「心に刺さる」という表現というかフレーズは、あまり好きではないのだが、ただ、それでもいい意味でも悪い意味でも「心に刺さった」言葉なり場面が最近みた映画のなかにあった。
まあ私は生半可な学者どころか、学者のはしくれでもない、どうしようもない人間なのだが、それでも研究は好きである。問題は、ただ、成果が出ていないことである。若い頃は、ああなってはいけないと肝に銘じた生き方――学者、研究者としての生き方――があったのだが、いま気づくと、まさにああなってはいけない存在に自分がなってしまっていることに愕然とする。こういう人間だけでにはなっていけないと思っていた、そういう人間に自分がなったことの驚きというか、なさけなさは解消しようがない。
ただ、それでも研究は好きである。問題は、成果が出ていないことのほかに、この猛暑のなか、研究時間すらまともにとれないということだが、それはあきらめることにして、最初に取り上げるのは『インディー・ジョーンズと運命のダイアル』(Indiana Jones and the Dial of Destiny 2023)。
映画の最初のほうで、若いハリソン・フォードに出会うことができて驚いた。若い頃の映画の映像をつなぎ合わせて作ったのだろうと思ったら、そうではなく、あらたに映像をつくったものというのでさらに驚いた。現在のハリソン・フォードの映像をとりいれながらつくったというその映像は、実に自然で、これまでの映画で行われてきたAIでつくられた映像を、自然らしさではるかに凌駕していた。いっしょに、マッツ・ミケルセン(オッペンハイマー的役柄だったが)も若くなっているのだが、AI技術の進歩にただただ驚くばかりだった。
もうひとつ学者ではない私が不思議に思ったのは、アメリカの大学に日本の大学と同じように定年退職があるということ。インディー・ジョーンズ教授が花束と贈り物をもらって職場を去るという場面は、日本ではふつうだが、アメリカではふつうのことなのか不思議に思った。まあアメリカの事情はよくわからないし、設定は、アメリカが月着陸に成功した年であるので、その頃と今とは違っているのかもしれない。
ただ、学者になりそこねた私だが、この映画で感動したあるいは心に突き刺さった場面というのがひとつあった。それはインディーが紀元前のシチリア島へとタイムリープしたときである。ローマ軍の上陸を阻止すべく、シチリア側はアルキメデスが考案した武器で船団を攻撃し最終的に撃退するのだが、この戦乱のなかにタイムリープしたインディーは、乗っていたナチス・ドイツの爆撃機が被弾してシチリア島に不時着する。またそのとき自らも負傷する。
もといた世界というか時空間にもどらないと、この負傷では死んでしまうかもしれないと同行者が心配しているところ、アルキメデスが弟子たちともに戦禍のなか登場する。
偉大なアルキメデスに直接遭遇することができたインディーは、同行者たちが止めるのも聞かず、20世紀に帰らず、にこの時代に留まってもいいというか留まりたいと強く希望する。古代シチリアとその時代や社会を研究してきたインディーにとって、実際に古代で生きることは、この上ない喜びにほかならない。
この古代では傷の手当ても満足にできないだろうから、留まっても、すぐに死ぬ運命がまっているという同行者の主張には耳を貸さず、アルキメデスのもとにひれ伏し、その教えを乞い、その人となりに接しようとするインディーの姿に思わず涙が出てきた。
私は学者になれなかった学者だが、研究している時代に実際に行くことができたら、たとえ地獄のような環境でも、そこに留まっていたいと思うし、もう21世紀にはもどりたくないと思うだろう。たとえその時代ですぐに殺されようとも。それは古い文物・制度を研究する者にとって夢のような奇跡的な出来事である。起こりうるはずはないとわかっていながら、不可能な夢にどうしても涙することしかできなかった。
【ただし、インディーは古代シチリアでソクラテスと現代のギリシア語で話をしていて、はたしてほんとうにコミュニケーションができるのかどうか不安になるのだが。】
【なお今回の『インディー・ジョーンズ』はIMAXレーザーで観た。音も映像も格段に鮮明で、3Dではなくても、自然な立体感が画面から生まれていることに驚いた。もしチケットの代金が同じなら、迷わずIMAXレーザーを選ぶ。しかし余分な料金を払ってまでして、どうしてもIMAXレーザーを観たいかというと、そこまでの願望はないことを認めざるを得ない。】
いまひとつは、感激したというよりも憤慨した事例なのだが、映画『サントメール―ある被告』(2022)のなかにあった。
