現在、フロリアン・ゼレールの二つの戯曲、『La Mère母』と『Le Fils 息子』が池袋の東京芸術劇場で上演中(29日月曜日まで。ただしその後6月30日まで全国を巡回)。
『Le Père父』と『La Mère母』と『Le Fils息子』で三部作ということだが、『Le Père父』は、2019年東京芸術劇場で上演。コロナ禍において私は劇場に足を運ばなかったので観ていないが、映画化作品『The Father/父』(作者自身が脚本を書き監督も務める)は観ている。
『Le Fils息子』は再演であり、またゼレール自身が監督した映画『The Son/息子』を観ているので、今回は、日本初演の『La Mère母』だけを観ることにした。
そして観ていて、『La Mère母』は、私が観た映画版『The Son息子』と設定が違う。映画『The Son息子』では息子は母親と暮らしていて、父親は家を出て再婚している。ところが『La Mère母』では夫婦は離婚していない。夫には愛人がいるようだが、離婚には至っていない。となると映画版ではなく劇場版の『Le Fils 息子』は設定が違うのかもしれないと思い、また『La Mère母』が面白かったこともあり、公演中だったものの急遽チケットを探したところ幸い空席を購入することができて、『Le Fils 息子』も観ることになった。
そして気づいた。劇場版の『Le Fils 息子』は映画版とまったく同じだった。ただシナリオの演劇的強度からすると(俳優の演技ということとは別)、『Le Fils 息子』のほうが興奮できたので、映画と同じだったからといって、時間と金を返せ(とはいえ誰に向かって言っているのだ)とまでは思わなかった。
5月には『ハムレットQ1』で吉田羊がハムレットを演ずるようだが、女性が演ずるハムレットは、舞台と映画でハムレットを演じたサラ・ベルナール以降の伝統もあるのだが、ハムレットはいいとして、たとえばリア王を女性が演ずるのにはむりがあるとかつて思っていたが、それは1997年11月に当時のパナソニック・グローブ座でみた『リア王』ではキャスリン・ハンターがリア王を演じていて、私の思い込みは見事に裏切られた
【デンゼル・ワシントン主演の映画『マクベス』に登場する気色の悪い魔女を演じたのはキャスリン・ハンターだと言われ、そうですかと答えた私は、すでに前世紀の終わりに舞台でキャスリン・ハンターの演技をみていた。キャスリン・ハンターは『夏の夜の夢』では妖精パックを演じていたと私に教えてくれた人がいて、その人の知識に感心した記憶があるが、よく考えたら彼女がパックを演じた舞台(ジュリー・テイモア演出)を映像化したDVDを私はもっているだけでなく、その一部を授業で学生に見せたことがあった。アテネのタイモンを女性が演じた舞台のDVDをもっていたのに、まだ観ていないことを思い出したが、現物を手に取ると、それはサイモン・ゴッドウィン演出の『アテネのタイモン』で、キャスリン・ハンターはタイモンを演じていた。どういうわけか、いずれの場合も私の記憶保持力の衰退の証拠でしかないのはなさけない。】
女性版リアは、リア王という老人と女性との間になんらかの類似性というものが見出されていなければ、説得力をもたないような気がする。では、その類似性とはなにか。邪魔者ということであろう。
女性も母親となって子育てを終える頃になると、加齢による容姿の衰えが顕著となり、夫にとっては良き伴侶というよりは、うっとうしい邪魔者になる。子供にとって生き方に干渉するだけでなく、たとえば息子の場合、息子の恋人とのライヴァル関係となって息子のとりあいとなり、息子からは人生を邪魔する悪しき存在として嫌われることになる。リア王との類似性は、まさに否定できない。なにしろリア王もまた、娘二人に邪魔者扱いされて、最後には嵐の荒野を彷徨することになる。最愛の末娘も、娘の夫なる者に奪われることを嫌って、自分から娘を嫁がせるかたちで追放する。邪魔者扱いされ迫害され孤独のなかで死を待つ――老齢になった女性の悲しい運命の客観的相関物こそ、リア王ではない
だろうか。
そんなことを『La Mère母』の舞台を観ながら考えていた。劇は、最初、ふしぎなことが起こる。同じことが反復され、時間ループ物の様相を呈してくる。そこからひとつの家族の崩壊がみえてくる。妻は、夫に裏切られ、夫を愛人に奪われそうになる。疎遠になった息子が突然帰ってきても、息子の関心は恋人との関係にあるらしく、ここでも母親は、息子を彼の恋人に奪われてしまうという悲哀を味わう。
だが、劇がすすむにつれてわかるのは、こうした家族の崩壊――夫には愛人がおり、息子は母親を顧みず恋人のほうを選ぶ――は、この母親の妄想かもしれず、彼女の脳内劇場を私たち観客は観ているらしいということだ。夫は浮気をしているわけでもない。息子は恋人といっしょに早く家を出たいと思っているわけではないのだろう。各エピソードは、ときにはわざとらしい演技と図式的な展開で、硬直化したパフォーマンスを提供することが多いのだが、それはすべて母親がつくりあげた妄想の不自然さ、不気味さを帯びている。と同時に、どこまでが妄想でどこからが現実かわからないところもある。虚実入り混じるスリリングな展開こそ、この舞台の魅力であろうか。そしてその舞台のコアには、寒々とした孤独とともに生きるしかない母親の存在がある。
ただし、この母親は、夫に裏切られたり、息子から疎まれたりはしていないのだろう。ただ、母親がそう思い込んでいるのであり、その妄想の呪縛ゆえに、彼女は精神病院に入院するしかなくなっている。むしろ、このほうが、実際に迫害され邪魔者扱いされるよりも、悲しく哀れを誘う。
フロリアン・ゼレールの三部作のどれにも、病院が登場する。父、母、息子、三人は入院患者である。私たち現代人は比喩的に入院患者かもしれないが、彼ら三人は文字通りに入院患者となるのである。そしてまたアルツハイマー病になったときの男女が示す行動あるいは恐怖心というもののなかに、その人の人生の縮図があるということを聞いたことがある。もしそうなら、この演劇作品において、病院に入院している母親にとって、その人生は、夫の裏切りと息子の離反におびえる一生だったのである。
つづく