感じ悪い奴だと思った。たとえていうなら私が大谷翔平の隣人で、毎朝、挨拶をかわす仲の一般人として、日本の多くの大谷ファンからうらやましがられているようなものである。私は野球関係者ではなく、ただの一般人であるので、そんなときは、むしろ自分から自慢すると思うのだが、もし私が野球選手だとしたら、いくら大谷翔平が私など足元にも及ばない偉大な選手だとしても、あるいはそうした選手だからこそ、たいして有名でも有能でもない野球選手の私が、隣人なり同僚として人からうらやましがられるのは気持ちのよいものではない。ホント。
私も、その学生に、いくら柴田先生が有名で人気があったとしても、柴田先生の同僚だからとうらやましがるのは、失礼じゃないか。もし柴田先生が、私、大橋と同僚だからとうらやましがられたら(まあ、そういうことは万が一にもないとしても)、柴田先生も気持ちがよくないと思うぞと言おうとしたら、その学生の、私に対する、もう、恍惚というか忘我状態の羨望のまなざしを前に、なにも言えなくなったことを覚えている。
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ヴィム・ヴェンダース監督『Perfect Days』(2023)は、東京のスカイツリーを見上げる下町の木造アパート暮らし、公衆トイレの清掃員として働く平山/役所広司の日常を描くものだが、汚い仕事と思うことなかれ。なにしろこの映画の最初の驚きは、彼が清掃する公衆トイレが、どれも信じられないほどきれいというか美しい芸術的たたずまいをみせていることだ。前衛的・近未来的な公衆トイレは、それ自体でひとつの芸術的オブジェである。たとえていえば安藤忠雄が設計した公衆トイレとでもいえようか(実際に、安藤忠雄設計になるトイレも映画に出ているらしいのだが)。渋谷区という設定のようだが、一度、みてみたい、使ってみたいという欲望をはげしく掻き立てる。
トイレ清掃は昼休みに神社でサンドイッチを食べ木漏れ日を撮影し芽吹いている樹木をみつけたらアパートに持ち帰って栽培する。シフト後には銭湯に行き、コインランドリーで洗濯し、地下鉄浅草駅構内の居酒屋で晩酌をし古本屋で購入した100円の文庫本を読みながら寝落ちする。そして翌朝を迎えるという、判で押したような仕事と生活の繰り返しの日常が淡々と描かれる。まるで同じ毎日を繰り返すタイムループ物映画をも髣髴とさせるのだが、しかし映画の最後になると、単調な日々のなかで、けっこういろいろなことが起こっていることに気づく。
最後は、いつものように車を運転して仕事に出かける平山/役所広司の顔を正面からとらえた長いショットが圧巻で、役所広司は、悔恨と絶望、喜びと悲しみ、悲哀となかにみえる希望、天国と地獄を往来するような、なんとも複雑な心境の表情、まさに観ている者の魂をゆさぶるようなを表情をみせ、言葉を失う。ちょうどカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を『万引き家族』にもたらしたといっても過言ではない安藤サクラの泣くシーンに匹敵するのが、カンヌ国際映画祭(2023年)で主演男優賞を役所広司にもたらしたこの最後のシーンである。
もちろん、この時、平山/役所広司が何を回顧し何を考え何を哀しみ何を喜んでいるのかはまったくわからない。ただわからいからこそ、そこに大きな感情の起伏を想定でき、観客の情緒的反応をブラックホールのごとく吸収するといってもいい。
だが、映画館から出るとき、若い男女のペアのうち女性のほうが主人公の過去が語られないことにもやもや感が残るし、そのため主人公について何も語ることができなくなることについて不満を述べていた。男性の方は、それについてはとくに応答はしなかった。
確かにそうなのだが、しかし、この映画のつくりは、ある種のミュージックビデオみたいなものと考えることができる。通常のミュージックビデオなら、音楽にあわせてて登場人物の生活がプレゼンされるのだが、その生活、あるいは時には人生は、あくまでも断片的で全体像が、過去から現在までの来歴が、事細かに語られることはないし、人生の要約が示されるわけではない。だから、そのようなものと思えばいいのではと考えたのだが、しかし、よく考えてみるまでもなく、では、この映画は何のミュージック・ビデオか、あるいは何のプロモーション・ビデオなのか?
