2024年03月04日
『落下の解剖学』
2023年度カンヌ映画祭におけるパルムドール受賞作品で、評判にたがわず緊迫感あふれる映画【監督ジュスティーヌ・トリエ】。2時間30分ほどの上映時間がまったく気にならない。最後まで見入ってしまった。また映画館でみて、これはパルムドール賞だけでなく、パルムドッグ賞にも値すると思ったら、実際、パルムドッグ賞も受賞していた。当然の、納得の受賞。その理由は――見ればわかる。犬がすごいから。
アナトミーというタイトルは「解剖」とか「解剖学」としか訳しようがないのかもしれないが、またこれは私の個人的な妄想かもしれないが、たんに深い分析とか考察とかいう意味はもちろんのこと、それ以外にも、たとえばノースロップ・フライが、その『批評の解剖』のなかで着目した「解剖」という文学形式とも関係があるのかもしれない。
フライは、アナトミー形式をメニッポス的風刺とむすびつけているが、しかしフライ自身の著書のタイトル『批評の解剖』は風刺的あるいは批判的ではなく文学構造を俯瞰的にみる視座を提供するものである。いうなればメニッポス的風刺から風刺性を希薄化する、もしくは切除して、可能な限り全体像を提示する。しかし、それはたとえ風刺性をそいでいても、メニッポス的風刺の構造は維持している。つまり示されるさまざまな人物像あるいは観点なり思想は、どれも欠陥があり風刺の対象となるのがメニッポス的風刺であった。それにならって、いくら可能性を網羅した全体像を示しても、そのどれもが最終的解決ではない。
そしてまさにそれがこの映画だった。つまり裁判の結果とは関係なく、また自殺という可能性はあっても、同時に、誰もが犯人であるかもしれない――犬ですらも殺人に加担したかもしれない――という決定不可能性状態、あるいは可能性の飽和状態で映画は閉じられるのである。
しかし、だからといって難解な映画、後味が悪かったり、フラストレーションが残ることはない。
重たいという感想もあるようだが、それは重たいと思う人間の頭が最初から鈍重なだけで、むしろ映画をみたあとは爽快感にあふれている。
もしこれが疑問の余地なく犯人が特定され真相が隅々まで明らかになったら、なんて安っぽい映画なのだろうと、それこそ頭を抱えて重い気持ちで映画館を後にするしかないのではないだろうか。
裁判物の映画である。そして裁判物の常として、少しでも真相に迫ろうと観ている側の集中力はマックスになる。また裁判物・法廷劇でもあるので、観ている側は、早急な結論に飛びつくのではなく、かといって不必要な遅延とか無意味なミスリーディングに苦しめられることなく、着実に段階を経て真相が明らかになるプロセスに参加できる。そう、プロセスという語には、訴訟手続・裁判手続きの意味もある。良質な法廷物映画がそうであるように、この映画でも、裁判の進展とともに真相が明らかになっていくさまは、きわめてエキサイティングである。
だが、自殺か殺人か、殺人だとしたらいつだれがどのように殺したのかという真相を究明する裁判のなかで明らかになるのは裁判の真相そのものでもある。決定的な客観的証拠がない場合、すべては原告・被告側の代理人の弁論が裁判の勝敗(そう勝敗なのだ)を決める。どちらの弁論が論理的に破綻がなく整合的かどうかが問題となる――真相は、決定不可能となり、もうどうでもよくなるのだ。
さらにいえば論理性だけではなく、あるいはそれとは関係なく、説得性が問題となる。説得力のある物語を構築しえた側が裁判に勝つ。もちろん揺るがぬ客観的証拠がある場合とか、疑わしきは罰せずの原則が厳密に守られる場合とかは別にして、勝訴・敗訴を問題にする裁判は真相解明の場ではなくレトリック闘争の場となる。法廷は舞台。弁護士、検察官、判事は、みな役者。彼らには、それぞれ出場と台詞があり……。
これがまさに裁判のリアルなら、この映画は事件の真相を暴くなかで裁判の真相を白日のもとにさらすといってもいい。いや暴かれたのは裁判のリアルで、事件の真相はやぶの中といってもいいだろう。
