ただし『オセロー』の台詞のなかに人種差別的な台詞がないということはない。たとえばそれはデズデモーナという、人種の壁を越えて異人種結婚に走った女性の、意識せざる人種差別的な台詞となってあらわれる。彼女は、ムーア将軍と結婚するに到る経緯を語るさいに、彼は黒い肌の名の中に白い魂を持っていて、その魂に惚れたのだと言う。
彼は人相はわるけれども心はピュアだというような発言は、いまでは差別的発言として許されるか許されないかの瀬戸際にあるといっていいのだが(容貌への差別、あるいはルッキズム的偏見の発露)、人相の悪さを、膚の黒さに、そしてピュアであることを白さで語ったら、これはまぎれもない人種差別である。皮肉なことに、誰よりも人種的差異にひるんだりしなかったデズデモーナから白人社会に潜む人種的偏見が自然発生的にほとばしり出るとは。彼女ですら人種的偏見から逃れられなかったのだが、そのいっぽうで、イアーゴーには、そうした台詞はない(もちろん表だってないということなのだが)。
あるとき大学院の授業で、トニ・モリソンの『青い眼が欲しい』について触れている論文を読んだことがあった(アメリカ文学とか黒人文学を扱う授業ではなかったのだが)。そのとき参加していた院生のひとりが、アメリカの黒人の書く小説は、どれもこれも自分たちが黒人差別の被害者であり、白人に諸悪の根源があるということを十年一日のごとく述べるだけの退屈な作品でしかないという主旨の発言をした。
その学生が、そういう発言をすれば教員に褒められると思ってのことだとしたら(その可能性は高い)、私はずいぶんとなめられたものだと思ったし、また私に喧嘩をうっているという可能性もなきにしもあらずだったが、ただ、その学生がトニ・モリソンのその小説を読んでいなかったことは確かだった。なぜなら、その小説は、白人のような容姿に憧れている黒人の女の子を描いている。それは、たとえばいじめられている子が、いじめっこになりたいという権力への意志とは異なるものである。もちろん、その根底には人種差別があるのだが、そのありようは虐げられている者が虐げる者に憧れるという複雑な構造をとっている。それは通常の、十年一日のごとく語られる人種差別物語では決してない。ところがその学生は、個別性を無視し、わかりやすい人種差別物語がそこにあるかのように語って作品を断罪する。それは許しがたいことだった。
人種差別物語が嫌いな学生が、人種差別主義者であることは言をまたない。ただ、こうした院生と、NTLの『オセロー』の演出家は、似ているのである。つまり人種差別が顕在化せず、また複雑なものに変形されているかもしれない作品に単純な人種差別を導入することは、人種差別を考える際に、絶対にあってはならないことである。ありもしない単純な人種差別構造をでっちあげた院生と演出家。人種差別主義者の院生と、人種差別を告発する演出家。だが、どちらの人種差別の複雑なありようをみていない点において犯罪的であることにかわりはないのである。
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NTLの『オセロー』は、イアーゴーの妻で、デズデモーナの身の周りの世話をするエミリアを加工変形している。
原作ではイアーゴーは27歳なので、その妻エミリアもだいたい同じ様な年齢だろう。つまりエミリアは、キャシオ、デズデモーナ、イアーゴーと同じ世代であり、おそらくデズデモーナよりも歳が上。とはいえデズデモーナが20代前半ならエミリアは20代後半というくらいの違いでしかないのだが。
NTLの『オセロー』では、イアーゴーを中年の男性とした。ただしこれは英国では、イアーゴーを主役級の俳優が演ずるという伝統があって、そのためイアーゴーが高齢化するという、原作とは無関係な伝統を無批判に踏襲したためだろう――しかし、社会に蔓延する人種差別を批判・告発する演出家が、伝統を無批判に踏襲することは大いに問題がある。