そうミュージック・ビデオのようなもの、プロモーション・ビデオのようなものと考えた私の直観は、決して間違ってい這いなかった。そもそも、この映画は、新しいトイレのプロモーションビデオとして始まったのだから。Wikipediaによると、
映画製作のきっかけは、渋谷区内17か所の公共トイレを刷新するプロジェクト「THE TOKYO TOILET」である。プロジェクトを主導した柳井康治(ファーストリテイリング取締役)と、これに協力した高崎卓馬が、活動のPRを目的とした短編オムニバス映画を計画。その監督としてヴィム・ヴェンダースに白羽の矢が立てられた。
もちろん、そこから長編映画へと発展したわけだが、プロモーションビデオ的なテイストは残っていると思う。公共トイレ刷新プロジェクトのプロモーションビデオでドキュメンタリー風のところもあり、音楽が流れるミュージックビデオ的なところもある多面的な映画であって、そこでは物語をじっくり追う必要はないのである。物語は断片的で非完結であってよい。
とはいえ平山/役所広司がなぜ、このような生活を送るようになったのか、詮索できるヒントのようなものはちりばめられている。前半で平山/役所広司は、簡素な木造アパートの殺風景な二階部分で生活している。裕福な暮らしをする室内ではないが、余分なものをすべてそぎ落とした質素なたたずまいが清々しさを感じさせる。しかし後半になって家でした姪が彼のアパートに転がり込むと、姪を二階部分に寝かせて、自分は、普段使っていない一階部分で寝ることになるが、この一階は倉庫となっていて段ボールや荷物がつまっている。前半であたかも断捨離後であるかのような質素な暮らしをしている平山/役所広司だが、後半、物置のような一階があらわになると、彼のおそらく捨てきれない、あるいはトラウマとなっているような過去が残存していることがあきらかとなる。彼の捨てきれない人生のお荷物とはななんだろうか。
先ほど、判で押したような彼の日常は、同じ一日を延々と繰り返すタイムループ物の映画を思い起こさせると書いたが、同じ日の繰り返しのイメージのひとつは牢獄である。原因なり動機はざまざまである。それが判明するとループは終わるが、判明するまでは地獄のループに呪縛される。ここからいえるのは『Perfect Days』の主人公も何らかの原因によってエグザイルの身であるということだろう。なにが彼をエグザイルの身にしたのか。
もちろんこれが唯一の可能性であるとはいえないが、しかし、私としては唯一の可能性であると本気で力説する覚悟でいるのだが、それは主人公がゲイであるということである。
独身生活を送っている男のもとに若い女性が訪ねてくるという映画を思い出すことはないか。ダーレン・アロノフスキー監督の『ザ・ホエール』(2023)では、ゲイの父親のところに、別れた妻の娘がやってくる。娘を追って妻もやってくる。結婚していながら、ゲイの愛人がいるという(現実にはよくある)複雑な設定が話をややこしくしているし、娘もけっこう邪悪なのだが、もう少し蓋然性の高い設定の場合、どの家族や一族にもいる独身のオジサンのもとに、姪がやってくるというものがある。独身のオジサンと姪という黄金コンビは、独身のオジサンがゲイであるという可能性の指標のひとつである。
このほか同じ清掃作業員のタカシ/柄本時生を慕っていてタカシの耳をいじくっている知的障碍者の少年もゲイ的な存在だし、平山が若い女性たちから慕われるのも、彼が彼女たちを性の対象としてみないからであるともいえる。
さらにスナックのママである石川さゆりが男と抱き合っているところを目撃して、平山が衝撃を受けるところは異性愛的嫉妬が噴出するところがだが、やけ酒を飲んでいる平山のことろに、スナックのママと抱き合っていた男/三浦友和があらわれて、離婚した元夫だと名乗り出て、二人の間に友情めいたものが生まれることで、場面は、同性愛的関係へと転換する。ふたりが影踏みごっこ(「影踏み鬼」というらしいのだが)に興ずるところなどは、同性とのじゃれあいとこぼれ出る幸福感が横溢している。
