2024年01月02日

『枯れ葉』

アキ・カウリスマキ監督の6年ぶりの新作ということになるのだろうか。2017年に『希望のかなた』を最後に、引退宣言をした監督の2023年の新作。ただし個人的には『街のあかり』『ル・アーヴルの靴みがき』以後、カウリスマキ作品は観ていない。久しぶりのカウリスマキ作品なので、どう対応してよいのか最初戸惑った。

かつてはふうつうに面白がって観ていたのだが、その勘が10年間に失われてしまったため、まるではじめてカウリスマキ作品と遭遇した初心者観客と全く同じで、はじまってからかなりの時間、違和感に悩まされた。

映画は、無表情の人物を正面からとる場合が多く、その人物たちは無表情のうえ寡黙で、何を考えているのかわからない変人のようにもみえるし、いつも過剰な演技していえるようにも、あるいはプロの俳優ではなく素人が演技しているようにもみるという独特のパフォーマンス空間を現出させる。また戸外はともかく、室内は、いつも独特の人工的な色合いで、照明もどこかわざとらしく、しかも、それを「シュール」という形容でごまかさなければ、ノスタルジックなどとは程遠い、ただなんとなく古臭いといった独特の雰囲気を漂わせている。これはカウリスマキ映画の特徴であることは私の記憶にも刻まれていた。

では、物語はどうか。たとえば女が男に電話番号を記した紙を渡す。男はその紙を落としてしまい連絡がとれない。女のほうも心配になり男と出会った映画館に行ってみる。すると歩道にたばこの吸い殻が密集して落ちていて、そこでヘビースモーカーの男が待っていたらしいことがわかる。あるいは女と連絡がついて、すぐに女のところへ駆けつけようとして市電にはねられる。だが病院にはこばれ昏睡状態。死ぬことなく、昏睡状態からも目覚める。う~ん、昭和初期から戦後にかけての時代の、すれちがい映画の世界だ。カウリスマキだからこそ許されるプロットだ。ふつうならこんなカビすら幾重にも層をなして死滅しているようなプロットが採用されるべくもない。

映画のこの緩くて古い世界が、芸能や文芸に政治は不要だと考える日本の愚かな観客どもにとって至福の映画的快楽の源泉となっているらしいことがネット上の感想をみるとわかる。みんな面白がっている。この映画は、幸せな気分になるために、年末・年始にみる映画の代表格にまつりあげられている。この映画は「幸福の約束」なのである(アドルノ的な意味とは異なるのだが)。だったら『劇場版SPY×FAMILY』でも観に行けばいいのだ(ちなみに私は劇場版であろうがテレビ版・配信版であろうが『SPY×FAMILY』の大ファンであり、劇場版もすでに観た)。

しかし、この映画のどこが面白いのだと考え始めると、台詞のやりとりが面白いということに思い至った。人物たちは、気の利いたことを話そうとしているというか話している。ナンセンスな、あるいはシュールな台詞を幾度も発している。だが話すほうも、それを受け取るほうも、ともにデッドパン(dead pan)状態だから、面白ことを言っても、ただスベッているだけのようにもとらえられる。これがわかると、台詞のばかばかしさに心のなかで笑えるし(そんなとき観ている側もデッドパン)、それに対する無反応・無表情(まさにデッドパン)に対しても笑えるという二重のおかしみを感ずることができる。このコツがわかったので中盤以降、この映画の台詞のやりとりが面白くてならなくなった。カウリスマキ映画をみるときのコツのようなものをとりもどしつつある自分がいた。

だが、こうしたデッドパン喜劇的な映画は、社会的・歴史的現実から隔離されたノスタルジックな映画的ユートピアかというと、そうでもない。いや過去のカウリスマキ映画はそうだったかもしれないが、この『枯れ葉』の映画の世界には死の影が忍び寄ってくる――「われアルカディアにもあり」。女性の主人公の住居は、電子レンジと携帯電話はあるが、黒い固定電話と古い型のラジオしかなく、テレビはなく、パソコンもない。なにか昭和初期を思わせる時代設定あるいは時空間のゆがみのなかでに、ウクライナ侵攻を伝えるラジオニュースが入ってくる。ここには現実界が容赦なく入ってくる。ロシア軍がウクライナの病院施設を攻撃しているというニュースは、ガザにおけるイスラエル軍の暴挙をもほうふつとさせて観客にとっても心穏やかでない。女性の主人公は、このニュースを聞くと食欲をなくしラジオを切るのだが、リアルは確実に映画的ユートピアを侵略している。

いや、そもそも主人公の雇用形態も不安定であり、映画のなかで語られてもいたのだが、彼女は「ゼロ時間契約」(zero-hour contract)労働者という非正規雇用労働者であって簡単に首を切られてしまう。また仕事も不定期なので銀行でローンも組めないなど、さまざま不利益を被っている(ちなみに『Perfect Days』の役所広司演ずる清掃員も、ひょっとしたら「ゼロ時間契約」労働者なのかもしれない)。

そしてロシアのウクライナ侵攻とゼロ時間契約労働者の彼女が失業する事態が同時に起こる。『枯れ葉』の世界線は私たちの現実から隔離された別世界ではなくなっている。そのなかで、かろうじて、不幸な状態、逆境にもめげない昭和の中年の恋人たちのありえないハッピーエンディング物語が展開する。この映画のデッドパン状態はどちらかというと、喜劇的ではなく悲劇的なのである。

この映画の英語のタイトルはFallen Leavesである。「落ち葉」でもよいのではないか。「枯れ葉」にしなくともと思ったが、映画の最後にエンドクレジットにもかかるかたちで、フランスのシャンソン「枯れ葉」(「枯葉」とも表記)が流れてきたので、シャンソンのタイトルを映画のタイトルにもしたということで、「落ち葉」ではなく「枯れ葉」にしたのだとわかった。

「枯葉」は古い歌だが今の若い人たちもよく知っているであろうシャンソンの名曲で、1945年ジョゼフ・コズマ作曲、ジャック・プレヴェール作詞の短調のバラード。6/8拍子の長い序奏部(前説)と、4拍子のコーラス部分(さびの部分)から成る。長い前説の部分は、失われた恋と青春を嘆く歌詞からなり、コーラス部では男女二人の愛の絶頂期をたたえるとともに、その終わりを悲しむことなる。日本語ヴァージョンでさびの部分で「枯葉」という言葉がたたみかけられるのだが、フランス語の歌詞では、さびの部分に「枯葉」という言葉は一度も出てこない。全体としてこの歌は失われた愛を回顧するもので、映画のようなハッピーエンディングの対極にある。映画は暗い時代において、ロシア軍のミサイルやドローン兵器によって死んでゆく病院患者や解雇されて暮らしてゆけぬゼロ時間契約労働者がみるつかのまの悲惨な白昼夢なのである。
posted by ohashi at 23:25| 映画 | 更新情報をチェックする