そしてイアーゴーの妻エミリアも高齢化するのだが、今回の舞台では、エミリアはなんと夫のからのDVに苦しむ中年女性ということになった。
ああ、なんという通俗的なメロドラマ化。DV問題を軽んずるわけではない。しかし、従来のというか、原作のエミリアは、夫を尻に敷くような元気のよい女性であり、夫のDVに苦しむか弱き女性とはちがっていた。
もちろんエミリアの行動にも問題がないわけではなく、今回の夫のパワハラとDVに苦しみぬいて難破船のようになっているという今回の演出が正当化される要素はある。
そのもっとも大きな要因が、デズデモーナのハンカチを拾うことである。オセローが妻の不貞を確信する理由の最大のものは、妻に与えたハンカチを、キャシオが持っていたこと、つまりキャシオはデズデモーナからそのハンカチをもらったと推測できることであった。この悲劇の最大の要因たるハンカチーフ。デズデモーナのハンカチを拾い、それをデズデモーナにではなく、夫イアーゴーにエミリアが手渡したことで悲劇的破滅はいよいよ実現間近となるのだが、エミリアがとくに考えずにハンカチを渡すことは、そのことで悲劇性がますのだが、今回の演出のように、夫のDVに苦しみ夫に心身ともに支配されている奴隷的エミリアが夫のためにハンカチを渡したというのであれば、責任は彼女にある。またそれは日頃から妻を専制支配していた夫イアーゴーの勝利でもあった。
だが夫を尻に敷きかねない伝統的なエミリア像のほうが原作に近いことは強調しておかねばならない。英国は他のヨーロッパの国々に比べると、女性の社会的地位が高く、「女の天国」という言われるような側面があった。もちろん基本的には当時どの国でも男性中心社会であって、女性の社会的地位の高さといってもたかが知れていることは確かなのだが、それでも当時の喜劇においては男性を圧倒し威圧する強い女性なり妻がよく登場する。だからこそシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』のような喜劇が作られたのであり、『オセロー』のエミリアもそうした強い女性の系譜に連なっている。
さらにいえばシェイクスピアの喜劇には女性が活躍して問題を解決するという話がけっこう多い。『ヴェローナの二紳士』『ヴェニスの商人』『お気に召すまま』『十二夜』『終わりよければすべてよし』『シンベリン』など(ただし女性が男装するという設定ではあるが)。『オセロー』のデズデモーナも、その口添えがうまくいっていれば、そうした問題解決する賢明な女性の系譜につらなるシェイクスピア的女性であったことはまちがない。
そしてまた夫を尻に敷く女性像は、『オセロー』において最初から登場する。それはイアーゴーがキャシオをおとしめる際に、キャシオが軽蔑されてしかるべき理由に、彼が妻の尻に敷かれていることを理由のひとつにあげているのだ(NTLでは、この台詞はカットされている)。またデズデモーナは、キャシオ復職をオセローにしつこく懇願して学校の先生のようにベッドにおいてもオセローに説教してやるとまで言い放っている。うるさ型、ガミガミおかみ、亭主を尻に敷く奧さん、こうした喜劇的ステレオタイプは『オセロー』のなかに、はっきりそれとわかるかたちで存在している。また文化的ミソジニーの実例ではあるのだが、外向き・外出するときは淑女、過程では悪魔という画像が残っている。ヤヌス像のように、半身はドレスをして着飾っている姿、もう半身は悪魔の姿で、長いスカートからのぞいている足には蹄(悪魔の証拠)がある。
こうした文化的表象においては、エミリアもまた口うるさい妻で亭主を尻に敷く女のイメージが強い。ところがNTLの演出家は、あろうことかエミリアを……