だが、このことを私たちは映画の最初からわかっているわけではない。裁判によって真相が暴かれることを期待して画面に集中する。そして映画がはじまってからおよそ半分くらい時間がたってから(2時間半つまり150分の映画の中で、はじまってから75分くらいのところで)、夫が死ぬ前日の夫婦喧嘩の録音が法廷で公開される。検察もこの夫婦喧嘩に妻が夫を殺害した原因があるとみる。録音はすぐにフラッシュバックにかわり、夫婦の激しいやりとりが映像となって迫ってくるが、最後の部分のところでフラッシュバックは終わり、録音に耳をそばだてている傍聴人たちの姿が映し出され、物が壊れたり怒鳴ったり叫んだりする声が録音から聞こえるものの、何が起こったかは想像するしかない。壮絶な夫婦喧嘩の最も激しい部分が、その中心ともいえる部分が、音のみで伝えられ、真相は謎のままとどまるのである。
この映画では、肝心の部分が露呈しない。肝心かなめの部分が空白となっている。夫の死亡についても、自殺なのか他殺なのか正確なところはなにもわからない。最後まで。この映画の中心、事件の真相には、ただ空白が脈動しているしかない。最後まで。最後になって、結局、空白のまま、何も埋まらないまま、何も真相があきらかにならないまま終わることが観客にもわかる。
しかし、それがわかるまでは、真相が解明される期待と渇望に観客は翻弄される。そして真相そのものではなくても、真相の近似値は示される。
この夫婦喧嘩の原因を考えてみてもいい。裁判の結果がどうであれ、また途中の証言がいかなるものであれ、妻のほうも最後まで怪しいという感想をネット上で読むことができるのだが、どうもそれは、夫をたてない妻の傲慢さに反感を抱くメール・ショーヴィニストのくだらない感想でしかない。しかし小説家である妻が、学生からのインタヴューをうけているときに、階上で家全体に響き渡るような大音量で音楽を流して嫌がらせをする夫に対して殺意を抱いたかもしれないとは、容易に想像がつく。なぜなら、この夫の垂れ流す大音響に私も殺意を抱いたからだ。
50セントのP.I.M.Pという曲のインストルメント・ヴァージョンということだが(歌詞のほうは、相当ひどい女性蔑視的な内容ともなっていて、そのことは裁判の場でも検察側が触れている)、スチール・ドラム(スチール・パンというのか?)の音は嫌いではない私でも、あの大音量は生理的にも耐えがたく(そもそもグルノーブルの雪山の中で、カリブ海の音楽は聴くこと自体違和感マックスである)、あの大音量は暴力的な反応を誘発させるのにじゅうぶんなものがある。姿をみせない夫は、相当にひどい人間であると映画の冒頭からわかる。温厚な平和主義者の私だが、階上に行って音楽をやめさせるか、いうことをきかないようなら、その夫のむなぐらをつかんでバルコニーから下へと放り投げて殺してしまうかもしれない。私は、全面的に妻の味方である。
また、個人的にも、知人の女性が夫婦仲が悪くなっていて、事情を聴くと、結局、この映画の夫と同じようなことを言って、妻たるその知人の女性を責めていることからも、私は、個人的には、この映画のなかで夫には同情しない。妻のほうに同情する。夫は妻に苦労をかけまくっている加害者であるにもかかわらず、自分は妻からのプレッシャーの被害者だと言ってのける。まあ、夫婦喧嘩というのは、どこでもそうしたものかもしれないのだが、私の感想にはバイアスがかかっているとは思わない。
この映画のひとつの解剖所見では、夫は負け犬だが、失敗の原因を自分ではなく妻のせいにし、妻を悪者にして自分を正当化するというクズ人間である。追い詰められて自殺しても、妻に殺されても、どちらも当然の報いということになる。私はこの解剖所見を全面的に支持する。
ただし解剖所見はそれだけではない。自殺か他殺かについては確証はないものの、妻はかぎりなく怪しいし、もし殺したなら、それを黙って裁判で無実を訴えるというのは相当な悪女である。しかし彼女だけではない。視覚障碍者の息子もまた、証言を二転三転させている。視覚障碍者が唯一の目撃者であるという皮肉な状況が生まれているが、彼はまた、見えない目撃者であるかもしれないが加害者かもしれないのである。あるいは事故で父親を死なせたかもしれないのだが(事件後あれほど号泣していた彼は、父親の死を悼む以上の何か衝撃的なことを隠していたのかもしれない)、彼が父親の死の原因である可能性はある。
