2024年04月10日

『ポート・オーソリティ』

もうすでにシアター・トラムでの上演は終了したのだが(シアター・トラム、2024年3月28日-31日)、コナー・マクファーソン『ポート・オーソリティ――港湾局』(翻訳:常田景子、演出:荒井遼)は実に興味深い演劇作品だった。

コナー・マクファーソンについては、アイルランドとアイルランド演劇に詳しくない私でも知っている人気作家で、昨年から今年にかけても『海をゆく者』の再演があった。私はそれを観ていないのだが、2014年のPARCO劇場(改装前の)における再演は観ていた。今回の『ポート・オーソリティ』は初めて聞く作品だったので、事前に予習というか作品を読んでみた。

これがクセモノの作品で、「ポート・オーソリティ=港湾局」というのは、どういう設定なのか、港湾での事件とか人間模様を扱うのか、たとえそうだとしても、そんなに観劇意欲がわかない題材ではないかと思ったのだが、読んでみてわかった。どこにも港湾局はでてこない。そもそも港の話でもない。なぜ「ポート・オーソリティ」なのだ。

登場人物は3人。20代のケヴィン、30代のダーモット、70代のジョー。3人がこの順番で独白をはじめる。独白は中断し、次の人物が独白始める。ひとりで5回話をする。全部で15場。この3人の関係性が謎としてつきつけられる。だが実は3人に関連性はない。たとえばこの3人は一人の人間の青年期、中年期、老齢期かと思ったのだが、それはちがった。まあ三期にわたる人生模様を描くということかもしれないが、同一人物のことではなかた。では親族とか友人といった緊密な関係にある3人かというとそうでもない。

この三人の話を注意してきくと、共通の人物なり事件なりがみえてくるのだが、しかし、だからといってそれはつながりともいえないつながりであって、会ったこともない遠い親戚だったり、同じ地域にたまたま住んでいたり、隣人の知り合いの親戚だったりという場合がそうであるように、とにかくゆるいつながりでしかない。

また20代のケヴィンの話の中に恋人と港まで行く体験が出てくるのだが、それ以外のふたりの話のなかに港は出てこない。「港湾局」は最後まで出てこない。謎である。

しかし世代の違う3人の男性を登場させ、港湾局という謎めいたタイトルを付けたからには、そこに隠れたというか潜在的な関連性が仕組まれているはずである。

ひとつにはそれは3人の男性が語る経験の同質性がある。もちろん別個のなんのつながりもない経験なのだが、同時に、それらは共通のテーマをもっている。脱出とその失敗。解放と束縛。別離と再会。とにかくいったんは脱出に成功するかにみえて、結局、ひきずりもどされるという落胆と絶望。そしてその先にある諦念と平安。

たとえばケヴィンは親元から離れ、同じ世代の仲間と共同生活を営むのだが、無軌道で無責任な男女にふりまわされて警察沙汰になり失意のまま実家に帰る――それみたことかという父親の嘲笑のもとで、そして失意と諦念のなかで過ごす実家での生活に安らぎも見出しながら。

ダーモットは、転職して大企業に雇われ、同僚とアメリカまで旅行するのだが、間違って採用されたことがわかり解雇され失意のままダブリンに帰るが、そのとき実は妻が主導権を握っていたという真実を知り、この母のごとき妻に慰められる。ダーモットのアルコール依存症による不祥事にもかかわらず大企業が採用を見送らないのはなぜかと不思議に思うのだが、ただ、彼は物笑いの種、道化的人物として、大企業のエリートたちから侮蔑と嘲笑の対象としてもてあそばれた可能性もある。

老人施設で暮らすジョーは、かつて妻が入院中に隣人の女性と浮気をしたことがあるが、最終的に妻を裏切ることができず、つかの間の不倫で終わる。その出来事が老人施設におけるジョーのもとに影を落としてくる。彼は、不倫によってあらたな夫婦関係への冒険を試みて諦め、さらにその過去の出来事から逃亡したはずが追い付かれてしまう。結局、妻も、不倫相手の女性も亡くなったことが分かった今、彼は、二人の女性の思い出のなかにひとしく安らぎを見出すことになる。

この間、三人の語りのなかに、共通の人物とか地名とか家族と名称が言及され、それを通して三人がまったく無関係ではないことがわかるが、しかし、それ以上に発展はしない。と同時に彼ら三人の経験の共通性が強く印象に残る。おそらくそれが港湾という、語りに出てこないものの、語りの内容の同質性を支えるイメージの由来であろう。港は旅立つ者と帰ってくる者との出会いと別れの場である。逃げようとして逃げることができなかった3人の男たちの物語。それはまるで海のかなたにあこがれながら、港から旅立つことのできなかった者たちの物語ともいえようか。とにかく出発と離脱と回帰と収容――それをとりにしきっている何かがある。オーソリティという名前で。