たとえば『オセロー』の終盤で、エミリアは夫イアーゴーの欺瞞的詐欺的行為なり虚言を暴露するのだが、それは彼女の鋭い洞察力のなせるわざというのが従来の解釈、いっぽう今回の演出では夫のDVに苦しみ彼女が自らの経験、すなわち肉体的苦痛を通して獲得した洞察を最後の土壇場で必死の思いで吐露したことになる。実際、今回の演出では、エミリアの卑屈さと最後の渾身の力をふりしぼった夫への抵抗といういたいたしさだけが目立つことになる。
これにはデズデモーナを強い立場の女性にするという演出の意図も関係している。演出家の意図では人種の壁を乗り越え積極的に異人種間結婚へと走ったデズデモーナはスーパー・ヒロインなのだろう。だから知的にも優れ、人間的にも成熟をとげたプロト・フェミニストであるということなのだろう。これまでの解釈では夫を尻に敷きかねないエミリアこそがプロト・フェミニストであった。
そもそもデズデモーナは、絵に描いたような深窓の令嬢であって、父親ほどの年齢差のあるムーア人男性と結婚するというのは、人種差別的偏見にも汚染されていない(ただしすでに指摘したように無意識のレベルでは人種差別的パラダイムに汚染されているのだが)、その無垢性――いうなれば世間知らずなところ――ゆえである。もちろん世間知らずが悪いということではない。世間知にたけたスレた女性が躊躇するような異人種結婚は、世間知らずのデズデモーナにとっては障害でもなんでもない。むしろ彼女の世間知らず的なところこそ、彼女の強さであり、未来変革の基盤なのである。そうした彼女と、今回の舞台で示されているかにみえる知性あふれ成熟した彼女の姿とは、真逆である。
無垢で世間知らずであるがゆえにオセローと結婚することができた彼女にとって、夫婦は平等な伴侶であって、夫たるオセローは対等の妻の見解には耳を傾けるものであって、そのためキャシオの復職のために、夫を四六時中、懇願攻めにすることさえ厭わないと考える――そこに夫を尻に敷くという喜劇における強い女性の面影がある。
問題は、喜劇においてなら、そうした強い女性がもてる能力を存分に発揮できるのだが、悲劇においては、あるいは男性中心社会の現実の生活においては、夫婦は対等ではなかったし、妻が強くでることはあまりない。かくして夫を思うようにコントロールできないことにあせり、みずからの夫婦の理想論に破綻をきたした彼女は、精神的に疲弊してゆくものの、それでも最後まで夫への信頼を失わない。とはいえ最後には夫に命乞いをするはめになるのだが。
今回の演出では、そうしたデズデモーナは登場しない。最後まで気丈なデズデモーナなのだが、原作では彼女こそ、公衆の面前で夫から暴力をふるわれ、最後には寝室で首を絞めて殺されるというDVの究極的な被害者なのだが、舞台では、エミリアこそがDVの被害者で、デズデモーナは最後までスーパー・ヒロインなのである。よくもまあ、こんな矛盾に満ちた性格造型ができたものだとあきれる。
同じNTLにおけるアーサー・ミラーの『るつぼ』は、植民地時代のアメリカの有名なセイラム魔女裁判を扱ったものだが、無実の市民を悪魔と契約を結んだ罪人と告発した少女たちは、いまでいうキャンセルカルチャーの担い手のような存在であり、その怖さは、今の私たちの現実の事象と直結するものをもっているのだが、愚かな演出では、その悪辣な少女たちを、社会の犠牲者にしてプロト・フェミニストとして同情的描き、音楽すら付けていた。少女たちは社会の犠牲者かもしれないが、同時に、悪辣な加害者でもあることは演出上あるいはただの愚かさゆえに強調できなったようなのだ――あきれかえるのだが。
それと同じで、デズデモーナを黒人と結婚したフェミニストというありもしない虚像をつくりあげて顕彰する演出は、深窓の令嬢なのだが冷静な洞察力と世間知の持ち主で、理想主義に裏切られるかにみえて理想主義を捨てず、夫に暴力をふるわれる哀れな若妻なのだが、それを気にもとめない、そしていつも気丈な女性という、ステレオタイプでもなければ深みもないというモンスターに、デズデモーナを仕上げてしまったのである。