ちなみにこの映画、冒頭で、『ヒロシマ・モナムール』(1959、『24時間の情事』というタイトルはどうしても違和感があるので、こちらにするのだが)からの引用映像がある。それは第2次世界大戦中の占領下のフランスで、ナチスドイツに協力した女性たちが、解放後か戦後、住民たちからの制裁を受け、髪の毛を全部刈られて丸坊主にされるという映像であった。
いうまでもなく『ヒロシマ、モナムール』で日本人建築家(岡田英次が扮する――ちなみに私の母は岡田英次の大ファンであったが)と恋に落ちるフランス人女性は、大戦中、ドイツ軍兵士と恋におち、それが原因で、戦後かフランス解放後、頭髪を刈られるという制裁を受けたことが心の傷となって残っていた。
この解放後か戦後にナチスやファシズムに協力した女性たちが、制裁を受け、頭髪を刈られるという出来事は、『ヒロシマ、モナムール』をはじめて観たとき、主人公の女性がたまたま遭遇した不幸な暴力的事件くらいとしか考えなかったが、ジョゼッペ・トルナトーレ監督の『マレーナ』(2000)を観て、これがナチス占領下のヨーロッパ全体に広がっていた集団リンチ行為であったことを遅ればせながら初めて知った。
『マレーナ』は、舞台がシチリア(!)だが、その美貌ゆえに引く手あまたの女性が、夫の戦死(ただし誤報)を機に、生きてゆくためにナチスの将校の愛人になったりしたため、解放後、近隣住民の女性たちの反感を買い、壮絶な集団リンチにあう。髪を刈られるだけでなく、身ぐるみ剥がされてボコボコにされるのである。
マレーナはモニカ・ベルッチが演じている。この映画に対する日本でのネット上の感想はマレーナに同情し、群集の集団ヒステリー的行為の怖さを断罪する声が多く、自分たちは集団リンチの主体の側に属するかもしれないという可能性を一考だにしていないことに、ただただあきれた。今の日本のネット状況なら、この映画のリンチシーン以上の残酷な行為がまかりとおっておかしくない。
そもそもこれは戦争犯罪に関わることである。国を戦争に巻き込んだファシストどもは戦争中、庶民が苦しい生活を余儀なくされるなか、安逸な生活をむさぼり、イタリアに駐留していたナチスにいたっては、スパイ嫌疑をかけられたり戦争に反対したりしたイタリア人だけでなく、軍事戦略上の理由だけでイタリアの一般庶民を虐殺もしている。そうしたファシストやナチスに協力した人間を、私がイタリア人庶民だったら、絶対に許さない。集団リンチで殺したりはしないが、率先して公開謝罪を要求することだろう。
残虐なファシストやナチスに協力した人間を私はほんとうに許せないのだが、ただ冷静に考えれば、女性たちだけが協力したわけではない。むしろ髪の毛を刈られた女性たちはスケープゴートで、その影で、協力者の男性たち、甘い汁を吸った彼らは罰を免れている。さらにいえば占領・駐留しているドイツ人が全員クズというわけではないだろう。善良なドイツ人兵士や将校と親しくなった女性は、ファシズム・ナチズムの残虐行為に加担したわけではないだろう。
『ガーンジー島の読書会の秘密』(The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society、2018、マイク・ニューウェル監督)では、戦時下ナチスドイツの占領下となった英領ガーンジー島に存在していた読書会について戦後まもなく取材した女性作家は、読書会関係者のひとりが実はドイツ人兵士に身を売り住民からは売春婦扱いされていた事実を、まさに黒歴史をつきとめる。ただ実際には、この女性はドイツ人の軍医と恋仲になり子どもみごもるのであって、軍医はナチスではなくて戦闘員というよりは善良な医師であり、彼女は売春婦でもなかったのだが。
ナチス・ドイツの占領下において積極的に協力した女性もいただろうが、同時に、売春を強要されたり、ただ恋仲になった一般女性もいたはずで、解放後あるいは戦後に、彼女たちを一律に協力者として断罪しリンチの対象としたことは、戦時下における協力問題と同様に、黒歴史として封印せざるを得なかった。
『ヒロシマ、モナムール』においてマルグリット・デュラスの原作は、1959年という、戦後13年か14年の段階で(日本でいえば昭和30年代)に、この問題を物語の題材としている。それが早いのか遅いのかわからないのだが、ただ黒歴史を掘り起こした勇気ある題材選択であることはまちがいないだろう。