もちろん盲導犬といっていい犬のスヌープもまた怪しい。彼もまた少年の父親を襲った可能性がないわけではない。目の見えない少年と言葉をしゃべれない犬が真相を握っているという皮肉。あるいは少年と犬だけが、何かを知っている。真相をつかんでいる。開かれを経験しているのである。
だが、たんに誰が殺したかというレベル以上の死因も暗示されている。小説家の妻は、自分の人生上の経験をアレンジして小説を書き、高い評価を得ているという設定になっている。父親と自分との関係。自分の息子が失明する事故のこと。不仲な夫との関係。すべて実人生から材料を得て小説を書いている。
ただそうなると自分の人生と小説のなかの出来事との区別がつかなくなりはじめる。あるいは言い方をかえれば、自分の人生を演ずることにもなる。自分の人生が、虚構の人生と重なってくる。しかも皮肉なことに、今回、この事件では、彼女が実際にはどうであれ、小説のなかの人物のようにふるまうことが一般大衆から期待されている。つまり彼女は夫を殺す真犯人を演ずることを一般大衆や読者から期待されていることになる。
だが虚構と人生の境がなくなっているのは、夫の方もそうである。みずから小説も書く夫(ただしその小説は妻のそれと比べれば売れていないし評価も高くないようだ)は、妻との喧嘩を録音して、それを文字に起こして小説に使おうとしていることがわかる。そのこと自体最低の所業と思わずにはいられないが、死ぬ前日の壮絶な夫婦喧嘩も、夫が仕組んだ芝居といえないこともない。あるいは夫がいろいろなものを録音してそれの文字起こしをしていることを知っている妻は、夫婦喧嘩にも、どこか一歩引いた演技者として参加していたのかもしれない。
いっぽう妻のほうも、夫が思いついてもうまく小説として完成させらなかったアイデアを使って自分で小説を書いた。夫からはアイデアを盗んだとなじられるが、それは許されることだとしても実生活が虚構の材料を提供する、あるいは自分のアイデアと他人とアイデアの境がつかなくなるという点でも、両者(現実と虚構、自己と他者、理念と実践)が入り乱れる。絡み合う。
そしてそれが現実なのである。あるいは解剖形式による現実表象は、真実もしくは事実と可能性とを、真相とオルタナティヴとを同列に置く。そしてどれが中心でどれが周縁か、どれが真実でどれがべつの選択肢としての真実か、どれが起こり、どれが起こらなかったのか、どれが演技でどれが素の状態なのかの区別がなくなる。それが俯瞰的にすべての可能性を展示してみせる解剖形式の特徴である【「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」がアナトミー形式の特徴であえる】。
『落下の解剖』は、裁判で確定したものはゆるぎない真相であるどころかゆらぎがついてまわるように思われる。自殺か他殺かは判別できない。自殺であっても、自殺者への殺意はうずまいていた。実際におこったもしれないことと、目撃証言とは齟齬をきたす。そして最後に勝利するのは、真実ではなく、美しく説得力のある捏造かもしれない。その捏造が真実にとってかわるのかもしれない。
ポスト・トゥルースという言葉は今では誰も覚えていないかもしれないが、しかし、たんにフェイク情報を流して、それが真実として通用するような政治・文化的状況を意味するのではないポスト・トゥルースという用語ならまだ消えるのは早すぎる。事実は確定的で真実はいかようにも捏造あるいは偽造できるという二分法ではなくて、そのような事実と真実とが入り乱れ、どちらがどちらかわかならくなるという事実/真実もあること、まさにそれが現実であること(妄想や空想もまた現実の一部とみなすこと)、その感触の一端を私たちは『落下の解剖』でつかむことができるのかもしれない。
【なお夫が妻の浮気を容認していたのは、妻がバイセクシュアルで、妻がほかの女性と寝ていたことについては、さほど男性あるいは夫としてのプライドも名誉も傷つかなかったからというようにみなすことができるが、このバイセクシュアル問題は、この映画が、深く追求してないか、私たちに残された課題であるかの、どちらかであろう。】
posted by ohashi at 16:03| 映画
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