「人シネマ」と題されたネット上の記事(2023.7.28)では、この映画をこんなふうに解説している。
まず前書きがある:
毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)。
次に内容紹介:
夏休み中のある高校。文化祭実行委員の沖芝樹(青木柚)は早めに教室につき眠ってしまう。もう一人の実行委員の加藤恵那(坂ノ上茜)に起こされて午後1時から打ち合わせを始めるが、5分たつと樹は午後1時に戻っている。抜け出せないループに陥った樹は、混乱を極めていく。
【中略】不安と妄想、若者の内に秘めた心情をずるずると照らし出した脚本に魅せられた。青春真っただ中のループにどう決着をつけるかと思っていたら、老いの後悔や切なさに着地。青春映画の進化系の趣を感じる。タイムループものは枚挙にいとまがないが、学校や教室内という、ほど良い閉鎖環境との親和性も新鮮だ。
しかし、落としどころは平板でやや拍子抜け。終盤は収束感を出すよりも、はじき飛ばす感性があってよかったかも。焦燥感たっぷりの青木、はつらつとした坂ノ上の躍動感にも注目。中村貴一朗監督。1時間28分。東京・新宿シネマカリテ、大阪・シネ・リーブル梅田ほかで公開中。第2弾「17歳は止まらない」は8月4日公開。(鈴)
さらに以下のコメントもある:
ここに注目
登場人物はほぼ2人。種明かしまでのミスリードも手が込み、よくある設定でも先読みさせまいと観客に挑戦する趣だ。その試みは半ばは成功。ただ、つじつまの合わない細部が気になったし、描写の生臭さと物語の着地点がややバランスを欠く。後味はしみじみともほのぼのとも言いがたいのが残念。(勝)
「記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも」という辛口のコメントも辞さないという姿勢は、ややもすれば上から目線にもなるし、冷静な判断というよりも自己尊大化に陥りやすい。
「後味はしみじみともほのぼのとも言いがたいのが残念」という「勝」氏のコメントは、当人にとってみれば、一般観客にとって残念というつもりなのかもしれないが、「勝」氏本人にとって残念ともとれないこともなく、そうなるとあなた誰様?、俺様?という思いすら私たちは抱きかねない。そのコメントの不条理さは、たとえば「ロミオとジュリエットのふたりは、最後に、駆け落ちして結ばれてハッピーエンディングを迎えると思ったら、二人とも死んでしまうという悲しい結末になってしまったのが残念」というコメントの馬鹿馬鹿しさを思えば納得がいくことだろう。作者の意図が気にくわなかったら残念の一言で片付け要する心性こそ、ほんとうに残念である。
ただし、この映画が後半予想を裏切るかたちで展開するのは事実。またそれまでは時間ループ者の王道的作品であることを誇示している。
夏休みの高校の一教室で、文化祭の企画についての打ち合わせをする高校生の男女が、午後1時から1時5分という5分間の時間ループにとらわれてしまう。そのとき時間がループしていることを意識するのは、高校2年生の沖芝樹(青木柚)だけで、相手の加藤恵那(坂ノ上茜)は何も気づいていない。この設定は、たとえば『時をかける少女』(筒井康隆の短編あるいは映画化作品)とか『恋はデジャブ』(アメリカ映画)といった時間ループ物の王道の設定であって、同じ時期に上映されている『リバー、流れないでよ』では旅館に勤める従業員と宿泊客全員が2分間の時間ループに気づくのだが、これはけっこう異例の設定である。
また文化祭にむけての企画準備というのは、文化祭前夜学校に残っての準備時間を繰り返すという『ビューティフル・ドリーマー』を彷彿とさせる。この作品では高校に残って準備している者たちが、時間のループに気づき始めるのだが、『リバー』とは異なり、気づきは徐々におこなわれるのだが、『神回』との共通点は、このループが、誰かの願望充足になっているという設定である。『リバー』でもループを引き起こす誰かの願望が問題となっていた。また昨年公開されたループ物『Mondays』でも一週間のループを引き起こす原因となる人物が存在していた。
