2024年05月14日

『ハムレット』

彩の国さいたま芸術劇場リニューアルオープン&開館30周年を記念し、吉田鋼太郎芸術監督による新シリーズ「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」が始動。その第一作として、シェイクスピア『ハムレット』が上演中。5月26日まで、さいたま芸術劇場。その後、仙台、名古屋、北九州、大阪とまわる。

さいたま芸術劇場は、『ヘンリー八世』の再演以来で久しぶりなのだが、客席に座ると座席との間に余裕がある。以前、さいたま芸術劇場で観劇した際に、いっしょに観た人で劇場に足を運ぶことが少ない人が、新しい劇場でもこんなに狭いのかと驚いたのが印象的だった。その時私は、宝塚劇場はもっと狭いと話したことを覚えている。かつて(昭和の頃だが)、映画館よりも劇場のほうがりっぱな座席だったのだが、いまでは映画館のほうが座席がよくなっている。そのため映画館を基準にすると劇場の席のならびと前後席の狭さが際立つ。実際、劇場の狭さは、その人にとってトラウマになったようだったが、今回座ってみると広いとはいえないが、思ったより狭くない。狭いという印象はなんだったのかと不思議に思ったが、ふと気が付いた、いや勘違いかもしれないが、改装したあとだ、座席のレイアウトも変更したのかもしれない……。



それはともかく吉田鋼太郎演出、柿澤勇人の主演の『ハムレット』は、開幕から歩哨たちの緊迫したやりとりと時を置かずして登場する幽霊とその退場という、おなじみの『ハムレット』の冒頭が、速度感を伴って進行し、ハムレットが登場する次の場面によどみなくつながってゆく。

舞台は黒を基調とした質素だが威圧感があるという重厚な空間を出現させ、一昔前の軍服というか軍装を貴重とした衣装は、戦争を準備している軍事国家の空気を余すところなく伝えると同時古典的な威厳を与えることにも成功している。

ネットとか当日劇場に掲示してあったであろう上演時間と休憩時間などについての情報を気に留めることなく観ていたので、上演の迫力とスピード感に圧倒されて、そろそろ休憩が入るのかなと予想しつつも、このまま最後まで突っ走ってしまえと思うほどの、つまり上演を中断してほしくないと思えるほどの充足感に満たされていたことは事実である。

上演時間についても何の予備知識もなく観ていたのだが、午後2時から午後5時30分過ぎに上演が終わったとき、長いと思ったのだが、同時に、長さを感じさせない上演であったことを痛感した。スタンディング・オベーションのなか、久しぶりに、本格的な『ハムレット』を観たという充実感を超えた感動を覚えていた。通俗的な表現というのを覚悟のうえでいえばこの『ハムレット』は、「令和のシェイクスピアのスタンダード上演」として記憶されるにふさわしいものだった。

実際、吉田鋼太郎芸術監督による「彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd」は、日本のシェイクスピア上演それも大劇場における公演において、超えるどころか模倣するのもむつかしい峻厳なモデルとしてとどまり続けるだろう。

もちろん蜷川幸雄演出のシェイクスピア劇を意識しているところもある。客席から舞台へとつづく通路を利用するのは、さいたま芸術劇場ならではの演出ではないかもしれないが、同時に、シェイクスピア劇では必ずといっていいほど行なわれる演出であって、今回も劇中劇の場で、ハムレットの義父と母親は、ほんとうに客席のなかの王座で舞台上映をみるという、ある意味、斬新な演出だった。また劇中劇ではなく、劇そのものの最後に天井から花が降ってくる。蜷川シェイクスピアへのオマージュであるかのように。



ここで終えていいのだが、いくつか個人的感想を。

ひとつは、これは蜷川時代の悪い癖が残っているとしかいいようがないのだが、台詞が聞き取りづらいことがある。これは俳優の誰がとかいうことではなく、また最初から最後まで聞き取りにくいということではなく、部分的に誰がということでもないのだが、聞き取りづらいところがある。実際、蜷川シェイクスピアは海外での公演が多かったからかもしれないのだが、台詞が本当に聞きづらい公演というのがあった。

蜷川シェイクスピアの舞台はDVDにもなっているのだが、それを何度も視聴した経験からすると、さいたま劇術劇場は、音響設備が悪いのか俳優のセリフ回しが悪いのかセリフが聞こえないどころか、セリフとして認識できないこともあった。私はこれは悪癖だと思う。この癖は受け継がないでほしいと思う。

