2024年03月20日
『リア王』
PARCO PRODUCE 2024『リア王』(2024年3月8日 - 31日、東京芸術劇場 プレイハウス / 4月6日・7日、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 劇場 / 4月13日・14日、刈谷市総合文化センター アイリス 大ホール / 4月18日 - 21日、SkyシアターMBS / 4月25日・26日、キャナルシティ劇場 / 5月2日、まつもと市民芸術館 主ホール)
訳:松岡和子 演出:ショーン・ホームズ
出演:段田安則/小池徹平/上白石萌歌/江口のりこ/田畑智子/玉置玲央/
入野自由/前原滉/盛隆二/平田敦子/高橋克実/浅野和之/秋元龍太朗/中上サツキ/王下貴司/岩崎MARK雄大/渡邊絵理
私にとって、大きな劇場でのシェイクスピア劇公演としては、昨年の10月の新国立劇場中劇場における『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』以来だが、昨年の新国立劇場中劇場での観劇の際には、日曜日の午後の回を観たのだが、客席に空席が目立った。今回の東京芸術劇場のプレイハウスの公演では、同じく日曜日の午後の回を観たのだが、客席は満席だった。
この違いはどこからくるのだろう。おそらくは劇作品の知名度の違いだろうか。『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』は、シェイクスピア劇のなかでも問題劇とされているものだが(まあ「問題劇」というレッテルも観客を遠ざける要因かもしれない)、「四大悲劇」といってもてはやされている『リア王』に比べたら、無名の作品といっても過言ではない。『尺には尺を』のほうはけっこう上演されるのだが、一般に知名度は低いし、『終わりよければすべてよし』にいたっては、上演されることすら少ない。少ないから貴重な機会だから見てみようという気をおこす人は、それほど多くなかったのだろう。結局、シェイクスピア劇といっても、翻訳で読む限りでは難解でもなんでもないのだが、一般観客にとっては敷居が高いにちがいない。
『終わり……』と『尺には尺を』の不人気は、演出とか俳優のせいでは決してなかったと思うのだが、今回の『リア王』の舞台は、知名度にも助けられているかもしれないが、演出と俳優の演技のせいで劇場を満席にした(補助席もでるくらいなので)といっても過言ではない。現在公演中で、チケットが余っているのかどうかわからないが、観劇のチャンスがあればご覧になられること強くお勧めする。
昨年の『終わりよければすべてよし』と『尺には尺を』の公演では、ともに空席が目立ったのだが、最後には、立ち上がって拍手する、いわゆるスタンディングオベーションする観客がたくさんいた。このことは、観劇態度が悪かったと直接見聞きしたのではない伝聞情報をSNSに書かれて憤慨していた猪瀬直樹氏は、自分が立ち上がって拍手しなかったから批判されたのだろうと述べていたが、新国立劇場の公演では観客が少なかったのに毎回スタンディングオベーションをしていたみたいだ。なんなのだろう。やけくその景気づけか? 満席の『リア王』の公演では誰も立ち上がらなかったが、それがふつうである。最終公演では立ち上がって拍手するというのが慣例になっているが、それがふつである。とはいえ劇場のせいではない。昨年の東京芸術劇場の『橋からの眺め』も私が観た回には空席が目立ったが、最後にはスタンディングオベーションをしていた。なんなのだろうか。
以下は今回の『リア王』の演出についての考察である。ネタバレも含むので、劇をご覧になる前の方は読まないように。
1.現代服上演(1)
『アンソニー・ホプキンスのリア王』という映画(正確にはテレビ映画)のネット配信(AMAZON PRIMEだったか)に対するAMAZONのいつものことながら低次元(であるがゆえに私の好きな)レヴューに、『リア王』を王道の演出でもみてみたいというのがあった。『アンソニー・ホプキンスのリア王』は近未来の世界とはいえほぼ同時代に設定となている。ではシェイクスピアの戯曲はどうなのか。物語は史実ではなく伝説に属し、それは紀元前8世紀のことである。イタリア半島にローマが建国された頃ということになっている。だが、この時代設定は全く守られていない(多神教の時代ということで「神々」と呼ばれるくらいか)。戯曲にはフランス王だのバーガンディー公爵だのが登場する。フランスという国民国家が存在しているかのような設定である――紀元前8世紀というのに。つまり戯曲にあるフランスとは、シェイクスピアの時代のフランスなのである。
時代設定はめちゃくちゃである。というか時代劇ではない。そもそも材源自体が、伝説とおとぎ話との混交で、歴史ドラマではない。むしろ最初から、同時代の話あるいは同時代のアレゴリーとして受け止めることが要求されている。
