『ゴジラ-1.0』(ゴジラ マイナスワン英題: GODZILLA MINUS ONE])は、2023年11月3日公開のTOHOスタジオ・ROBOT制作による日本映画。【中略】タイトルに付けられた-1.0には、「戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負(マイナス)に叩き落とす」という意味がある。
とWikipediaでは説明しているが、実際、この説明(下線部)は、広く伝えられているが、そんな珍奇な説明を誰が信用するのか。
そもそもがゴジラの存在そのものも架空のものであって、実数というよりは負数の世界、マイナス・ワンの世界である。まあ虚構作品はみんなそうだと言えばそうなのだが。
しかしゴジラ映画というかゴジラ・フランチャイズのなかでの本作の位置づけを考えてみれば、-1.0の意味はみえてくる。ゴジラが最後には撃退されることは誰もが予想することなので、ネタバレでもなんでもないのだが、最後に破壊され深海へと沈んでゆくゴジラというかその破片だが、心臓だけは生きている。となれば、この心臓を核にしてやがてゴジラが再生し、再び日本を襲うということになる。7年後の1954年に。
ということはこの『ゴジラ-1.0』は、『ゴジラ』映画の第一作で描かれた出来事の前日譚ということなる。
ちなみに1947年に東京の銀座を襲ったゴジラは、メディアによっても報道されたのだが、政府あるいは進駐軍GHQは、その詳細を隠しているし、ゴジラを撃退する「海神作戦」も極秘裏に行なわれて一般国民の知るところではなかった。まさに闇から闇へと葬られた事件であり、抑圧されたものの回帰として1954年のゴジラが登場するということになる。つまり前日譚の出来事は、広く知られることはなかったという設定であろう。
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私は何の予備知識もなく映画をみたのだが、ゴジラ映画が登場した頃に生まれ、少年時代を送った私には、軍事オタクとまちがわれそうなほどの軍事知識が自然に入ってくる環境にいたため、第二次大戦についてはかなりの知識がある。
重巡洋艦高雄が登場した。シンガポールで修理中に終戦を迎えた、この高雄級の一番艦の登場には感慨深いものがあった(高雄は、実際には1945年に沈没処分されている)。シンガポールでは迷彩塗装を施された高雄だが、映画でゴジラに食われる前の高雄は迷彩塗装はしていなかったと思う。なお当時の重巡洋艦には日本の山の名前がつけられた。高雄級は他に「鳥海」「摩耶」「愛宕」の三艦がある。いずれも山の名前がついている。「高雄」は八王子の「高尾山」のことかと勘違いする人がいるかもしれないが、台湾の高雄山のこと、と私は思っていた。当時日本は台湾を植民地化していたので、台湾は日本の一部であった。しかし、京都の高雄山であるという説があり、これが正しいようだ。ちなみに台湾の高雄市という市の名前を巡洋艦に付けることはないと堂々と述べているバカサイトがあったが、台湾の高雄市には現在柴山と呼ばれている(寿山とも呼ばれる)山があって日本統治下では高雄山と呼ばれていた【さらにいうと戦時下の台湾には有名な山があった。真珠湾攻撃の暗号、ニイタカヤマノボレの、ニイタカヤマである】。
あるいは駆逐艦「雪風」。戦艦大和の沖縄特攻に随伴した護衛艦のひとつで、大和ならびに護衛艦の多くがアメリカ軍の猛攻によって沈没したなか、生き残った艦のひとつ。戦後は戦時賠償艦として中華民国に引き渡された。その雪風が「海神作戦」で指揮艦となるのも感慨深いものがあった。
要は高雄にしろ雪風にしろ、死にぞこなった生き残りの者たち(特攻隊だった主人公もその1人)が、セカンドチャンスにかける話。臆病風に吹かれて死ねなかった、あるいは偶然が幸いしてか生き残ってしまった者たちが、もう一度、たとえ生き残ることをめざすとはいえ、結局は死におおせることを目的とした特攻作戦を行ない、辛くも勝利するというのがこの映画である。もちろん、セカンドチャンスはなかったのだが、もしあったならという、虚構性・架空性を前提としている。まさにIFの世界。それゆえに、-1.0である。すでに終わったことを、もう一度前に戻す。それが-1.0であり、またありえなかったが、あってほしかった負の世界を描くという自意識を出しての-1.0ということにちがいない。
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映画の中では、ゴジラに襲われた通勤電車からからくも逃げ延びて、銀座で夫と再会する大石典子/浜辺美波だが、再会もつかのま、ゴジラが放つ熱線の爆風で吹き飛ばされて行方不明となる。この彼女が最後にどうなるか。彼女が行方不明となって死んだとなると悲劇性が増して、たとえゴジラを倒しても、主人公に、また観客にも、彼女のことは貴い犠牲と損失としてを受け止められるのだが、もし生きていたということになれば、安易なメロドラマ化に映画が屈したことになるのではと観ながら考えた。
最後、彼女が生きていることがわかり、敷島浩一/神木隆之介は、娘とともども病院いかけつける。病室には包帯を巻いた浜辺美波がベッドに横たわっている。感動的あるいはメロドラマ的再会であり、結局、そういうふうに映画をつくったのかと思い、ややがっかりしたのだが、このとき浜辺美波の娘(実際には血はつながっていないのだが)で永谷咲笑扮する明子は何の反応もしていない。あんなに会いたがっていた母親がそこにいるのにぽかんとしている。まあその場面は浜辺と神木の再会がメインで、母と娘の再会は二の次であり、子役にも再会の感動を演じさせるのには無理がある。
まあ子役の限界ということになるのかもしれないが、しかし演出の工夫によって、子役の限界を感じさせないでおくこともできたはずではないか。ということは、おそらく、これは意図的か。
ふと思う。子役の明子は、実は、そこに母親の姿を見ていないのでは、と。彼女の母親、神木の妻、浜辺は、実は、死んでしまっていて、もうそこにはいないのでは。すべてが生きていてほしい、再会したいという神木がみている幻影ではないか、と。だから、そこに何もみていない、そもそも最初から存在していなかった死んだ母親をみていない明子は、実は真実をみていた。
浜辺は死んだ、神木が彼女の幻影をみている。娘はそこになにも見ていないから無反応である。おそらく神木にとって浜辺は-1.0である。その意味で、映画の物語も、敗戦のあと生き残った者たちに、ありえたかもしれない夢を見せたという意味でも、史実の負の世界をみせる、まさに-1.0の世界でもあった。映画はこのことをそれとなく知らせているのではないか。この-1.0の世界を成立させる要となるのが、登場して暴れたあと負けて排除されるスケープゴートとしてのゴジラなのではないだろうか。