2024年2月2日~29日
東京都 シアター風姿花伝
作:ラーシュ・ノレーン
翻訳:ヘレンハルメ美穂
演出:上村聡史
出演:岡本健一、那須佐代子、竪山隼太、山崎一
コロナ渦前にはシアター風姿花伝によく行っていたが、コロナ禍には外出を控えていたので、久しぶりの風姿花伝である。入口までに階段を上ったり下りたりするので3階か4階にある劇場と思っていたが、今回、終演後、指示された階段を一階分降りて、さらにつぎの階段はどこかと探したら、そこはもう歩道だった。つまり入口/出口は2階にあることを初めて知った。知るのが遅すぎたのだが。
知るのが遅すぎたのは、ラーシュ・ノレーンの芝居もそうで、シアター風姿花伝での過去のノレーン作品上演の評判のよさを知ると、北欧演劇は専門ではないからと観なかったことが悔やまれる。ノレーン作品の高い評価は、今回の『夜は昼の母』(Natten är dagens mor)を観ても深く納得できるものだった。
ホテル経営をしている父親と母親そして二人の息子の四人が登場する家族芝居なのだが、家族はたがいにいがみあっている。最初、それは16歳の次男がゲイで家族のやっかい者になっているからだろうと推測できるのだが、劇がすすむにつれて(とはいえ一日の出来事なのだが)、父親がアルコール依存症であることわかる。断酒していたのに隠れて酒を飲み始めた父親が家族間の対立を激化させることになる。気づくと、家族を壊したアルコール依存症の父親への愛憎関係が軸となって1:3の闘争関係ができる。
そして激しい家族喧嘩の繰り返し。あんなに大声をあげてどなりあう喧嘩だとすると、従業員やホテルの客が嫌悪感いや恐怖感を抱くのではないかと心配になるが、4人だけの芝居で、それ以上登場人物は増えない。従業員も宿泊客も、壮絶な家族喧嘩をみてみぬふりをしているということか。あるいは私たち観客が、目撃者に見立てられ、息を飲んで興味津々に凝視しいているということかもしれない。
そしてアルコール依存症という優れて演劇ばえ、いや演技ばえする精神疾患【ばえるというのは、現実にそんな人間がいたら私たちは嫌悪感を抱くしかないのだが、演劇においては私たちはその存在感と演劇性に圧倒されるということである】。もちろんアルコール依存症は社会問題化していることでもある。
そもそもアルコール依存症それも重度のそれは、たんに酒が飲みたくてしかたがないという渇望感にさいなまれる精神状態というにとどまらない。妄想いや幻覚にとらわれ、さらに暴力をふるったりもするのだ。アルコール依存症は、いわゆる酒乱状態もしくは錯乱状態を伴う。いいかえるとアルコール依存症の人間は、現実を直視しないで、現実を幻想に置き換え、自己の創造した幻想の国に君臨する君主となる――そのため現実と周囲の人間を支配下に置くべく暴力をふるうことも辞さない。飲酒をしなければ誠実で温厚で思いやりのある優れた人間であるのに、アルコールが入ると、豹変し、暴れはじめ、隠れた悪魔的人格が表に出る。まさに同じ一人の人間が光から闇へ、静謐から狂乱への変容と回帰の往復運動をする。その揺れ幅の大きさは、当人を、すぐれた演技者にみせてしまう。
そう、アルコール依存症の人間は、現実においてではなく劇場のなかで出会うのなら、プロテウス的変幻自在の演技性を誇示しつつ、現実を支配し、みずからの幻想の王国をたちあげる、まさにプレーヤー・キングplayer kingあるいはステージ・キングであって、観客とっては、こんなに驚かされ、こんなに唾棄すべき、そしてこんなに面白い人物はいなのである。ああ、プレーヤー・キング。
この『夜は昼の母』では、アルコール依存症の父親を山崎一氏が演じているのだが、山崎氏の舞台を全部みているわけではないのであくまでも私の数少ない演劇体験のなかでの話だが、こんな山崎氏をみたことがない。そのエネルギッシュな酒乱男の暴走にはただただ目を見張るしかない。演技者としての山崎氏の圧巻の演技への驚きは、アルコールが入ると別人に豹変するアルコール依存症の人間に対する驚きとかぶってくる。内容と形式とが、演じられる人物と演じる人物とが一致する稀有な時間が出現するのである。
劇行為そのものは、酒乱の父親によって壊れてしまった家族関係から、いかに逃れるか、あるいはそれをいかに修復するか、あるいは修復できないと諦めるかをめぐって展開する。
家族のメンバーたちの葛藤と衝突は観ていて面白くてたまらないのだが、しかし、この家族に救いは訪れないだろうという気がする。酒乱の父親に見切りをつけて出て行こうするのだが、最終的にそれが誰にもできないまま、狂乱の一日と一夜のあと、翌朝を迎えることになる。
