ハムレットは劇作家・改作家・演出家 イアーゴは劇作家・演出家
観客はクローディアスとガートルード オセロにキャシオとビアンカをみせる
『ハムレット』においては、先王が謎の死をとげてから、ハムレットの母が、先王の弟でハムレットにとって叔父あたるクローディアスとすぐに(近親相姦的な)結婚したことで、彼の憂鬱がはじまるとみてよい。先王の亡霊から、クローディアスを父の仇と認識し、復讐を遂げる前に、気が狂ったふりをする(佯狂)のだが、しかし、それはクローディアスの目をあざむくというよりも、クローディアスと母の結婚への嫌がらせのようなところがある。
不適切な結婚への異議申し立てのために騒ぎを引き起こすこと、それはヨーロッパでは「シャリバリ」(イングランドでは「ラフ・ミュージック」などと呼ばれた)として知られる喧噪的祝祭を連想させる。実際、『ハムレット』は、結婚に異議を申し立てるハムレットの独りシャリバリといってもいいところがある。
『オセロ』においても、オセロとデズデモーナの結婚は、問題のある結婚である。ひとつにはそれは5月と12月の結婚。若き乙女のデズデモーナ(5月)が、父親と同年代のオセロと結婚すること。これはヨーロッパにおける典型的なシャリバリの発起理由である。しかも、それがムーア人(黒人かアラブ人)と白人女性との異人種結婚であることも問題となる。
『オセロ』では夜の騒乱が3度起こる。ひとつはヴェニスでデズデモーナとオセロが密会していた夜、イアーゴを通して密会について知ったデズデモーナの父ブラバンショーが一族郎党を連れて密会の宿に押しかけるときである。
もうひとつはキプロスでオセロとデズデモーナが再会した夜のこと。酒に弱いというか酒乱のキャシオが挑発されて騒ぎを起こすとき。眠りを妨げられたオセロは、傷害事件を起こしたキャシオを解任する。
最後は、妻デスデモーナの不貞を確信したオセロが寝室でデスデモーナを殺す夜、キプロスの街角ではイアーゴにそそのかされたロデリーゴがキャシオを襲ってケガをさせるが、ロデリーゴ自身、陰謀の発覚を恐れたイアーゴに刺殺される。
『オセロ』にはダブルタイムと呼ばれる時間線があって、それによれば、この悲劇は、キプロス島についてから翌日の夜の間に起る。ショートタイム枠組み。嫉妬に狂ったオセロはかっとなって翌日に妻を殺してしまう。短期間であるがゆえにリアリティがある。長い時間が経過したら嫉妬心も収まるのではないか。
しかしあれほど愛していた妻をいくら嫉妬に狂ったとはいえ再会してから翌日に殺すのは気が短すぎる。イアーゴのそそのかしがじわじわと効き始め、長い時間を経たのちに悲劇に突入するとみるほうが自然かもしれない。キャシオの恋人ビアンカは、キャシオを追ってヴェニスからキプロスへとやってくる。オセロがキプロス到着の翌日には、ビアンカはまだキプロスにやってきていない。
これともうひとつ--オセロとデズデモーナは肉体的に結ばれたのかどうかについても古来から議論が分かれている。
最初のヴェニスでの密会、結婚初夜では邪魔が入る。デズデモーナの父ブラバンショーが押し掛けてくる。ふたりは初夜を迎えられないまま、別々の船でキプロスを目指すことになる。
キプロスで再会したふたりは、その夜が初夜となるはずである。ところがキャシオが暴れ、初夜をむかえることができなくなる(実際、劇の進行のなかでも二人が初夜を迎えられなかったことが暗示される)。
そしてショートタイムで考えると、その翌日の夜、オセロとデズデモーナは晴れて初夜を迎えることになるが、嫉妬に狂った夫が妻を殺害する。外では傷害事件が起こっている。二人は初夜を迎えることができなかったのではないか。
二人の初夜を妨害した張本人はイアーゴである。オセロとデズデモーナが肉体的に結ばれるというその夜、騒ぎが起こり男たちの乱闘事件が起こる。それまさにオセロとデズデモーナ、5月と12月との、黒人と白人との肉体的結合の成就をいまわしきものとして妨害するシャリバリそのものではないか。『ハムレット』においてはハムレット自身の独りシャリバリだったが、『オセロ』においてはイアーゴのシャリバリはコミュニティ全体を巻き込み、おそらくは人種的偏見をも刺激するかたちで爆発する。
合わせ鏡というのは曖昧な比喩かもしれない。むしろ絨毯の裏と表、いや両面というべきか。どちらの面も同じ構図を共有している。しかし構図は同じでも色や織り方などがちがうために、別の模様であるかにみえる。それと同じで、『ハムレット』と『オセロ』は、まるで似ているところがない対照的な作品にみえるのだが、共通する人物や共通する主題なりアクションがあって、それを主軸にすると、これまでみえなかった作品の特徴がみえてくる。それが絨毯の裏と表を比較するときの醍醐味であろう。