そのためシェイクスピア時代では、同時代の服装で演じられていたにちがいない。17世紀、18世紀の上演でも、残っているイラストなどをみると同時代の服装で演じられている。そもそも紀元前8世紀にブリテン人がどんな服装をしていたのか誰も知らないのだから当然の処置である。シェイクスピア劇のすべてがそうでないとしても、『リア王』はつねに、同時代服・現代服上演が王道の上演形態なのである。
2.現代服上演(2)
ただし現代服上演で現代の政治社会や文化のアレゴリーを盛り込むということはできても、同時に芸術作品は時代を超える。安易な普遍性を持ち出すべきではないが、ローカル性あるいは同時代性の強調は、それをも超えた作品の超普遍性なり形而上性を実現できるのだろうか。今回のショーン・ホームズ演出の衣裳では、リア王は国王あるいは王族というよりも会社の社長、悪くいうとギャングのボス、せいぜいよくてファミリー経営のオーナー程度にしかみえない。そうした現代のビジネスの世界における愛と裏切りのドラマなら、それでもよいが、その背後にある一種の宇宙的崩壊とか新旧時代の対立を示唆するときは、現代服は阻害要因となる可能性がある。
3. 空間の使用
舞台全体の三分の一、それも客席側からみての三分の一を使う冒頭からの展開は、緊迫感とスピード感で魅了する。白い壁は、清潔感と同時に闇や汚れを嫌う圧迫感をかもしだす。黒と違って白は、重苦しさとは無縁のどちらかというと解放感を与えるのだが、黒とはちがった圧迫感や威圧感をかもしだす。しかも、この白い壁は、一部が壊されたり、落書きされたりして、汚れるたり一部が壊れたり破れたりするのだ。それが秩序への挑戦と破壊にみえ、汚れた白壁が、落書きされた壁となって重苦しいさを立ち上げることになる。
後半というかリアが荒野に出ていったあと、嵐の荒野が舞台になると、白い壁は取り払われ、黒い壁で三方を囲まれた大きく広い舞台空間が出現する。また天井も白い空間のときよりも高くなり、そこに蛍光灯がずらりとならび、蛍光灯の点滅と大音響で、雷鳴と落雷を表現している。
この大きな空間も圧迫感を与える。白い空間での演技と比べ、この広くて暗くて黒い空間での演技は、演ずる者を小さくみせる。嵐の荒野の場面は、ある意味では、怒り狂うリア王の内面の光景でもあるのだが、そのようなことを思い起こさせないほどの、巨大な空間は、人間を虫けらのように押しつぶすかにみえる。あるいは人間を超えた大きな強大な力を感じさせる。
ここには、先ほど述べたようなファミリー企業の経営者とかオフィスを思わせるようなものはなくなり、人間の営みをあざ笑うかのような神秘的な力が感じられる。ここでは、宇宙的な動揺を肌で感じ取られるような神秘的な巨大な空間と、それに翻弄される小さな人間との対照性がくっきりと浮かび上がる。
4.蛍光灯
白いオフィス/宮廷の場面でも、また嵐の荒野の場面でも、天井には蛍光灯がずらりと並べられる。それらは下の舞台を明るく照らすだけではなく、時に部分的にしか点灯されなかったり、一部が点滅をくりかしたりして、蛍光灯全体のなかで壊れかかっている部分のありかを示すのである。へたをすると蛍光灯の一部、あるいは全部が壊れて点かなくなるのではという不安がよぎる。この世界では、文明の支えたる電気と電灯・蛍光灯が壊れ消えかかっている。その不気味な秩序崩壊への予感と不安とを蛍光灯の点滅で効果的示唆している。
演出家のショーン・ホームズはリアにとって自分が狂気に陥ることへの恐怖が強いと語っているが、狂気への転落、秩序からカオスへの転落、その可能性への不安と恐怖が、蛍光灯の点滅で効果的に示されているのではないか。
そう、私の家にも点滅をくりかえす古くなった蛍光灯、しかも、今回の舞台のようにジーと音を立てていまにも点灯しなくなるであろう蛍光灯がある。蛍光灯の不調が崩壊とカオスの予兆になることをあらためて思い知らされた。
5.場面転換
東京芸術劇場のプレイハウスは大きな劇場である。とくに舞台の端から端までを使うと、退場とか登場に時間がかかりそうだ。その時間、劇の流れが途絶えてしまいそうなので、退場する俳優と登場する俳優とが同時に舞台でまじわることがある。前の場面での役者が退場し終わった時点で時を置かず次の場面の役者が話をはじめられる。いやもっと正確にいうと、退場する役者は袖からはけるのではなく、舞台上の椅子に座ったりする。そしてその間、次の場面の役者が登場しはじめるか、すでに座っている椅子から立ち上がって話はじめる。退場と登場がオーバーラップする。そうして時間短縮が図られれ流れが途切れることがなくなる。
