吉田恵輔監督の本作は、主演の石原さとみの前評判の高い鬼気迫る演技で観る者を圧倒しつつ、同監督の『空白』(21)と同様、家族を失った親の苦悩と救済を扱った繊細だが骨太の映画となっている。苦しむ母親とその心情のある時は怒りのあまりの激しいく揺れ動き、そしてある時は絶望と諦念のはての無気力を、丁寧に扱う繊細な映画であるが、同時に骨太であるというのは、幼い娘が行不明となった夫婦の境遇とそれを取材するメディアの歩道姿勢ならびにネットにおける悪意ある反応という現代社会の問題を鋭く提起しているからである。
石原さとみの鬼気迫る演技が、この映画の主軸となるだろうが、しかし同時に、絶望の果てになにがあるのかを考えさせられる作品であって、こう語っても問題ないと思うのだが、行方不明になった幼い娘は最後まで行方不明のままである。途中で、娘が保護されかもしれないという情報が示されたり、娘らしき少女が目撃されたりして、最後に娘と母親が再会するような可能性を垣間見せるのだが、観ている側は、これがハッピーエンディングになったら濃密なドラマが台無しになると心配する――大丈夫、ハッピーエンディングにはならいので、これから観る人は安心してください。
『空白』の最後に、チンピラ風の男が元スーパーの店長のところに歩み寄って、邪悪なからかいをするのではないかと思うと、閉店したスーパーの「焼き鳥弁当」が大好きで、スーパーがなくなったことへの残念な気持ちと、その弁当を作ってくれていたことのお礼を語る……。そこで私は涙が止まらなくなった。まあ監督のここで泣かせようという戦略にみごとに嵌ったといえばそれまでだが、『空白』のその場面がもたらす思いがけない涙は、映画の物語の流れからすると必然であったことに思い当たるのだが、『空白』はともかく、今回の『ミッシング』においても、最後に、泣かせる場面が用意されている(ハッピーエンディングではないけれども)。そしてその場面に来て、この映画で扱う事件がなんであったかもみえてくる。
娘が行方不明となった両親が人通りの多い、駅前でビラ配りをしているところからはじまる映画では、母親役の石原さとみが、不安と焦り、怒りと悲しみのあまり、狂気に境を接するような暴発的発作的八つ当たりをする手負いの危険な獣となって、周囲を怖がらせ怯えさせ孤立してゆく。この孤立――娘がいなくなったことで起きる孤立は、彼女と夫との仲に亀裂をいれ、ふがいない弟とは絶縁状態となり、職場においても彼女を孤立させてゆく。また娘の失踪の当日、彼女は人気アイドルグループのライブに行っていたこともあり、自責の念から自分自身を許せないくなり、自分自身とも疎遠になる。そしてそれに追い打ちをかけるように、ネット上での誹謗中傷が彼女を襲う。
虚偽情報を流して彼女を翻弄させることを面白がっているネット民の悪辣さは、この映画の脚本によるフィクションといって安心できないほどのリアリティがある。ネット民の無責任な書き込みは、彼女を社会と敵対させることにもなる。そしてそこに地方テレビ局の、中立的事実の報道をうたいながらも、視聴率を意識した報道が、視聴者を彼女への批判的姿勢へと誘導することになってしまう*。彼女にとって、自分自身も含めて、身内が、社会が、すべて敵、敵しかいなくなる。
【*メディアとネットの問題は『空白』でも取り上げられていたが、いま現在、メディアはネット民の得意技である被害者へのバッシングに加担するようなところがある。メディアが権力の番人であることから逃走するようになってから久しいのだが、いまや権力の番人であるどころか、もうみずからが権力そのものになってしまった。権力におもねったり、権力に忖度するのではない。いまやメディアは独自路線で誹謗中傷や捏造に積極的に参加しているのだ、もちろんメディアの在り方に疑問を呈するテレビ局記者を登場させることによって、メディアは、まだ悪魔に魂を売ったわけではないことを監督は強調しているのかもしれない。】
だが娘の失踪後2年たち、失踪事件も忘れられ報道されることもなくったとき、別の事件が起こり、彼女もそれに便乗して自分の娘の捜索と調査が行われるように画策するのだが、幸い、事件は解決する。ただし彼女の娘は依然行方不明のままである。だが、この事件によって娘を探す彼女のもとに、新たな支援者たちがあらわれる。かつて冷たくあしらった職場の同僚も彼女の支援にやってくる。印刷所の主人もビラを増刷して代金をサービスしてくれる……。
かつて彼女を孤立させることになった娘の失踪は、いま、失踪後2年もたち、娘を発見する見込みが限りなく遠のいている現在、その娘の不在を通して、新しい人間関係が生まれてくる。絶縁していた弟とも和解する。娘は帰ってこない。おそらく殺されているか、あるいは生きていてももう二度と帰ってくることはないかもしれない。しかし娘の不在によって、彼女は一度は社会からの孤立を味わったのだが、しかし、一度は断ち切られた社会との絆がいままたつながりはじめようとしている。
娘は帰ってこない。だがその絶望のなかで社会が形成されようとしている。悲しみと怒りと絶望のなかで社会が、ネット社会のような虚像でしかない悪意の共同体ではなく、真に善意の共同体として立ち上がろうとしている。この共同体は絶望を癒すものではないし絶望を解消するものではないが、しかし絶望があるがゆえに、はじめて社会的絆に対する気づきが、自然発生的な共同体が生起するのである。
それが、そう、涙を誘うどんな出来事だったのかは、映画の最後にどうか注目してほしいと思う。映画館で。