2023年10月20日

『ロストサマー』

ご当地映画の三本目(三本目に観たということにすぎない)。高知市を舞台に、強烈な高知弁(土佐弁)の洗礼を受ける。俳優の活舌が悪いというバカなネット民の評価があったが、活舌は誰も悪くない。ただ土佐弁は聞き取れても意味がわからないだけである。まあ『バッド・ランズ』も、強烈な関西弁と専門用語のたたみかけによって、台詞の多くが理解不能だったことを思い出した。ちなみに『女子大小路の名探偵』は名古屋弁ゼロ。『親のお金は誰のもの』では伊勢志摩の方言というのがあるのかどうかわからないが、みんな標準語だった。『ロストサマー』は、聞いたこともない土佐弁の語彙が噴出する。

ここのところ紹介している三作のなかでは、いちばん攻めた演出をしているので、個人的には一番興味深い映画である。

たとえば、おそらくキャストのなかでは最も知名度の高い小林勝也が演ずるところの老人は病気でもないのに毎日医院に来て迷惑がられているのだが、なぜそんなことをしているのか、徐々にわかってくる。妻を亡くした彼は、不治の病にかかって自分も死にたいと願っている。そのため医院で病気を発見してもらえればと考えているらしい――らしいというのは言葉で説明されるわけではなく、暗示されるだけなので。つまりこの老人は妻のあとを追って死にたいと思っているが、だが悲しいことに、まだ死者には追い付けない。追い付けないまま追いかける人、それがこの老人のたたずまいとなる。

いっぽう小林勝也にからむ若者(林裕太)は、会うたびに老人から財布を奪い、老人から追いかけられる。だが老人は追い付けない。いっぽう彼は、追い付けない老人をからかい楽しんでいるようだ。彼は逃げる人である。だが、ほんとうは追い付かれたいと思っている。そして自分のほうから追いかけてくる者を出迎える。そこに老人との友情が生まれる。映画も、小林勝也と林裕太の友情を確認して終わる。

ただしこれはドゥルーズのいう運動イメージのレヴェルの話であって、ドゥルーズのいう時間イメージで補完されるべき要素が多々ある。林裕太が、映画のはじめのほうで絡んでる若い女性は、どうやら実在せず、彼のみる幻影らしいのだが、それが映画の後半になってくると、彼の、おそらく死んだ母親の幻影だとわかってくる。

彼は、失われた母親の幻影につきまとわれることなく、前向きに生きたいと願っている。だがそれはまたただの身振りにすぎない。実際には、彼は失われた母親を求めている。あるいは失われた母親につきまとわれ、その影に追い込まれたいとも思っている。それは母親から殴られたいという彼の願望にもあらわれる。母親からひっぱたかれたいと願いつつ、母親をひっぱたきたいとも願っている。圧巻は、彼が、お金と自動車のキーを盗んだ仲間につかまってリンチを受けるとき、殴られつつも彼は母親に殴られた子供の頃のことを思い出すところである。また束の間、彼がたかれている時だけが、あるいはその思い出だけが、彼に、みずからの生を実感させるのだ。

抵抗して相手を倒すとき、そこに自分の母親を殴り倒すイメージが重なる。運動イメージが、ただ現在時にしか存在しないとは裏腹に、時間イメージは、過去と現在を同時共存させ、自己と他者との関係が入れ替わることもありうる。映像と物語の重層性が、この映画を印象深いものにしている。

【ちなみに林裕太が映画のなかで終始持っているのは、なにかの募金箱であり、それを財布代わりにしているのだが、これは母親の思い出ともつながっていた。映画の最後のほうでわかるのは、小さかったころ林裕太は、母親がなにかの募金に金を出していたことを目撃していたことである。その思い出が彼に募金箱をつねに持つようにさせたのである。なんともせつない話ではないか。】

ところで林裕太が逃れ/求めている母親は「夏」という。林裕太は「フユ(冬)」という名前である。また小林勝也の死んだ妻も、その名前を「夏」といったように思う。そして小林勝也の名前は「秋」である。林裕太も、小林勝也も、「夏」という女性を求めている。いなくなったか死んだかした、おそらく永遠に到達も入手もできない「夏」という名の女性。これが映画の「ロストサマー」というタイトルが意味するもののひとつである。

フユという名の青年と、秋という名の老人に、さらに「春」という名の女性(中澤梓佐)がからんでくる。彼女は、もはや夫からは性的対象とも見られず、弁当製造係くらいの扱いしか受けず、夫から見捨てられたような主婦である。ただ映画のなかでは「冬」と「秋」が失われた「夏」を求めているのだが、この「春」はフユとセックスをするのだが、「夏」とどうかかわるかというと、夫の名前が「夏」である(『キリエのうた』にも出演している関口ロアナンが夫を演じている)。そう彼女「春」もまた、夫「夏」から疎まれ、また夫「夏」を失ったともいえるのである。彼女にとっても、この夏は、夫「夏」を失った「ロストサマー」なのだ。

彼女「春」(中澤梓佐)は、夫から見捨てられたような状態となり、夫を失うことで、「フユ」とセックスに走り、またバーで一人酒を飲む。そこにバーの常連らしい男が、彼女に絡んでくる。うざい男に対して彼女はこれまでのうっぷんをはらすかのように、大声で土佐弁でうるさいと啖呵を切る。それはみていて気持ちのいいものなのだが、あろうことか、そこで彼女がうるさいという以外に何をいったのか、肝心なところが土佐弁なので、わからない。

おそらく土佐弁をわかる人には、彼女がなんといったのか明瞭に理解できると思うのだが、あいにく一般観客にわからない。居酒屋で男性客がなにかを大声わめいていて、女性店員がおびえているという場面があるのだが、この男性が何を言っているのか、土佐弁なのでさっぱりわからない。こんなわからない土佐弁のシーンはこの映画には多い。

しかし、土佐弁を理解できないことにも意味はあろう。さきの「春」が啖呵をきる場面でも、彼女の魂の叫びともいえる言葉が、まさに肝心かなめの言葉が、一般観客にはわからないのである。その魂の叫びは、彼女だけしかわからない異様な意味不明の叫びとと受け止められる。主体の存立をささえるもっとも中心的な言葉が、意味不明の無であるというのは、結局、主体の内奥の秘密は言語化できない、意味不明の叫びでしかないということになる。これは、中心に無と闇をかかえたこの映画の春と秋と冬の人物に等しくあてはまることだろう。

彼らの中心には、無が存在する。それが失われた夏だった――「ロストサマー」。そしてまた彼らの中心には、部外者にはわからない意味不明の言葉、いや言葉として認識されない叫びがあった。無と意味不明の叫び。同じものの二つの様相といえるだろう。

付記:私は高知県にも高知市にも行ったことがないのだが、この映画は、高知市の今の空気感のようなものがよく伝えているように思う。伊勢志摩国立公園のような風光明媚さとは違う、ありふれていながらも輝きを帯びる日常性のようものを映像はみごとにとらえている。

唯一気になったのは、日曜市の場面。おそらくコロナ渦の真っ最中に撮影したのだろう。売るほうも買うほうも、全員マスクをしている。マスクをしていない人はひとりもいない。そのなかで林裕太と小林勝也のふたりだけがマスクをしてないのは、なんとも異様なことなのだが。
posted by ohashi at 01:49| 映画 | 更新情報をチェックする