有名な柳の歌の場面では、夫を裏切る妻がいることを信じられないというデズデモーナは、原作では、無垢で純情な深窓の令嬢であるという癖が抜けない彼女の心性を示すことになるが、エミリアは、時と場合によっては、夫を裏切ることもあるといい、価値観がかわれば、裏切りも裏切りでなくなるかもしれないとという、まさに社会のオルターナティヴをも考慮する優れた台詞を口にするのだが、今回の演出では、デズデモーナは、夫を裏切る妻がいることを信じられないというとき、世間知らずではなくて、ただ意志の強さだけを示すだけのありそうもない人物となっている――ああ、この演出家にとって、それがデズデモーナの麗しい姿なのだ。
実際、この演出家は、人種差別主義者はまた女性差別主義者だと述べている。一般論からしてこれが正しいのか正しくないのかはむつかいしところだろうが、ただ言えるのは、この演出家は、たとえ原作を離れても、あるいは原作を無視して、そうしたイアーゴー像を造型したということだ。イアーゴーは人種差別主義者である。イアーゴーは男性中心主義者で、家庭で妻に暴力をふるうDV男である。やめてほしいこんな安っぽいメロドラマは。ありもしない浅薄な人種差別とありもしないDVをでっち上げて三文芝居にするのは。
『オセロー』のなかで殺される女性はデズデモーナとエミリア。そのうち公衆の面前で暴力をふるわれるのはデズデモーナだけである。デズデモーナがオセローから殴られるのは、異人種結婚をテーマにしたこの戯曲において、皮肉なことに最も有名な場面となっている。妻を殴ったことによってオセローの失墜は決定的なものとなる。
2016年に日本で上演されたアヤド・アフタル『DISGRACEDディスグレイスト―恥辱』(翻訳:小田島恒志、小田島則子;演出:栗山民也;出演:小日向文世、秋山菜津子、安田顕、小島聖、平埜生成;2016年9月10日~25日/東京・世田谷パブリックシアター)では、アメリカ人でパキスタン出身の元ムスリムの弁護士が、思いあまって妻を殴ることですべてが破綻する――妻とは離婚し職も失う。
この戯曲『DISGRACEDディスグレイスト―恥辱』が『オセロー』を意識したものか(つまり翻案なのか)どうかわかならいが、異人種の男性が白人の女性を殴ることが大事件となるという点で(これに匹敵する大事件となると子殺ししかない)、『オセロー』と問題意識を共有している。たとえどんなに高い地位(将軍)についてても、たとえどれほど白人化していようとも、野蛮で暴力的な素性は出るものだという人種差別的偏見にお墨付きをあたえるような出来事が、この公衆の面前での妻殴打行為である。
NTL『オセロー』では、この事件を重要視していない。オセローを人種差別の犠牲者にとどめておくために、これはオセローがその本来の野蛮で暴力的な性向を顕在化させたのではなく、イアーゴーの家庭内暴力に感染にした結果であることが示唆される。原作にはないイアーゴーの家庭内暴力を勝手に設定したのは、まさにオセローがDV男化する衝撃を和らげるためであった、つまりイアーゴーの野蛮性と悪が無垢なオセローに感染したという印象をあたえたのである。
NLT『オセロー』では舞台の三方を取り囲むベンチシートとそこに坐っている少数の物言わぬ不気味な舞台上の観客が社会にはびこる無意識の偏見のようなものを暗示しているのだが、そうなると異人種に対する憎悪と偏見と女性蔑視が社会にあり、それを一心に体現するのがイアーゴーであり、そのイアーゴーにそそのかされてオセローは妻を殴るはめになった。だが皮肉にも、妻への暴力行為が、異人種は野蛮で暴力的であると社会的偏見を裏書きすることになった。こうなると『オセロー』の舞台となるヴェニスとかキプロス島の白人社会(ほんとうは多民族社会なのだが)は、他人種・他民族を野蛮で暴力的な存在とみる偏見に支配されていて、たとえば彼らが敵視するイスラム社会と同じように野蛮で暴力的ということになる。オセローという名誉白人の顔をしている野蛮人が、野蛮白人社会のなかにいる。野蛮の中にいる野蛮ということになるが、オセローは、イアーゴーの術策にはまって野蛮へと追いやられたにすぎない。そして妻を殴るというオセローの行為のおぞましさに驚愕する白人社会の面々は、ただの偽善者にすぎない……。