そもそもトイレというのは、男性同性愛者にとっては「聖地」そのものである。まあ男性用トイレに限られるが、そこでの場面は人物が同性愛者として提示されていなくとも、同性愛者の影を帯びる。またこの映画『Perfect Days』では、トイレ掃除のなかで、平山/役所広司は、見知らぬ相手と、トイレの隅に差し込まれている紙で三目並べをするのを楽しみにしている。これなどはトイレによる男性同性愛者の出会いと関係とのメタファーそのものであろう。
もともと新しい清潔で芸術的で近未来的なトイレ建造・普及のプロモーション・ビデオを制作するプロジェクトであったとしても、トイレ清掃のために独身男性が毎日出入りする設定というか表象は、男性同性愛関係を想起するものであることは述べておかねばならない。
そして男性同性愛関係の最後は、水の物語になっていることである。トイレそのものには水が欠かせない。そして主人公は川の近くを車で通るし、海に続く川を眺めている。川べりで影倦み鬼をする。水、水、水。水の表象は、同性愛物語に不可欠である。
同性愛者としての平山は、その生き方と性的嗜好を、父親から認めてもらうことができず、また社会に蔓延する同性愛差別に傷つき、いつしか自己追放あるいは自己処罰をおこなって孤独で寡黙なエグザイルへと転身することになったということだろう……。
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もちろん、これがすべてではない。この映画はまた木や樹木の物語を展開している。それが水と同性愛とどうつながってゆくか、つながらないかは、また別の話なので、深入りはしない。
そしてもうひとつここで深入りしないこととして挙げられるのは、晩年のスタイルである。Late Style. 平山/役所広司の日常は、彼がカセットテープしか聞かず(聞く洋楽はどれも「昭和の懐メロ」といってよいもので)、完全に時代から遅れている。Late Style。しかも、彼はまた人生の後半というか晩年期へとさしかかっていて、もはや未来に明るい夢見るような希望はない。単調だがまだ実りある日常を死へとひとりつづけることで、彼は王道の晩年のスタイルの体現者でもあるのだ。
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ここでひとつだけ深入りしておきたい(ただし深入りはできないのだが)ことがある。
私はこの映画をみて、最近の東京都渋谷区のトイレのショックを受けたのだが、それ以上にショックをうけて、映画館で、椅子からずり落ちそうになったこととは、映画をみていたら、どこかでみたような人が出ていると気づいた次の瞬間、私のなかで認知機能がフル回転して思わず口走りそうになった。え、どうして柴田元幸がここにでているのだ、と(衝撃のあまり「柴田元幸」と心のなかで呼び捨てになってしまった)。
予備知識ゼロで観に行ったので、まさか柴田元幸氏が出演しているとは思わず、ひょっとしたら見過ごした場面があるのかもしれないが、エンドロールでキャスティングされているのを確認したし、帰宅してから映画の公式サイトでも、柴田元幸氏が出演していることを確認した。
しかしそれにしても、なんで、この役で出演? ヴィム・ヴェダースあるいはこの映画の関係者とどういう接点があったのだろうか。もちろん柴田元幸氏は有名人なので、映画関係者のほうが積極的に接触してきてもまったくおかしくないのだが、それにしても、どういうきっかけで映画出演が実現したのか、直接、ご本人に訊いてみたいものだ。いまやもう同僚ではなくなったとはいえ。