また今回の上演の成功は吉田演出にあるだけでなく、柿澤勇人ハムレットの魅力によるところも多いだろう。以前、池袋の東京芸術劇場プレイハウスで内野聖陽のハムレットを観たことがあるが、内野のセリフ回しは実にうまく、これほどみごとに美しく朗誦されしかも説得力もある独白があったであろうかと思えるほどの、私にとっては奇跡的ともいえるパフォーマンスだったが、もちろんこれは意図的なものだろうが、内野聖陽ハムレットは、若い貴公子ではなく、おっさんハムレットだった。

これに対して柿澤ハムレットは、もうそのたたずまいからして若きハムレット(Young Hamlet)そのものである。もちろん今回の『ハムレット』は確実に柿澤勇人氏の代表作のひとつになることはまちがいのないと思うのだが、またそれにみあった熱演であることは誰も否定できないと思うのだが、セリフ回しについては緩急と強弱をつけている。ハムレット本人の台詞もそうだが、他の登場人物のセリフも興奮してくると絶叫調になる。現実にはそんな大声を出すようなシチュエーションではなくても、あるいは現実には悲しみをこらえるようなシチュエーションでも、人物たちは絶叫する。だがこれは大劇場ならではの特徴で、そうでもしなければ情動的展開を実現できない。と同時に絶叫する人物たちに対し、ハムレットは独白の際にはささやき声になる。

ささやき声というのは声量は少ないものの、音波としてよく伝わるものであって、ささやき声の内緒話は、それをさえぎる音源が近くにないかぎり、けっこうよく伝わる。病院に見舞いに行った者たちが、早く元気になれよと患者に別れを告げたあと、廊下で、ささやき声で、もう長くないらしいと話すと、それはたぶん患者に伝わっている。だからささやき声は伝わる。ささやき声のセリフが悪いというわけではないし、緩急をつける、あるいはささやき声によってハムレットの人物像を際立たせる試みは評価できるが、ただ、聞こえるか聞こえないかの限界でのセリフは客席にいる者にとってはかなり苦痛である。マイクでささやき声をひろって劇場内のスピーカーで流すような、ささやき声をささやき声のまま増幅させる仕掛けがあってもよかったのではないか。

なお日本語訳については今回は小田島雄志訳を使っている。旧シリーズとの差異化を図ってのことだろうが、松岡和子訳よりも先に存在していた小田島訳を使うのは先祖返りかということになるのだが、理由はわからない。

ただ言えることは今回、舞台でのセリフを聞くと、やはりその言葉遊びの部分が、あらためて強烈なインパクトをともなって響いてくる。当時というか小田島雄志訳のシェイクスピア劇が評判になっていたころ、そのダジャレというか言葉遊びが話題になっていたのだが、私が当時読ませていただいたときには、むしろそうした言葉遊び以外のところで、実にきちんとした、しかも美しい日本語になっていて、なぜそこを評価しないのかと不思議に思ったことがある(まあ、りっぱな訳文になっていることは触れるまでもないこととしてスルーされたのだろうとも当時思ったのだが)。

実際、私はシェイクスピア劇の日本語訳は、気づく限り全部読んでいて、当然、小田島訳でも全作品を読んでいるのだが、言葉遊びが印象的だったということはない。繰り返すが、その訳文は、舞台で発せられるセリフとしても、また原文の解釈の結果としても、どちらとしても日本語の言語表現の極致ともいってよいものであったし、その思いは今も変わらない。

また今にして思えば、言葉遊びが話題になったのは、実は『ハムレット』の翻訳を対象にしたものだったとわかる。実際、今回の小田島訳のセリフを聞くと、はっきり聞き分けられる言葉遊びの部分は、ハムレットの性格とか、あるいはその狂気の戦略などと、実によくシンクロしている。言葉の裏の裏、その端正な言葉遣いと猥雑な意味の共存、言語のアクロバティクな使用――『ハムレット』における身体とはなにをおいてもまず言語であることを実感させてくれるものは、小田島訳をおいてほかにないともいえるのではないだろうか。