『神回』は、この中間である。唯一、時間ループに気づいた男子高校生は、5分間のループから逃れるために、原因の追究、事情を知っているかもしれない人物との接触などを試みるが、結局、原因はわからず、脱出ができないままである。
しかしこの映画のはじまりに、説明をされないのだが、病院らしき個室で生命維持装置を付けてベッドで寝ている年配の男性の姿が映し出され。そして夏休みの高校の校舎へと場面はかわる。すべてはこの生命維持装置をつけて意識がないらしい男性の夢のなかの出来事かもしれないという可能性は最初から示唆されている――実際、その示唆はまちがっていない。となると、このループの原因は、そこから必死で抜けだそうとしている高校生の、おそらくは晩年の彼自身である。
『ビューティフル・ドリーマー』では、文化祭の前日の準備の時間という学園生活で一番楽しい時間が永遠につづくことを願っている人物が時間ループをもたらしたのだが、この『神回』では、ひそかに恋心をいただいている女子高生との文化祭打ち合わせは青春の楽しい思い出を、この男子高校生はずっとつづいていていて欲しいと願っているのではないかと思うのだが、あいにく思い出の出来事は5分間しか続かず、しかもその5分ですら耐えられない男子高校生は、そこから必死の逃亡をはかるのはなぜかという疑問が映画の後半に観客の脳裏をよぎり始める。
ただし、その前に、時間ループ物としてこの映画について展開を確認しておきたい。まずは5分間のループに気づいた主人公は、そこからの逃走を図る。知恵を絞り、あらゆる可能性なり原因を考慮して策を練り行動に走るのだが、ことごとく失敗し、疲労する。記憶は残っているのだから、だんだん要領がよくなってくるのだが、結局は、すべての試みが無駄であったことを悟る。どんなに逃げだそうとしても、水平方向のバンジージャンプみたいでに、結局は引き戻されるのである。
つぎに5分のループからの脱出は不可能とわかったあとは、5分間をいかに有効に活用するかにテーマがかわる。男子高校生が女子高校生と、将来について、自分の夢について語りあうとき、かけがえのない親密な瞬間が訪れる。午後1時5分より先に時間はすすまずにループして反復をくりかえす時間にとらわれたとき、これは一回切りの人生に生じたボーナス時間でもあって、たとえ5分であっても、ふだんできない時間の使い方というものがあるはずで、主人公はそれを片思いの女子高生との親密な語らいに使うのである。
だがもうひとつの有効活用がある。それは悪いことをするのである。あるループ物の映画では、1日の時間ループに囚われた高校生の若者たちが、何をしてもリセットされて一日前にもどるのだからと、街で犯罪行為に走る。たとえ警察につかまっても、あるいは人を殺しても殺されても、翌日になればすべてリセットされて前日に戻るのだから。ただし、これが危険なのは、もし時間ループが終わると、犯罪行為がリセットされずに責任をとわれることになる――これは『リバー』でも警告されていたことだ。
『神回』において主人公の男子高校生は、相手の女子高生をレイプしようする。ループを繰り返すうちに次第に狡猾になった男子高校生は時間をかけずに女性を気絶させ性行為に及ぼうとするが、それでも時間切れになる。この暗い展開のなかで、結局、彼はレイプできない。ただしその理由が、5分間では短すぎるためか、まだ残っていた良心ゆえにか、あるいはそれ以外のなにかなのか判然とはしないのだが。
【以下、ネタバレ注意。Warning:Spoilers】
