ドン・フアン・マヌエル(1282-1348)の説話集『ルカノール伯爵』(原題は『ルカノール伯爵とパトロニオの教訓の書』)、その日本語訳は、私の愛読書なのだが、なぜ、中世スペインで書かれた説話集を知っているのかというと、大きな理由は、ここにシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』の物語の原型めいたものが含まれているからである。日本語訳の『ルカノール伯爵』の解説で指摘されているように、第35話「たけだけしい気性の粗暴な娘と結婚した若者に起こったこと」がそれである――シェイクスピアは『ルカノール伯爵』から直接想を得たわけではないのだが(ちなみに解説では触れられていないが、第27話にも『じゃじゃ馬ならし』とのつながりがみえる)。
その他、アンデルセンの『裸の王様』の原型となった物語(第32話)とか、ボルヘスが『汚辱の世界史』のなかで使った物語(第11話)――「『ドン・キホーテ』の作者ピエール・メナール」と同様に、ボルヘスは『ルカノール伯爵』の物語をほぼそのまま使っている)などがあって、『ルカノール伯爵』にはエッジの効いた物語がけっこう多い。
そしてこれを日本語で読めることの幸せを私たちはかみしめるべきであろう――ドン・フアン・マヌエル『ルカノール伯爵』(スペイン中世・黄金世紀文学選集③)』牛島信明・上田博人訳、国書刊行会、1994。
この『ルカノール伯爵』には身代わりの物語が多くあるのだが、そのうちの一つがひどく感動的であって、私自身、キリスト教に改宗しようと思ったくらいの力があった。それが第48話「自分の友人を試した若者に起こったこと」である。
物語は、父親が息子に真の友人は得難いものだがら、たくさん友人をつくるようと忠告する。息子は多くの人たちと交わり彼らに惜しげもなく金品を贈って多くの友人をつくる。彼らは困ったときには何でもして助けるとその息子に約束したのである。
息子が短期間にたくさんの友人をこしらえたことに驚いた父親は、その友人たちが真の友かを試すために、息子にこうすすめる。まず自分が殺した人間の死体を隠してほしいと友人たちに頼め、そしてもし自分が官憲に逮捕されたなら弁護してほしいと友人たちに頼むのだと。
案の定、息子のにわか仕立ての友人たちは息子の願いを却下し弁護することすら拒む。落胆した息子が父親に報告すると、次に父親は、父親自身の「半分だけの友人」を試してみてはどうかと息子にすすめる。息子に頼まれたその「半友人」は、父親との友情ゆえに、息子の願いを聞き入れる。
【ちなみに、困ったときに助けてくれるのが真の友という"A friend in need is a friend indeed."という格言に通ずるこのテーマは、中世において好まれたテーマかもしれない。英国の中世道徳劇『万人』Everyman(15c)では、死神がやってきて冥府へとくだらなければならくなったエヴリマン氏は、友人たちに同伴を求めるが、ほとんどの友人たちは途中で彼を見捨てて逃げ出す。唯一彼の同伴者となったのはグッド・ディードGood Deedだけであった。真の友人などめったいにいない。あてにならない友人というテーマは、『ルカノール伯爵』のこの説話に通ずるものがある。なお道徳劇『万人』は純英国産ではなく、オランダ起源である。】
すると父親は、息子に、その「半友人」にいいかがりをつけて殴れと命ずる。殴られた「半友人」はしかしそれを根に持つことなく、息子の殺人行為は隠しておいてやると明言する。
息子がこのことを父親に報告すると、では自分の「完璧な友人」を試してみるといいという。息子が、その父親の「完璧な友人」に、これまでの経緯を伝えたところ、その友人は、あなたをどんなことをしても守ってやると約束すると言ってくれる。
以下引用:
ところがちょうどその頃、その町でひとりの男が殺されたのですが、その下手人がなかなかみつかりませんでした。【目撃証言もあり】この若者が犯人ということになってしまいました。
それからのことは長々と申し上げるまでもありません。その若者に死刑の判決が言い渡されたのでございます。父親の友人は若者を救おうとできる限り手を尽くしました。しかし、どうしても若者の処刑を回避することができないとわかると判事たちに、罪のないあの若者をこのまま死に追いやるのは良心が許さない、実は男を殺したのはあの若者ではなく、私の一人息子なのです、と申しました。そして息子に自白するように説得すると、息子は罪を認めて処刑されました。こうして真の友人をもった父親の息子は命が助かったのでございます。(牛島信明・上田博人訳、p.279)
この戦慄的な説話においては、このあとルカノール伯爵の相談役パトロニオが伯爵に語っているように、真の友人とは神のこと、その息子はイエス・キリストのことである。そしてこのエピソードは、人間の罪を背負って処刑されたイエス・キリスト物語の世俗版である。実際、説話の必ず最後に付される教訓的な二行詩には「みずからの血で人の罪をあがなわれた/神ほどよき友人は決して見出せない」(p.281)とある。宗教的寓意は明らかである(ちなみに「半友人」というのは聖人のことと説明される)。
イエス・キリストが全人類の罪を背負って処刑されたというキリスト教神話はよく知られているが、それをこのように市井の生活のなかの一挿話として、世俗化された物語として語られると、その異様さに驚く。そしてその不条理なまでの無償性に、世俗性を超越する聖性が立ち上が。
『菅原伝授寺子屋』では、松王丸が、自分の息子小太郎を、管秀才の身代わりとして殺すことになる。子供を身代わりとして殺すこと。それはキリスト教の神と同じ行為である。ただしキリスト教の神は、救うに値するかどうかわからない人間(ちなみにこの説話では、息子は殺人を犯してはいないとしても)の身代わりとして、神の子、それも無辜の子を犠牲の羊として差し出すのに対し、松王丸は、主君菅原道真への忠誠心から自分の子供を身代わりにする。松王丸は、悲劇の主人公である――子供を殺してきた日本人も罪と悲しみを一身に背負うことによって。だが忠誠心は無償ではない――たとえ欲得性がミニマムであっても。もし松王丸が、罪深く薄汚い人類のために、わが子をささげていたら、彼は神になっていたかもしれない。
『ルカノール伯爵』のなかのこの説話において、身代わりは二重である。ひとつには「真の友人」が友情ゆえに、友人の息子の身代わりとして、自分の息子を罪人として差し出し処刑させること。そしてもうひとつの身代わりは、キリスト教の神話(神の子イエスが、全人類の身代わりとなって処刑されるとうい物語)を、世俗化することによって――世俗版物語を宗教的寓意の身代わりにすることによって――、この神話のなかにありながらふつう気づかれることのない、異次元の戦慄的な無償性があぶりだしたこと。
後者の場合、身代わりというのは、アダプテーションあるいは隠喩化といってもいいのだが、身代わりは劣化とは矮小化ではない(そのようなことは起こりうるとしても)。ここでは隠蔽されていた可能性が立ち上がる稀有な瞬間が実現している。その驚異的な聖性をまえにして、私がキリスト教に帰依しようと、たとえ一瞬でも、本気で思ったのは当然だったのである。
【追記:この記事の最後の一節で述べているのは、「異化」という文学上の技法の効果に通ずるもの、いや異化効果そのものといってもよい。そして異化効果である以上、事象なり事物の良性面ではなく悪性面も露呈させることがある。次回、最終回のくせに補足的にこの点を、『ルカノール伯爵』のなかの説話を例に考えたい。】