そしてそこから映像を引用した『サントメール―ある被告』(2022)だが、ただそこで髪を丸刈りにされる女性たちは、映像のなかでは、恥ずかしさに顔を伏せたり、屈辱的仕打ちに泣き叫んだりせずに、傲然と頭をあげて、むしろ不敵なまでに笑みをうかべて髪を刈られている。それは私が記憶している『ヒロシマ、モナムール』のなかの映像とはちがっていた。実際、手元にあるDVDで見直したのだが、『サントメール』で引用されている映像はなかった――ただしそれは私のもっているDVDのヴァージョンがそうであるというだけのことで、ほかのヴァージョン(たとえばフランス本国でのヴァージョン)では、存在しているのかもしれない。
ただ『サントメール』では女性が丸刈りにされる映像を大学で学生にみせる教授役の女性は、詳しい説明や状況説明をしないために、女性が丸刈りにされるという、男性による理不尽な暴力という印象を観る者にしか与えないし、その女性の教授は、このような暴力を、マルグリット・デュラスの文学的表現は美しいものに昇華させていると学生たちに語るのだ。しかし、マルグリット・デュラスの原作が、この丸刈り事件を美しく語っていることなどないではないか。映画のなかでは、これは痛ましいトラウマ的な事件として提示されるのだが、そこにはそれを美化しようという意図などみじんも感じ取れないのである。
実際、『サントメール』のアフリカ系の女性監督については、先のNTLの『オセロー』の黒人演出家に対するのと同様に、粗雑なプロパガンディストに対するのと同じ不信感を私はいだいている。『サントメール』の監督・脚本家にいいたい、あのキメラ細胞の話は、私は判断できないのだが、嘘ではないだろうか。
『サントメール』は、ザンビア出身の若い女性が留学先のパリで、いろいろなことに挫折し、白人男性との間に娘をつくるのだが、不安やストレスによって、1歳ちょっとの女の子を砂浜におきざりにして殺してしまう。その罪で裁判にかけられるのだが、直接的に提示されることはないのだが、ヨーロッパ社会における暗黙の人種差別と女性差別が、若いアフリカ系の女性に重くのしかかり自分の娘と自分自身の将来を奪うことになったということらしい。だが監督の説明不足は、先の『ヒロシマ、モナムール』の引用映像に関するものだけではない。結局、裁判の結果、その女性にどのような判決が下り、どのような刑期をつとめることになるのか、なんの説明もない――有名な事件だからといって、それはない。せめてナレーションか字幕でもいいから裁判結果を示すべきだろう――たとえ誰も裁けないか、あるいは観客全員が、社会全体が、被告への加害者だとしても。
そもそも実際の裁判の証言をそのまま台詞として使ったというふれこみなのだが、この映画をみると、フランスの裁判というのはいい加減すぎる。裁判長は審理に介入して被告に延々と質問するだけでなく、自分の考えというか推測を長々と述べているし、検察官は異例なほどの傲慢さで自説を開陳するだけであり、弁護士にいたっては最終弁論まで、いっさい弁護をしない。演出上、そのような展開になったのかもしれないが、これがフランスの裁判だとしたら、かなりやばい。
しかし、悪い意味で私の心にささったのは、この映画のそういうところではない。弁護側か検察側の証人なのか、どちらかわからなかったが、証言者のひとりが、被告のパリでの勉学について証言するなかで、被告がヴィトゲンシュタインを研究しようとしていたと証言し、さらにヴィトゲンシュタインは言語哲学者であって、そんな人物を研究して何になるのか、もっと身近なことを研究すればいいのと言い放ったことに、私は、いまなお、このような考え方がまかりとおっているのかと、心が震えるほどの憤りを感じた。
ザンビア出身の若い女性が、研究すべき身近なことというのは、ザンビアの政治社会や歴史問題、あるいは西アフリカや北アフリカの諸問題、いや、政治経済というよりもアフリカ人社会の日常生活のありようなのだろうか。まさに形而下的な主題こそが、アフリカ系の女性にとってふさわしい研究対象ということになる。
言語哲学は、抽象度が高い学問で、特定の言語の歴史的・社会的・地域的特殊性に左右されないがゆえに、ザンビア出身者がハンディを感ずることなく専念できる学問であるような気がするのだが、そうした形而上的話題は、ヨーロッパの白人にまかせておけばよく、アフリカの「土人」の「女」は手を出すなという、完全に差別的な見解、それもこのポストコロニアルの時代に、植民地時代的見解が、堂々と、恥ずかしげもなく、発せられるのである。
実際、このような偏見的差別的見解を前にしたら、自分と子どもの将来を悲観して、子殺しに走るのもむりからぬことといえようか。
しかし裁判の審理が大半を占めるこの映画のなかでなら、このような偏見的差別的見解に対して、裁判の場で徹底した反論を展開しても不自然にならずに済んだと思われるのだが、この映画監督は、そこまでする勇気も根性もなかったのは、実に残念でならない。