また退場する役者は、袖にはけるのではなく、その場にとどまることが多く、また次の場面の役者も舞台の椅子で待機していて、その姿を観客にみせている。これは、退場せずに舞台にはとどまる俳優をみて、観客はいま終わったばかりの場面の余韻に浸ることになり、また次の場面の役者がすでに舞台にいることから、いろいろ予想をたてる、あるいは予想しなくても次の場面を意識しはじめる。過去が現在にもとどまり、未来が現在に入り込む。時間が錯綜し、過去と未来とが絡まりあう。その面白さ、あるいはややこしさが、この演出の狙いではないだろうか。
6.多くの俳優が正面をむいて話す
おそらくは対面して言葉をぶつけあっていると思われる場面でも、当事者の俳優はまっすぐ観客席をみて台詞を発している。手紙を読む(音読する)場面でも、俳優は手紙そのものに目を落とすことなく、客席にむかって手紙も文言を、手紙をみることなく伝える。そのため台詞は聞き取りやすいが、時としてなぜ互いに顔を見あって話をしないのか不思議に思えてしまう演技が生まれる。
ただし話し相手ではなく観客のほうを向いて話すというのは、現実ではありえないが、演劇にとって基本中の基本、まさに演劇的な身振りである。たとえばフランスの新古典派の時代の演劇(ラシーヌとかコルネイユとかモリエールの時代)では、役者は直立不動で客席を向いてただ朗々と台詞をしゃべるだけだったともいわれている。演技とかアクションは夾雑物であり、台詞、言葉を客席に届けることが演劇の使命だとするなら、客席をむいての語りは、演劇の王道といえる。
しかし、それでは納得できない何かがある。ひとついえること、それは俳優が客席にむかってのみ話すというのは、独白の場合である。結局、この芝居では、登場人物全員が、すべてではないとしても、ほとんどの場合、相手に話をしているようで、結局、独白していて、相互のコミュニケーションは眼中にないのではないだろうか。自分の言いたいこと伝えたいことを話すだけで、それがどう受け止められようが、どのような効果なり結果をもたらそうが関係ないということなのか。これがひとつの考え方。
舞台の外に退場しない場合、役者は舞台上の椅子に、演技の邪魔にならないように座っている。この姿は客席からみえる。と同時に、椅子に座っている間、その役者は、場面上には存在していないことになり、死んだも同然である。つまり死者、人形、ロボットのような存在となる。これらは時間がきたら、場面のなかで必要となったらスイッチが入って、登場する。もちろん、そんな演劇機械のような象徴性など、今回の演出からはみじんも感じられないから、私の勝手な妄想とあきれられるかもしれないが、出番の終わった役者を舞台に座らせておき、次の場面に登場させるというような処理は、時間短縮や演劇の流れの円滑化のため以上に、演技性そのものを見せる仕掛けなのではと思えてくる。
たとえばただ座っているだけの俳優が、次の瞬間、リア王になり、エドマンドになりゴネリルにリーガンになる。そしてそれが終わったら一人の人間・俳優として魂が抜けたかのように椅子にすわって待機することになる。このとき観客がみているのは、リア王とかエドガーとか道化ではない。リア王になること、エドガーになること、道化になること、その演技化の運動をみている。演ずることと演じられること、そのふたつのうち、ふつう観客は演じられること(演技のシニフィエ)しかみないが、ここでは観客は演ずる行為そのものも観ているということになる。
この方式は、『リア王』という作品ともシンクロしている。『リア王』の後半では、狂ったリアが、椅子やがらくたを自分の不忠の娘ゴネリルやリーガンに見立てて裁判をする。あるいはエドガーは目が見えなくなったグロスターに断崖絶壁と思わせて自殺から救う。グロスターは崖の上から飛び降りたつもりでも、平たい舞台にただ身を投げ出したにすぎない。だが自分は断崖か飛び降りたと思っている。この詐欺、それをよきものとみせかける演劇性。『リア王』では、演技とか演劇性そのものが主題にもなっているであり、そのようなメタドラマ性は、俳優が演劇マシンではないかと思われるようなかたちでの客席に語りける台詞とか、退場しないで舞台に残る方式によっても、じゅうぶんに強調され補強されるのではないだろうか。
もしそうだとすれば、そこにまた欠点も生まれる。話しているのはリアではなく、リアを演ずる役者であり、出場が終われば、俳優にもどる一時的なものにすぎず、長い人生を生きてきた老人の心の深淵など最初からない、魂も心もないゾンビとしてリア王がみえてしまうのだ。どの役柄も、一時的に役者が憑依する、あるいは役者に憑依するものでしかなく、その正体はゾンビであり死者である。そんな負のイメージも生じかねない。
6.それがハエではないか。子供が遊ぶ虫けらというのは原文ではfly(ハエ)である。そしてハエは邪悪のハエの王を暗示すると同時に、死体にむらがるものでもある。つづく
posted by ohashi at 00:47| 演劇
|
