日本でも毎年のように制作されているタイム・ループ映画の新作が公開された。荒木伸一監督による99分の映画。ネタバレを避けて簡単なコメントを。
主人公(若葉竜也)は、毎日6月6日月曜日に起きるということを繰り返す。というか彼の日常は6月6日から次の日7日へと移行できないまま、同じ日を繰り返す。前日あるいはそれまでのループの日々の記憶は残っている。しかも彼が殺す相手である溝口(伊勢谷友介)も、彼と同じく同じ日々を送っているようで、毎日殺される。そしてその殺される記憶のみならず、殺されるときの痛みも体に残っているという設定である。
なぜループが起こるのか、どのようなからくりがあるのかについては、映画のなかできちんと説明されている。
たとえばこうしたタイムループ映画の嚆矢ともいえる『恋はデジャブ』(とはいえ、小説におけるタイムループの起源的作品は筒井康隆の『時をかける少女』だろうが)では、なぜループが起こるのか科学的説明はなされていない。同じ月曜日を繰り返す『ハッピー・デス・デイ』では、ループについて明確な説明はなされていないが、その続編『ハッピー・デス・デイ2』では、前作と同じ人物と環境のなかに、科学的SF的設定をもちこんでいた。
科学的説明の対極にあるのは心理的説明で、タイムループ映画とは認識されていないが、まぎれもないタイムループ映画『ラン・ローラ・ラン』で、悲劇的結末を避けるために主人公はさらに2回走ることになるが、それは失敗への悔恨と別の現実への願望に端を発する夢想としての同ルートの走破であり、最後にはハッピーエンディングを迎えることになる。
そのような脳内ドラマとは異なり、『ペナルティループ』では、誰が何のためにどのようにループを実現するかが一応説明され、観ている側も、たとえばタイムマシンで時間旅行ができると説明されればそれを受け入れるほかはないのと同じようにタイムループを受け入れる。
問題は、というかそれが、この映画のよいところなのだが、ループの原因がわかって一区切りついたところで、次に、何が現実で、何が夢なのかわからなくなる。ループの原因となった事件、そして主人公の決断、すべてが夢あるいはヴァーチャルな現実に過ぎないかもしれないという可能性がじわじわと表面化する。すべてが仮想現実での事件で、実際にはなにも事件は起こらなかったのではないか。そこがあいまいなまま映画は終わってゆく。
これは、この監督独特の一種のニヒリズムではないか。確実なよりどころとなる事実なり現実をすべて虚妄と処理してゆくような世界観が、前作『人数の町』よりも強くでている。
ちなみに『人数の町』は、毎年日本でも数多く出ている失踪者たちが結局政治的に利用されて頭数というか人数としての存在価値しか認められなくなるという設定で、そこに現代の政治に対する強烈な風刺があったように思われる。選挙の時に別人に成りすまして投票する。こうした不正によって利益を得るのは、国民にたいした支持も受けていないのに選挙に勝つ自民統とか維新といった保守政党だろうと思うのだが、しかし具体的にどの政党に投票したのかまでは示されない。
そしてさらに驚くべきことに、『人数の町』では、戸籍も住民票を失った彼らが別人になりすまして投票するだけでなく、デモにも動員される。しかもそのデモたるや、環境問題とか平等とか平和を訴えるという、いわゆるリベラルなデモにも動員されている。彼ら戸籍を失った者たちは人数として扱われるのだが、それには保守もリベラルも関係ない。そこにあるのは、政治について口出すことだけでなく、政治活動そのものをタブー視するリベラル・ヒューマニストの、いや、芸能界とか広告業界の不文律の前提に拘束された世界観である。
『人数の町』にあるのは、あらゆる政治活動や政治的姿勢の表明を嫌う自由主義的・個人主義的保守思想なのだが、現代の多くの観客が共有している思想でもあって、それは違和感あるいは嫌悪感をもたれずに受け入れられたと思われる。いいかたをかえれば、その映画は、環境破壊を批判するデモ行進にすら、いやそもそもデモ行進そのものに嫌悪感をもよおすような庶民の階層に賛同を得ようとしていた。だが、その保守思想は、ニヒリズムと肩をならべているのだが、それには気づかれなかった。
ところが『ペナルティループ』では、SF的設定による謎の解明のあとに、ヴァーチャルな現実しか残さなかったために、現実の現実味がなくなり、すべてが根拠のない夢のような、たしかなものはなにもないニヒリズムが前面に出ることになった。『人数の町』におけるニヒリズムと保守思想とは仲睦まじい関係にあったのだが、『ペナルティループ』には保守思想は影を潜めているのだが、そのかわりニヒリズムが前面にでることになった。これは何が現実で何が夢かわからなくなることと戯れるという映画的快楽を追及した結果なのだろうが。
ただし、すべてが曖昧になる『ペナルティ・ループ』において、確かなリアリティをもって迫ってくるものがある。それが男どうしの友情である。岩森/若葉竜也は、自分の恋人を殺した溝口登/伊勢谷友介を毎日殺し、その死体を川に捨てるのが日課になっているのだが、殺される伊勢谷も、殺す若葉も、徐々に疲れてくる。だんだん殺されること/殺すことに嫌気がさしてくる。ループの末期には、ふたりのなかに友情が芽生えている。若葉にとって伊勢谷は自分の恋人を殺した憎むべき悪人だが、しかし若葉の恋人/山下リオは死にたがっていて、伊勢谷の手を借りて自殺した可能性も生まれてくる。そうなると若葉にとって伊勢谷は冷酷な殺人鬼ではなくなる。むしろ毎日殺し殺される関係のなかで芽生えた親密な関係が、最終的に殺さない/殺されない関係へと変化し、そこに同じ運命を生きる二人の男性の友情めいたものが生まれる。このことがなんとも興味深いのである。
すべて不確かな『ペナルティ・スープ』の世界のなかで、若葉竜也と伊勢谷友介の二人の運命と友情だけが確かなものに思えてくる。男女の関係は不確かである。男同士の関係のほうが安定している。そして毎日、若葉は伊勢谷を殺しその死体を川に投げ捨てる。川あるいは湖か。一日の最後は水で締めくくられる。
そうこれは水の物語。また懲りないない奴だと言われそうだが、水の物語。それは男女を問わず同性愛の物語ときわめて親密な関係がある。
【ちょっと古い映画だが、マイケル・ウィンターボトム監督のデビュー作『バタフライ・キス』(1995)は、連続殺人犯の女(アマンダ・プラマー)と、彼女に魅せられた女(サスキア・リーヴィス)の逃避行を描くものだが、最後に、サスキア・リーヴスは、海辺で、アマンダ・プラマーを海に沈めて窒息死させる。それは憎しみや嫌悪の帰結ではなく、同性愛的情念のゆきつく死への願望の成就というかたちで提示された。海辺の死。水の物語。同性愛テーマに水の物語は設定として理想的なのである。】
2024年04月05日
『ペナルティループ』
posted by ohashi at 08:21| 映画
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