ネット上の公式サイトから引用すると:
1923年9月1日11時58分、関東大地震が発生した。そのわずか5日後の9月6日のこと。千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団は、讃岐弁で話していたことで朝鮮人と疑われ殺害されたのだ。逮捕されたのは自警団員8人。逮捕者は実刑になったものの、大正天皇の死去に関連する恩赦ですぐに釈放された…。これが100年の間、歴史の闇に葬られていた『福田村事件』だ。行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、集団心理は加速し、群衆は暴走する。これは単なる過去の事件では終われない、今を生きる私たちの物語。
要は、なぜこのような事件が起こったのか、その原因について、この映画は、フィクションというかたちで一定の答えを出しているように思われる。その答えは、すでに知られていることではあったが、この映画を通して伝えられるとやはり驚愕すべきことでもあった。
暗黙のうちというか、社会的文化的無意識レベルにおいて、行商人を含む旅する一族に対する潜在的な敵意というものは指摘できるだろう。関東大震災の直後ではないが、その数年後、一高生(高校生だが当時の高校は現在の大学と同じ)が旅芸人の一行と伊豆を旅することになる。そして伊豆の村のところどころに立ち札がたっている、曰く「物乞い旅芸人は入るべからず」と。川端康成の『伊豆の踊子』の一節だが(引用は第五章の末尾)、旅する者は行商人であれ旅芸人であれ、物乞い、つまり「乞食」として見下された。そしてその忌避感が暴力的な敵意となって噴出することもあっただろう。福田村事件において行商人の一団が殺される。その虐殺の殺人の引き金となったのは、彼らが旅する一族/住所不定の一族であったことだが、それ以上に直接の引き金となったのが、関東大震災後に「朝鮮人」が反乱を起こしているという根も葉もないうわさだった。
ではなぜ「朝鮮人」が日本人を殺しにかかっているといううわさを人々は信じたのか。それは、まさにアメリカにおける黒人差別と同じであることを、この映画は示唆している。つまり朝鮮半島を植民地化し現地人を搾取・虐待していることを日本人は知っている。当然、それを正当なこととは思っていない。日本人は、そのやましさゆえに、今度は自分たちがいつ報復されるかわからないとおびえる。そのおびえの反動としてパラノイア的に朝鮮人を悪魔化する。そしてこの悪魔に対してなら、暴力が許容されるということになる。
アメリカにおける警察は、黒人を蔑視し差別し虐待してきた。そのため警察官は、虐待されている黒人たちがいつなんどき報復に転ずるかわからないと過剰におびえている。そのため、ただ反抗的な態度をとったからといって、いや、ただ従順にしていただけでも、黒人を射殺する。こうしたやましさを打ち消そうとする反動的な暴力が虐殺に通ずることは想像にかたくない。
震災後、朝鮮人が日本人を殺しているという流言蜚語は、根拠のないものだったが、朝鮮人に不当な扱いをしている日本人のやまさしさゆえに、容易に真実と受け止めらと思われる。だがそれだけではなかった。震災後の朝鮮人虐殺は流言蜚語によるものと言われているのだが、現在ほど情報伝達手段が発達していない当時において、都市部のみならず片田舎まで流言蜚語が浸透したのは考えにくいことである。
だが現実に流言蜚語は浸透した。それは警察当局が民衆の間に流言蜚語を流したのである。そうして民衆に恐怖と憎悪を植え付けた。当時のマスコミも、自覚してか無自覚かはわからないが、警察当局の発表をそのまま垂れ流し、流言蜚語の浸透に加担した。
これは無知蒙昧な民衆、差別的な民衆が、流言蜚語を信じて虐殺行為に走ったのではない。国家権力が混乱状態を発生させ、そのどさくさのなかで朝鮮人を、反体制陣営を粛清したということもできる。というか政権にとって邪魔な政治活動家や知識人を、どさくさにまぎれて殺したのである。
そもそも警察は、流言蜚語を取り締まる側であるはずだ。マスコミも流言蜚語を否定し真実を報道すべきである。政府も、流言蜚語を徹底して否定すべきである。だが、警察が、政権が、マスコミが、こぞって流言蜚語を垂れ流したのだから、民衆としてはたまったものではない。
震災後の混乱のなかで民衆のなかに生じた混乱した認識が、潜在的な暴力志向と民族差別意識を触発して、虐殺を生んだのではない。政府が、当時のマスコミを通してフェイク・ニュースを流し、民衆を虐殺行為へと扇動したのである。徹底してその責任をとわれるべきは警察当局、そして警察を動かした当時の政権なのである。
流言蜚語は警察が積極的に流したことは、客観的事実として、すでにいろいろなところで語られてきた。私自身、そうした記述は読んでいたにもかかわらず、愚劣な民衆の自発的行動が虐殺につながったにすぎないと勝手に信じてしまっていた。力点は流言蜚語ではない。意図的に流言蜚語を蔓延させた警察権力と日本政府の謀略とテロ行為にこそ力点が置かれるべきであろう。
映画は、この点について、明確に語っていた。フィクションを通して、力点の置き方の変換を希求していたように思われる