2024年04月29日

『母』と『息子』2

『Le Fils 息子』(劇場版)と『The Son/息子』(映画版)を比べてみると、最後の方の展開は、映画版のほうが緊迫感と非哀感において優っているというか適切であると言わざるをえない。

銃声が聞こえ息子が自殺したのではないかと、観ている者にも衝撃が走る。そして暗転。数年後に、父親は訪ねてきた息子に再会する。どうも自殺未遂であったようだと観客は安心する――自殺したほうが自然で、未遂で終わったというのは作為的のようにも観客には思えるとしても。大学にも進学して社会人にもなったらしい息子には、高校時代(とはいえ学校には通っていなかったのだが)にはできなかった恋人ができ、おそらく結婚するであろうし、また高校時代から書いていて小説が認められて出版の運びとなったことを父親は知る。おまえは、ほんとうに自慢の息子だと感激する父親だったが、つぎの瞬間、息子は消える。すべては父親の幻想だった。息子を失った父親は、なぜもっと息子のことを注視してやらなかったのかと父親が泣き崩れるところで幕となる。

最後に父親が幻想をみるところの流れは、舞台よりも映画表現のほうが効果的であるように思われる。と同時に、この場面は、この作品のカギとなる要素を集約しているのだが、その前に、なぜ息子は生きづらいと感じ、人生が重荷なのかについて答えが三つあることを確認しておきたい。

明確な答えとしては、両親の離婚である。離婚によって母親が傷つき、みずからも傷ついた息子は、厭世的気分に呪縛されて人生を重荷としか感じられなくなる。学校に通うこともできず、両親を喜ばせる安心させる嘘をつくしかなく、それがばれたとき、もはや行き場を失って死を選択するしかなくなる。両親の離婚が子供をいかに傷つけるか――その重大さ、そのとりかえしのつかなさが悲劇の原因となっている。ただし、これは現実における深刻な問題であると同時に演劇的世界としてはわかりやすすぎる解答である。ただし、これを究極的な答えとして観客は劇場からもちかえってもよいように作られていることはまちがいなく、いうなれば、これは観客にあたえられたボーナス的お土産である。これでこの劇に一定の満足感がえられる。

第二の答えは、答えがないという答えである。たとえ両親の離婚が引き金となったとしても、ここまでの自傷行為に、そして自殺行為に、つながるものだろうか。出発点は離婚だとしても、そこから先は、自分自身でも原因を把握できない苦しみが増大することになる。もはや息子はなぜ人生を生きづらいと感ずるのか、そもそも何が不安であり恐怖であり生を忌避させるのかわからなくっている。

また父親のほうも、みずからの離婚と再婚とが息子の苦悩の原因だとはわかっていても、その苦しみを息子がいつか克服すると信じているし、事態を常に楽観視している。ある意味、それは父親としては望ましいことであって、鬱状態あるいは双極性障害の息子に同調してみずからも鬱状態になる父親よりは、息子を励まし息子の現実復帰を信じて疑わない父親のほうが、息子にとってよい親であるように思われる。

ただし離婚を機にとはいえ、離婚問題を超越した生への虚無感を募らせる息子に対していは父親はなすすべがない。息子もまた自身でかかえている不安がなんであるか把握できないまま、みずからの存在に空いたブラックホールに最後には飲み込まれてしまうように思われる。ある意味、息子のほうは父親が経験もしなければ見ようともしなかった、生の実存に向き合っているともいえる。そしてそれゆえに死を選択するかなくなっている。

そうなると、たとえどれほど力を尽くしても父親には、このブラックホールをかかえた息子を救うことはできない。そもそも息子そのものがブラックホールであって、父親もやがては息子を救えなかった罪の意識ゆえに自死するのではないかという暗示がないわけではない。

ただ、繰り返せば、離婚/再婚を機に、世界の不毛と生の残酷に向き合うことになり自殺願望を抱くようになる息子――ゼレールの『Le Père父』にはリア王の影があったとすれば、『Le Fils息子』にはたしかに『ハムレット』の影がある。親の世代の重圧に押しつぶされ、生と死の選択をせまられ、いつしか世界の虚妄性と生の実存へと行きつく若者の物語は、どうしても『ハムレット』に似てくるのである。