この無力感、このストックホルム症候群のような暴力的支配者への共感と許し。おそらくそこに、作品が1980年代後半の作品であることの時代性がよくでているのではないか。現代からみると、夫婦はさっさと離婚すればいいし、子供たちも親を見捨てて出て行けばいい。あるいはこの暴力的酒乱の父親を殺しても今なら正当防衛として認められる、つまり無罪となる。かりに収監されても、スウェーデンの刑務所は、日本のビジネスホテル並みの施設で圧迫感や閉塞感はない。つまりこの状態を打破できる可能性はじゅうぶんにある。だが1980年代のオヤジの世界には、その可能性が不可能なものとなっている。
実際、このアルコール依存症で酒が入ると暴君に豹変する父親は、1980年代の、日本でいえば昭和時代の末期の、不適切にもほどがある、コンプライアンス無視のクソオヤジをほうふつとさせる。そしてこのクソオヤジは、どんなに責められても、最後には許されてしまうのだ。そのためこの作品の家族は、ある意味、どこにでもある問題をかかえた家族なのだが【私自身、そうした家族をけっこうい身近に知っている】、同時に、そこから抜け出せないと思っている点で、いかにも昭和、いや、1980年代的なのである。
実際、この芝居は、狂乱の一夜のあと、ひとりを除いて、みな疲れ切って眠ってしまう。夜の眠りは昼の母。その眠りが忘却への引き金となって、これまでの父親の暴虐が、たとえ忘れ去られることはないにしても、緩和され希釈されてしまう。そうなると毎日が同じことの繰り返しとなる。この家族は学習しないまま不幸を繰り返すのである。
この3月にはまたもやタイム・ループ物の新作日本映画『ペナルティ・ループ』が公開されるようだが、飽きもせずループ物をつくりつづける業界もどうかと思うが、それでも人気のあるタイム・ループ物は、この『夜は昼の母』をみる、ひとつの視座を提供してくれる。
もちろんこれは私の勝手な見解にすぎないのだが、『夜は昼の母』の家族は、狂乱の一日あるいは狂乱の一夜の後、翌朝目覚めてまた同じような一日を過ごすのではないか。父親は、断酒の禁を破って酒を飲むことで人格が豹変し、そのあげく暴君的な家長となって家族を支配しようとし、母親は離婚を考え、子供たちは家を出ていくところまでいく、そして翌朝……。なにも変わらぬ家族の一日がはじまる。まるで前日に戻ったかのように。
もし家族の者たちが忘却の河を渡ってしまい記憶を失うのなら、毎日が繰り返しに、それも酒乱の父親をめぐる一大事件、結末も救いもない一大事件の、繰り返しとなる。記憶を失うか記憶が薄れることによって、アルコール依存症の悲惨な実態が緩和される。そしてその悲惨を毎日、いやというほど味わうことになる。一日の出来事を記憶しないかぎり、同じ一日の繰り返しは逃れることのできない罰となる。この家族に救いはない。彼らは同じ一日を永遠に繰り返す――この感想は、リアリティがある。なぜなら演者は、翌日も同じ演劇を、同じ一日を演ずることになるのだから。タイムループ物は演劇上演の世界のメタファーでもある。
岡本健一が最初に登場する。彼は女装をして口紅をひく、今でいうとトランスジェンダーである。そしてゲイの人間であることを兄に糾弾されて兄弟関係が険悪になる。ちなみに岡本健一氏は、16歳の誕生日を迎える少年の役を演ずるのだが、それは無理がありすぎる。またとくにメイクなどで実年齢をごまかすことはしないので、中年男が、16歳の少年の下手なコスプレをしているとしかみえない。
そこで、なにかたくらみというか、16歳にみえない岡本健一を正当化するような設定があるのかもしれないと期待したが、残念ながらそれはなかった。そのためいくら優れた演技者とはいえ、54歳の岡本健一が16歳の少年を演ずるのを我慢するしかないのだが、ただ、この少年、不眠症ということで家族が寝静まったあとでも起きている。それはまた彼が記憶の人であることを物語る。忘却は、毎日をペナルティ・ループに変えるが、記憶は、たとえ同じことの繰り返しであってもこまかな差異への気づきによって変化への希望が生まれる。
タイム・ループ物の設定では、ループしていると気づかないかぎり、囚われ状態が続くが、ループに気付くと、たとえどんなにわずかなものであっても変化への希望が生まれる(もちろん悪化の可能性にも気づくことになるとはいえ)。家族のなかで、岡本健一演ずる次男だけが成長を遂げる。ほかの家族は子供でしかないのだが、彼だけは大人もしくは大人になる途上にある。
現実をみようとせず現実を支配しようとするプレーヤー・キングたる父親と、現実に目をひらき現実を支配するのではなく現実を模倣し記憶しようとする次男、この二人のある意味超人の対決はまた、私たち全員がかかえている内部抗争のメタファーともなるのだろう。
とりあえずの感想である。今回の衝撃的な上演そし圧巻の演技は、私にとってラーシュ・ノレーンの作品の強烈な通過儀礼となった。遅ればせながら、他の作品を読んでみることを決意した。