だが、『オセロー』は、そういう話なのだろうか。
これは、この演出家が勝手につくりだした妄想的社会関係ではないだろうか。この妄想が作り出すのは、紋切り型の人種差別的偏見に支配された中年男、その男のDVの犠牲者となる中年妻、人種の壁を越える善良で勇気のあるフェミニスト的女性、彼らが構成する三流のメロドラマでしかない。オセローは、無垢な異人種で外国人であり腐敗したヴェニス社会における哀れな犠牲者にすぎない。だが、このメロドラマは同性愛的要素を欠落させている。この演出家がホモフォビアであるということではない。こうした三流のメロドラマを組み立ててしまうと、どうしても同性愛的要素を欠落させてホモフォビア的になってしまうということである。だがシェイクスピアの原作は、人種差別、外国人差別、女性差別をとりいれても、同時に、同性愛的要素も取り込んでいる。もし同性愛的要素を欠落させてしまうのなら、それはシェイクスピアの作品とは似ても似つかない捏造品といわねばならない。
NTL『オセロー』の最後において、すべてが発覚して、イアーゴーの暗躍が白日のもとにしめされる。このときオセローによって刺された(致命傷ではない)イアーゴーは、あとはもう何も言わぬといって、動機などの説明するのを拒む。そして最後まで沈黙する。
しかし、この演出家は、なにも言わないというイアーゴーに、口を開かせ、原作にはない「それがなんであるかわかっているはずだ」という語らせている。これは原作では別のところでイアーゴーが語っていた台詞である。それを、あとは何も言わないというイアーゴーに語らせるのだ。何も知らない観客は、何も語らないと宣言したイアーゴーが、どうしてさらに語るのかシェイクスピアってバカじゃないかと思うかもしれないが、バカは、シェイクスピアではなくて、この演出家である。
「それがなんであるかわかっているはずだ」という台詞で、この演出家は、社会にはびこっている黒人への敵意と憎悪を自分イアーゴーが具現化して、若い白人女と結婚したこの黒人を破滅させたとでもいいたいのだろう。なお、この黒人と結婚した愚かな白人女も罰せられたとか、亭主の言うことをきかない愚かな妻も殺された(イアーゴーによって)、ということまではいわんとしたのかは、不明。
しかし、オセローの最後はどうだったのか。すべてが発覚して、自分がイアーゴーの嘘に躍らされて妻を殺したことを理解したオセローは、たとえ騙されたとはいえ、自分の行為を許すことができず、野蛮化した自分自身を罰するために、まだ残っていた文明化された自分の手で、自害するのである。野蛮な自分を、文明化した自分が罰したのである。この自虐性、あるいは白人の価値観を体現して、本来の自分を殺してしまうというこのオセローの行為を許せなかったのか、この演出家は、その台詞を全面的にカットしているのである--有名な台詞なのだが。この演出家は、黒人への人種差別を際立たせるためには、つじつまがあわなくても勝手に台詞を付加し、不都合な台詞はカットしてしまうプロパガンディストそのものなのだ、
「それがなんであるかいわなくてもわかっているはずだ」という、オープン・シークレットの存在を暗示する台詞は、ふつうは社会にはびこる人種差別的偏見を示すものではない。わかっていても口にできないこと。ふつうそれは同性愛的欲望を指すのである。
もう少し続ける
2023年07月27日
『オセロー』NTL 2
posted by ohashi at 23:06| 演劇
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