柿澤勇人に対しては、まちがいなく魅力的なハムレット像を私たちに提示してくれるだろうと思い、期待はあったが同時に安心していた。レアティーズの渡部豪太、ポローニアス役の正名僕蔵、ハムレットの母・ガートルード役の高橋ひとみのベテラン勢についても予想通りの熱演で安心したのだが、ただハムレットの恋人・オフィーリア役の北香那については、どんなオフィーリアになるのかこれはほんとうに期待した。

オフィーリアのポイントは発狂してからである。オフィーリアを演ずる者には、紋切り型というかステレオタイプの狂人については忘れ、独自の独創的なオフィーリアになることを求められるのだろうと思うが、面倒なのは、ステレオタイプの狂人を捨てると、下手をするとただの情緒不安定な若い女の子にしかみえなくなることだ。喜劇的にならないような、ステレオタイプへの依存という微妙なバランスを、オフィーリアを演ずる者は求められると思うのだが、これは達成するのがとてもむつかしい。北香哉は、この難題をよくこなしていると思うのだが、それでもオフィーリアに対する恐怖と憐憫は、さらに強度を高める余地が残されていると思う。

とはいえ私は個人的には北香那のファンである。先ほど内野聖陽に触れたが、その主演作『春画先生』での北香哉を私は観ているし、さらにいえば彼女が主演声優だったアニメ映画『ペンギン・ハイウェイ』だって私は観ている(主演声優は蒼井優ではないかと思うかもしれないが、北香哉は男の子の役)。今週公開の『湖の女たち』にも出演している。これからも北香哉の私はファンである。



2019年にサイモン・ゴドウィン演出、岡田将生主演の『ハムレット』では、劇の前半と後半の区切りとなるのが、祈るクローディアスを見かけたハムレットが背後に立ち、剣をふりあげ、これからいよいよ復讐のために殺すのかというところであった。そこで暗転となって前半が終わる。もちろん原作では、そこが場面の区切りではない。観客がそこでハムレットが復讐をとげるのかどうか、ハラハラするとでもゴドウィンは本気で考えたのだろうか。仮に原作を知らない観客がいても、そこでハムレットがクローディアスを殺したら話が終わってしまって先がつづかない。ほぼまちがいなく、そこでハムレットは殺さないだろうと予想する。だから変にサスペンスを盛り上げるような終わり方は、観客をバカにしているとしか思えない――このクソ演出家のサイモン・ゴドウィンは。

サイモン・ゴドウィンをクソ演出家と当時思ったのは(今でもその思いは変わらないが。またその演出をほめているイギリスとか日本の関係者もクソだと思っているのだが)、その『ハムレット』は、私の好きな岡田将生の熱演にもかかわらず、舞台装置がひどすぎたからである。デンマークのエルシノア城が、城というよりも、デンマークの漁村の漁業組合の集会場とか公民館を思わせるようなものになっていて、『ハムレット』の世界線が、ここまで壊れてしまうものなのかとあきれ返ったし、ドラマも、漁労長のいかがわしい悪事が最後に暴かれるというようなものとなっていて、それ以外のものになりようもなく、せっかくの俳優たちの熱演が無駄に終わったような気がしたことは今も記憶に新しい。

今回、吉田演出の『ハムレット』では、ハムレットが母ガートルードの寝室を訪れるところで終わった--なにか不穏な感じを漂わせて。原作は、ここで切れてない。そもそもこれからハムレットとガートルードの対決がはじまるというのに、その直前で切るということは意味がない。これはあの思いだすだけでもむかついてくるサイモン・ゴドウィンのバカ演出に吉田鋼太郎ともあろうものが影響を受けたのだろうかと、いまいましい思いを抱きながら休憩中にトイレの前に並んだのだが、後半がはじまると、ガートルードの寝室にハムレットがやってくるところがもう一度舞台で示されることになった。後半は、前半のつづきではなく、寝室の場面をもう一度最初から示すことになった。前半部最後の不穏な終わり方は、寝室の場面の予告編のようなものだったとわかり(まあコマーシャルのあとの場面で、コマーシャル前の場面を繰り返すテレビドラマの手法といえばそれまでだが)、サイモン・ゴドウィン化してはいないことがわかり安心した。



最後に。シェイクスピアの『ハムレット』とはどういう芝居なのか。またそれを日本語で上演すればどうなるのか、それを知りたければ絶対に観るべき、また見る価値があるのが、今回のさいたま芸術劇場の『ハムレット』であった。
posted by ohashi at 02:00| 演劇 | 更新情報をチェックする