たとえばハムレットは先王にいわれて母ガートルードを責めてはいけないと忠告される。なぜかははっきりわからない。『オセロ』において、イアーゴ(ハムレット)はデズデモーナは責めて/攻めてはいない。ハムレットは母親を近親相姦的に攻めるのだが、しかし、母親と結ばれることはないが、それでも激しく攻める。いっぽうイアーゴは、デズデモーナと結ばれる可能性はあるのだが、責めることもないし攻めない。あたかもデズデモーナが実の母親であるかのように。
そう両作品を突き合わせることで、イアーゴにとってデズデモーナが母親であるといえる。直観的ではないかもしれない。しかしデズデモーナは黒い聖母(Black Madonna)である可能性がある(これ以上の詳細は別の機会に)。
ハムレットとクローディアスは、甥と叔父の関係以上の深い関係がこれまで考察されてきた。フロイト的解釈では、ハムレットは母ガートルードを愛し、父(先王ハムレット)を憎んでいるというエディプス状態にある。そうであるがゆえに、父(先王ハムレット)を殺し、母と結婚したクローディアスは、ハムレットの欲望を体現した分身のような存在、もしくは隠されたハムレットの真の姿であり、それゆえに復讐できない。自分が憎んでいる相手を殺してくれた人間に、復讐するというのは理不尽であるからだ。
オセロとイアーゴの存在は、さらにねじれてくる。一般にイアーゴはオセロを人種差別的に憎んでいて、オセロを陥れようと画策する。だがイアーゴは、オセロを憎んでいない。いやむしろイアーゴはオセロに承認されたがっている。オセロに承認されないかぎり、イアーゴは憎しみをつのらせる。イアーゴの憎しみは、オセロの愛と信頼を勝ち得たときには消滅するだろう。イアーゴの憎しみはオセロへの愛の裏返しである。親の仇でもあったクローディアスとハムレットの間にひそかに情愛がはぐくまれていたのなら、人種偏見の対象たるオセロ、異人種であるオセロとイアーゴの間にも、愛があるのではないか。
イアーゴは、オセロに、デズデモーナとキャシオとの間に不倫関係があることをにおわせる。オセロはそれによって妻デズデモーナを憎み、キャシオへの復讐のパートナーとしてイアーゴを選ぶのである。二人はデズデモーナとキャシオへの復讐のパートナーとなるべく誓いを立てる。このときオセロとイアーゴは跪いて誓いをたてる。それはまさに夫婦の誓いと同じ姿勢と手続きである。オセロとイアーゴは夫婦になる。
これに相当する場面が『ハムレット』にあるかというと、みあたらない。だが、『ハムレット』においてクローディアスが跪いて祈るシーンがある。祈るクローディアスをみて、ハムレットはその後ろにたって復讐の刃を振り下ろそうとする。ハムレットは思いとどまるのだが、跪いて祈る男(父親的)と、そこに居合わす息子(ハムレット/イアーゴ)の構図は両作品で似ている。オセロとイアーゴの場合は疑似結婚だった――二人は復讐のパートナーとなった。ならばクローディアスとハムレットも、そこにあるのは復讐のきっかけを失ったハムレットの失敗というよりも、クローディアスを殺すことのできないハムレットのクローディアス愛ではなかったのだろうか。『ハムレット』におけるこの場面は、愛と欲望が交錯する予想外に複雑な場面ともいえるのである。
ハムレットの友人はホレイショウであった。ハムレットのライヴァルはレアティーズであった。イアーゴの友人はロデリーゴであった(ただし金ずるとしていいようにあしらわれているロデリーゴはホレイショウのパロディのようなところがある)。キャシオはオセロの覚えもめでたく側近であり副官として仕えている(実際、エリートのキャリア組であるキャシオは、キプロスにおけるオセロの後任に指定されているくらいだ)。オセロの寵愛を受けているキャシオは、イアーゴのライヴァルである。ちょうどレアティーズが国王クローディアスの寵愛を受けて、留学先のフランスに戻ることをすぐに許されるのに対し、ハムレットは留学先に戻ることは許されない。ハムレットがレアティーズに対して抱くある種の妬みは、イアーゴがキャシオに対して抱く妬みと同質のものがある。
--など、など、さらに考察をつづけることができるのだが、今回は、この程度で終えておく。ただ、いえることは二つの作品が同じような構造を共有していることを認識すると、そこからこれまで気づかれなかったこと、あるいは気づかれていても意味が判然としなかったことが、浮かび上がってくる。合わせ鏡の化学反応は、二つの作品(鏡)の中間領域に隠れた真実をホログラムのように立ち上げるのである。