劇団はえぎわの主宰者ノゾエ征爾氏が劇団はえぎわと彩の国さいたま芸術劇場の共同企画としてたちあげたシェイクスピアの悲劇『 マクベス』を、東京芸術劇場のシアター・イーストで観てきた。
ノゾエ征爾氏の脚本による芝居とか本人が出演している芝居は観たことがあるが、恥ずかしながら、ノゾエ征爾氏の演出による舞台を観たことがなかったので、『マクベス』をなんの予備知識もなく観に行くことになった。
とはいえ『マクベス』の舞台は数えきれないくらい観ている私としては、シェイクスピア劇についてまったく何も知らないまま舞台に接したといっても嘘になるので、予備知識なしとっても、ノゾエ征爾氏の演出手法とか劇団はえぎわの舞台については何も知らない(恥ずかしながら)という意味である。
さて、そのような私の感想としては、それを先にいってしまえば、すぐれた舞台で、じゅうぶんに楽しむことができた。シェイクスピアの『マクベス』のエッセンスのようなものをしっかり把握しつつ、独自の解釈を加えているという点で、忠実でありながら独創的なパフォーマンスは見事というしかない。おそらく、これからも、機会があれば、ノゾエ征爾氏の演出作品を観に行きたいと思った。
劇場に入ると、舞台に木製の椅子がずらりと並んでいて壮観である。ノゾエ征爾氏はイヨネスコの『椅子』の舞台(リーディング公演)を演出したこともあり、また他の作品でも、同じ型の木製椅子を使ったこともあるようなので(実際に舞台を観たわけではなく、画像や映像資料によって推測しているにすぎないのだが)、椅子はノゾエ征爾氏のトレードマークかもしれない。ただ、それとは無関係にシェイクスピアの『マクベス』は椅子のドラマであることを、今回の、ある意味、斬新な演出によってあらためて思い知らされることになった。
そもそもマクベスがダンカン王を殺すことになったのは、自身が王の後継者として選ばれなかったことにある。王は息子のマルカムを後継者に選び宣言した。だが、マクベスは、ダンカン王を殺害することで、王の後継者の椅子をマルカムから横取りすることになる。この椅子取りゲームは、さらにマクベスが王座についてから諸侯を集めて宴会をするとき、彼が殺したバンコーの亡霊が、マクベスが座るべき椅子に座ってしまい、マクベス自身、椅子取りゲームの敗者となるというかたちで続く。
『マクベス』のなかで象徴的に語られるマクベスのイメージとは、今回の公演でもそうだったが、体にあわない、だぶだぶの服を身に着けている権力者ということである。ただ、このイメージは言葉で語られても、実際に視覚的に体に合わない服をきているマクベスが舞台に登場した例を私は(限られた観劇体験においてだが)知らない――体にあわない服を着ている人物というのは道化的人物であり、マクベスを道化として表象する演出があれば、だぶだぶの衣装を身に着けたマクベスを登場させてもおかしくはないのだが。
それよりもむしろ視覚的に強烈な印象を与えるのは、マクベスに座るべき椅子に、マクベスが刺客を使った殺したバンコーの霊が座るところである。座るべき椅子がない。椅子が奪われる。椅子を奪っても、その椅子が奪われる。王位簒奪の表象としての椅子取りゲームは強烈な視覚的存在感を主張する。
また椅子は人間の座る道具であるため、たとえ誰も座っていない椅子でも、そこに人間の存在が暗示される。椅子と人間とは一体化しているのであり、椅子を壊したり倒したり、空席の椅子に座る行為のひとつひとつに、人間の死のイメージが付着する。その意味でも、椅子とはなんとも不気味な装置といえなくもない。つまり椅子は亡霊を座らせているのである。
さらにいえば椅子は劇場においては、観客「席」のメタファーでもある。舞台で椅子たちがぞんざいな扱いをうけるとき、それは観客にとってみずからの受難のイメージともなりうる。舞台上の椅子は、観客の亡霊を座らせているのだから。
ただしノゾエ征爾氏の演出は、椅子を有効に象徴的に使っているのだが、その際、椅子取りゲームのイメージを強調はしていない――そこはお断りしておかねばならない。今回の演出では、椅子は最初は壮観なまでに整然と並べられている。椅子は舞台の進行とともに、置き換えたり並び替えられたり、時には組み合わせ合体させ積み上げられたりして、舞台空間を自在に構成していく。その構成力に圧倒される。椅子を並び替えただけで、新たな空間が示唆される変容のすばらしさにはただただ目をみはるばかりである。
もちろん椅子は空間の布置を作り替え新たな空間を創造するために貢献する道具であり装置であるというだけではない。倒されたり、不規則に集積されたりして人物の動きを妨げる椅子は、舞台空間全体に混沌とした乱雑な印象をもたらすとき、椅子は創造の道具であるとともにカオスの分配器ともなる。
そして舞台の始まり――壮観なまでに整然と並べられた椅子。椅子の列は、マクベスの登場によって整然さを失い混沌とした無秩序感を醸成したあと、最後に舞台上に、もう一度整然と並び置かれるのだが、舞台の始まりにあったような壮観なまでの椅子の秩序感というのはすっかり失われ、いびつな椅子の並びが出現するだけである。今回の『マクベス』は、秩序破壊者マクベスの物語を、登場人物だけでなく、椅子の群れたちにも語らせているのである。
『マクベス』はシェイクスピア作品のなかでも短い方で2時間くらいの舞台に簡単に収まるのだが、ただ、それでも劇的展開には夾雑物や不要とも思える紆余曲折はけっこうある。ノゾエ征爾氏の今回の演出は余計な台詞なり展開をカットし、また舞台から演者が去らないよう出番が終わった演者を舞台の影の部分に残していることが多いため全体的に場面の区切りが極力目立たないようになっているため、全体としてみてきわめてスピーディーな展開の『マクベス』となっている。ただしカット部分が多くあっても、『マクベス』自体もともと贅肉の少ない芝居であるために、『マクベス』という作品が貧相になったり口当たりのよいなめらかな芝居に変えられたという印象は受けない。むしろ、これは誰がどうみてもシェイクスピアの『マクベス』そのものだし、『マクベス』のもつ劇的エネルギーを損なうことなく主題を(それがいかなる現代的意味をもつかは観客ひとりひとりが考えるしかないのだが)を着実に私たちに伝えてくれているのではないかと思う。
もちろん今回の演出上の数々の工夫や技巧については不明な部分も多い――たとえば上演開始前の場内アナウンスにも、『マクベス』的世界を浸透させようとしていることには驚いたが、ただそれがどこまで有効かは私には判断できなかったし、舞台空間そのものを枠どる舞台両脇に置かれた小物たちのもつ意味を今も私は判読できていない――が、それは観客が自分のなかで反芻して未来に答えを出すべき課題なのかもしれない。
まさにそういう意味から、この『マクベス』は、一度ならず二度以上観てみたい公演だし、また再演を繰り返してほしい公演だということを私はここに宣言できる。
シェイクスピアをよく知らない観客にとって、シェイクスピア演劇への一歩としても、また同時に、ノゾエ征爾演出への一歩としても、今回の公演は貴重な機会になるのではないかと思う。
なお演者の方々の素晴らしさについては、ここで触れていないが、触れていないからこそ、それは当然の前提と化している――演者の方々の今後のさらなる活躍を期待する。
東京芸術劇場では2月25日まで公演中。興味があるかたは足を運んでみては。