ああ、これはジョイスの「イーヴリン」の世界だ。ジョイスの『ダブリナーズ』のなかで、もっとも有名かもしれない一篇(その短さも有名であることに貢献しているにちがいない)では、船乗りに誘われて、家族を見捨てて、海のかなたの世界へと旅立とうとするイーヴリンが結局、土壇場のところで、断念する。冒険と離脱の夢は結局あえなくついえさる。アイルランドの地、血縁の絆からは逃れられないことの確認と諦念。おそらく、専門家でもない私がいうのは気が引けるが、いかにもアイルランド的な離脱と挫折の物語が、ここにも顔をのぞかせるというべきか。

だが、この作品の特異性は、この三人の男性が似かよった経験をしていながら、結局、一度も互いに言葉をかわすことはないということだ。言葉はすべて観客に向かって発せられる。彼らは、弱いつながりがあっても、本人はそれに気づいていない。気づくのは観客だけである。

今回は、朗読劇というかたちをとった。もちろんそれは演出の荒井遼氏によるもので、もともと、この劇は朗読劇ではない。なぜ朗読劇にしたかについては、こちらで推測するしなかいのだが、ひとつには、3人の出演者は、それぞれ長い独白をする。100分くらいの演劇だが、3人は総計30分あまり一人で話すことになる。たがいに言葉を交わすことはない。そうなると演者には、台詞を全部を覚えるのに相当負担を強いることになる。朗読劇にすれば、すくなくとも俳優の負担は大きく減る。アフタートークでは、稽古は3回だと語っていた。たった3回の稽古で済んだというのも朗読劇であるがゆえん。ただしケヴィンは3人の俳優によって演じられたので、すくなくとも残り二人も3回の稽古だとすると、全部で9回の通し稽古ということになるのだが。

しかしたんに俳優の負担を減らすというだけが朗読劇の設定ではないだろう。というのも3人の俳優は、手に台本を持っているのだが、台詞は全部入っているように思われた。手にした台本を読んでいるようでいて、実は、ページをめくらずに、台詞を発しつづけるのである。あるいは私の観たケヴィンは、最後のほうでは、台本を置いて、舞台を動き回る。朗読していない。朗読劇ということ自体、この演劇空間に飲み込まれて虚構化しているのである。

これは演出の荒井遼氏がアフタートークで語っていたことだが、この芝居には、最初に、‘The play is in the theatre’という謎のト書きというか但し書きがある。私も原作を読んだときに、荒井氏と同様、これがどういう意味なのかわからなかった。

私なりの考えをいえば、この作品は、3人の男性の独白=語り(告白あるいは告解あるいはただの経験譚)から成り立っていて、しかも3人は舞台ではからまないから、たとえば、ラジオドラマ(おそらく今では流行っていないのだろうが)として放送することもできる。3人の声を、語りを、リスナーが、耳から受け入れてなんの不都合があるのだろう。

あるいは私は原作を読んだのだが、ここはどうするのだろうかと劇場に足を運ぶ必要にはかられなかった。すべて独白というか台詞が、完結した語りになっていて、その語りから、いろいろ情景とか人物像を想像するしかないのだが、それが舞台上に現前することはない。だから読書が観劇によって補完されることはない。

あるいは語られることを映像化して、テレビドラマ化、さらには映画化もできるかもしれない。3人が語る体験は、それなりに面白い。それを語りではなく映像・映画として提示することは可能であろう。3つの物語がオムニバス作品のように映像化される。

だが、こうした試みというか可能性を作者は否定するというか、はなから拒んでいる。それが最初の但し書きからわかってくる。その但し書きは、あくまでも劇場で上演せよと要求しているのだ。年齢と世代も異なる3人の男性が、かわりばんこに、自分の人生のなかで起った出来事を観客に向かって語る。それを劇場で聞けというのが作者の求めることであった。

アフタートークのなかでケヴィン役の西山潤(ちなみにケヴィン役は、あと崎山つばさ、櫻井圭登が日替わりで担当)は、以前共演したことのある眞島秀和と、今回共演の平田満と同じ舞台に立てると楽しみにしていたのだが、舞台上で、3人はからまない、言葉を交わすことがないという設定なので残念だったという話をしていた。ただし、舞台上で絡むことはないのだが、他の二人の語りとか演技に影響は受けてほしいと演出の荒井氏からは求められと語っていた。