ここで映画の冒頭において示された生命維持装置をつけられ眠っているか意識のない高齢の男性の病室か自室(自室のようだが)へと戻る。どうやら余命幾ばくもない男性は、甥の新納慎也とその妻だったか妹、そして医師と看護師に看取られている。生命維持装置を外すことに躊躇する新納は、父親がわりだった伯父の希望をかなえて最後まで行かせてやりたいという。またこの老人の夢(老人は男子高校生になっている)にあらわれた医師は、老人がなんらかの医療実験に参加していて、良好な結果を得たというようなことを知らされる。ただし、どのような医療実験なのか、またこの老人は、どうして高校時代の夢をみているのかは説明がない。なにか自分の人生における幸福な一瞬を最後に夢見るという実験(?)に参加しているのかなと思う。
ところがそうではない。夏休みの高校の教室での、女子高生との文化祭の企画の打ち合わせという出来事は、実際には起こらなかったのである。この老人/男子高校生の願望にすすぎなかった。だからこそ、この願望充足が実現したかのような幸福な時間は、そこに閉じ込められたいと願いながらも、あり得なかった架空の時間であって、そこにとどまることのできない時間でもあった。そのためこの昏睡状態の老人にとって、高校時代の夏の幸福(だったかも知れない)時間から逃れ、最後に、老齢となった二人が結ばれるハッピーエンディングを目指そうとしても、結局は、その架空の幸福な時間に引き戻されるしかない。なんという空虚感。なんという焦燥感。
このことは甥の新納慎也が、伯父の持ち物や卒業アルバムを整理して、伯父の恋人だったかもしれない女性を呼び出して、療養中というか昏睡状態の伯父に会ってもらったことから判明する。彼女は、老人の高校時代の恋人でもなんでもなかった。彼女にはボーイフレンドがべつにいた。彼女と文化祭の企画の相談などしなかった。すべては老人男性の妄想というか夢であったとわかるのである。
その間、老人は昏睡状態のなか、夢のなかで、たがいに老齢化した女性と、ループから逃れようと高校の教室をあとにする。だが階段を上った先にあるものあ定かではない。それが正しい脱出経路かどうかも定かではない。ただひとつ言えるのは、校舎の窓からコンクリートの通路に飛び降りて頭を割って死ぬのではなく、老齢となって死ぬことが、ループから逃れる唯一の方法だとわかるのである。いいかえれば昏睡状態の老人が、生命維持装置をはずされたとき、ループが終わるということである。
映画の最後には、高校の校舎が映し出され、教室の黒板とか壁、また校舎の壁などに、プロジェクション・マッピングで、男子高校生と女子高生との文化祭の打ち合わせの場面、彼女の姿、ふたりの語らいの姿などが映し出される。プロジェクション・マッピングは外部から動画を建物の壁などに投影するものなのだが、観ている側からすると、建物の内部から映像や動画が浮かびあがってくるようにみえる。この高校の校舎は、男子高校生の思い出を、正確にいえば妄想を閉じ込めた墓場という趣がある。あるいはこの老人の墓石は、高校の夏休みの校舎の形をしているのである。
なんという悲しいせつない物語なのか。この老人は、一応、社会的には成功した生涯を送ったようだが、甥を引き取り、自分の子どものとして育てた彼は、おそらく生涯独身で、伴侶には恵まれなかったようだ。彼にとって唯一の愛の思い出は、高校時代の同級生の女子高生への片思いでしかなかった。もちろん彼女にはつきあっている恋人がいて、彼女に恋心を伝えることはできなかったし、たとえ伝えても相手にされなかっただろう。だが、彼女のことを忘れられなかったことは、人生の最期において昏睡状態の妄想中で、彼女とのありえたかもしれない、というかありえなかった経験をループして夢にみたことからもわかる。
悲しい一生だったのだろうか。いや、永遠の片思いこそ、もっとも純粋な愛、決して壊れることのない愛の究極のかたちである。たとえそれがどんなに苦しくとも、またそこからどんなに逃れようとしても、その苦しみ、その逃亡行為、その焦燥感こそが、愛の証しだったのである。