第三の答え。それは映画版のほうに顕著なのだが、水の物語である。劇場版『Le Fils息子』では、息子が子供の頃の楽しい思い出として親子三人でサファリに出かけたことが語られる。映画版で息子と妻との楽しい思い出として父親(ヒュー・ジャックマン)の脳裏に去来するのは、ギリシア(だと思ったが)の海での親子三人の楽しい思い出である。劇場版ではサファリが、映画版ではギリシアの海となっている。しかも息子と過ごした海の思い出は、何度も父親の脳裏に去来する――劇場版ではサファリへの言及は一度か二度しかないというのに。

となれば息子と水/海との関係のもつ象徴性はあきらかである。息子は意識しているかどうか定かではないが、同性愛的性向をもつ人間である。かりに強く意識しているわけではなく、ただうすうす同性愛的欲望を感じているだけだとしても、息子にとって、その人生は、すでにいつも死とメランコリーに彩られている。そしてその死の願望は、欲望が承認されない限り、誰にもとめることができない。

この作品で息子が自殺したあと父親がみる成長した息子の幻影には意味がある。そこには父親が望んだ息子の将来像が投影されている。息子がその文学的才能が認められて若い作家としてデビューするというのは、父親が勝手に思い描く他愛もない夢である。ただし、その夢には、息子が愛する女性とともにあるという、強制的異性愛が寄り添っている。息子の幸せな未来に、なぜガールフレンドが必要なのか――10代の息子はガールフレンドはいなかったし、ガールフレンドを欲しがってもいなかったというのに。息子は強制的異性愛の世界には生きていないというか、生きづらかった。だが、そのことを父親は最後まで理解できなかった。父親は最後まで強制的異性愛の観点からしか息子をみていない。息子の幸福な人生には男性ではなく女性のパートナーが必要であると思い込んでいる。そこに悲劇の根源がある。父親は息子をまだ理解できてないのである――たとえどれほど悔いていようとも。

三つの解答のうち、父親の離婚と再婚が原因というのは、この劇が手渡してくれる軽い手土産である。もちろんこの理解は決してまちがっていない。これで満足する人は決してこの劇作品を理解できないわけではなく誤認しているわけでもない。

理由なき動機なき自殺というのは、トーラスというかドーナツのように中心の空白をめぐる空騒ぎともいえるこの劇にふさわしい原因――原因なき原因――かもしれない。両親の離婚と再婚を契機として、息子はいつしか生の実存とむきあいはじめ、ついにはそれに耐えられなくて自殺するという展開は虚無的でありまた悲劇的であり、すぐれた演劇・文学作品になる資格を充分もっている。

これに対し、せっかく謎を謎として提起し、この解きえぬ謎を中心に据えたパフォーマンスのすばらしさを確認できたというのに、その空白を同性愛というキー・タームで埋めてしまうというのは、なんという厚顔無恥で無責任きわまりない愚行あるいうは退行的措置かとあきれる方々もいよう。

だがこれまでの同性愛的表象は、表象しえぬ表象というかたちをとってきた。名づけえぬ行為、語られることのない悪行、歴史から隠された、など同性愛表象の特徴はその表象不可能性であった。動機なき理由なき行為は、同性愛的欲望と同性愛現象と等価でありパラレルである。動機なき理由なき行為の衝撃と不条理を糊塗するためにもっともらしい原因が措定される。これに対して同性愛を糊塗するという、ホモフォビアが、同性愛という原因を隠蔽するために、動機なき理由なき行為が、原因なき原因、理由なき理由として提示される。そこにあるのは愚劣なホモフォビアにすぎない。

息子の自殺の第三の理由を同性愛とすることに対する批判が、ホモフォビアつまり同性愛差別に汚染されていないかどうかは慎重に検証すべき課題であるように思われる。

Unnamableとは、名づけえぬ者、口にしてはいけない者という意味から神聖なもの、神を意味することになる。名づけえぬ生の不条理、世界の神秘は、聖なるものへの裏口になることがある。さらにえば、unnamableは、口にできない、いまわしいおぞましいものを意味することになる。意味付けられない意味、意味行為の極北ともいえるこのunnamableは、タブー視される性的な現象なり欲望にもつながっている。神、不条理、同性愛は、シニフィエなきシニフィアン、あるいは禁じられたシニフィエという点で、同位体なのである。
posted by ohashi at 12:23| 演劇 | 更新情報をチェックする