なるほどそういうことか、と荒井氏の配慮というか考慮に青天の霹靂的な啓示を得ることができた。たしかに三人が交互に話をするだけで言葉を交わさない舞台は異様であり、またその語りは、注意して聞かないと場所とか人物とか出来事の全容が把握しづらい。私は試しにと目をつぶって語りを聞いてみた。そうすると発せられた言葉がすっきりと耳に入り心地よかったが、そのまま眠ってしまいそうになって(これは語り方とか語りの内容が退屈だったということではない)、やはり目を開いて、語り手の姿と声を受け止め、あわせてほかの二人の姿も視界に入れた。語っていない残り二人は、ただ座っているだけで、観客の注意をひくような仕草なり動作をすることはないのだが、その存在感というか現前性は無視できない。まさにそれが作者のコナー・マクファーソンの狙いだということがわかった。

舞台上の3人の男性は、それぞれ自分の体験を語るだけで、互いに言葉を交わすことはない。しかし3人が舞台上にいることで、なにかつながりができる。実際、そうであり、語られた体験は、直接的なつながりはないが、というか直接的なつながりがないがゆえに、かえって、その同質性が強烈に認知されるのではないか。そしてそれは3人の演者による語りと演技が劇場ならではの化学反応を起こし、その都度、3人の語りにプラスα的な、あるいは予期せぬなにかが付加される。それがなんであるかはわかないが、いやわからないからこそ、劇場的な生がオーラが化学反応が期待できる。ラジオドラマやテレビドラマあるいは映画には望めない、劇場的な生がここにはある。

ちなにに私が観た回は、すでに述べたようにケヴィン/西山潤、ダーモット/眞島秀和、ジョー/平田満の組み合わせだったが、それ以外にほかの組み合わせの回もあり、同じ台本なのに、舞台の印象は変わるのではないか、できればほかの回、ほかの組み合わせでの回もみてみたいと本気で思って、当日券でもあれば、翌日も観劇しようと思ったのだが、私の計画は、しかし、突如として訪れた体調不良のために、頓挫することになった(数日間、寝込んだわけではないが、何もできなかった。病院での検査では感染症ではなかった)。同じ劇であるのに、毎日べつの劇をみるという稀有な経験を見過ごすことになったのは残念だった。

それはともかく、演劇ならではの化学反応というのは、抽象的あるいは観念的な表現であって、それがなんであるのかを語るあるいは示唆しないと、何も言わないに等しいと非難されるかもしれない。しかし、この作品に限っては化学反応はある程度までその輪郭が描かれ暗示されているかもしれない――輪郭と暗示、またも観念的な表現と再度非難されるかもしれないが。

荒井氏の演出は、舞台を、夜の港それも港湾というよりも波止場あるいは漁村の船着き場というようなところに見立てている。もちろんこれは荒井氏の考案によるものだろうが、ポート・オーソリティという劇のタイトルに少しでも接近しようという試みかもしれない。と同時に、それは三人の男たちの眼前には、夜の海がみえていることになる。そう、これもまた水の物語ではないのか。『海をゆく者たち』も、これは船乗りとか漁師たちの話ではまったくない。ただイメージである。『ポート・オーソリティ』もまた港湾とか港湾局の話ではまったくない。ただのイメージである。そして船、船乗り、港といったイメージは、水の物語であることとつながっているはずである。

『ポート・オーソリティ』は、水の物語である。三人の男たちは、それぞれ恋人なり伴侶がいるのだが、しかし、彼女たちは、添え物かあるいは聖母マリア的な存在で、女性的存在としては男性の男性性を軸とする経験に深くからんでくることはない。そして三人の男たちのホモソーシャルの関係。三人が語る体験談は、ホモソーシャルではないが、舞台、つまり男3人だけの舞台ははホモソーシャルである。そしてこのホモソーシャル関係に、港とか水の物語のイメージが付与されることによって、同性愛的な関係が浮かび上がってくる。傷ついた男たちを救うものがなんであるのか、男たちは気づいていない。だが水の物語である以上、彼らを救うものはおのずと知れてくる。

今回の荒井氏の演出はそこに気づかされるものだった。もちろん、それは荒井氏が望んだものか、そうでないかは別として。とにかく面白く刺激的な舞台だった。
posted by ohashi at 22:39| 演劇 | 更新情報をチェックする