ナショナル・シアター・ライヴの『オセロー』は、たしかに、誰が見てもシェイクスピアの『オセロー』以外の戯曲にはみえないのだから、黙っていればいいようなものだが、そんなに面白い舞台ではなかった。英国では称賛されているようだが、そんなものを信ずるのは、無知なというよりも、褒められたものならなんでもありがたがる無恥な観客にすぎないだろう。
たとえば最近上演されたアンドリュー・ボヴェル作『これだけはわかっている』Things I Know to Be True』(6月30日~7月9日)は、いかにも芝居らしい芝居を見たという感じを観客にあたえた優れた舞台だったが、これには、もちろん原作というか劇作家の功績が大きいのだが、同時に、演出家の力量、俳優陣の熱演もまた大きな要因となっている。当たり前のことを言うなと叱られそうだが、いくら原作が良くても、どうしようもない舞台は多い。しかも、本場かもしれない英国の舞台に接して、どうしようもないと落胆することはけっこうある。気の抜けたシェイクスピア劇を英国でみるよりも、日本の翻訳劇でシェイクスピアを観るほうが、はるかに刺激的で面白いということはよくある。今回のナショナル・シアター・ライブの『オセロー』もそうした凡庸な演出のひとつだった。
いや、凡庸ならそれでもいい。問題は凡庸な解釈にすぎないものを、なにか新しい前衛的で社会的な解釈として喧伝しようとしていることに腹が立つ。またそれは作品に対する根本的な誤解に基づいている。とはいえそれは悲劇を喜劇と間違えている、あるいはその逆という高尚な誤解ではない。弁解の余地のある誤解ではない。どうしようもない勝手な思い込みに近い誤解なのである。
たとえば今回の『オセロー』でイアーゴーを演じているポール・ヒルトンが出演している映画に『レディ・マクベス』(Lady Macbeth 2016)がある【今年10月に日本で上演される『レディ・マクベス』とは別物であるので誤解のないように】。この映画はロシアの作家ニコライ・レスコフの小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』をヴィクトリア朝の英国に移し替えて映画化したもの。映画の紹介文によれば「19世紀後半のイギリス。17歳のキャサリンは資産家の家に嫁ぐが、年の離れた夫は彼女に興味を示さず【ゲイでもあるから】、体の関係を持たない。意地悪な舅からは外出を禁じられ、人里離れた屋敷で退屈な日々を過ごしていた。そんなある日、キャサリンは夫の留守中に若い使用人セバスチャンに誘惑され……」という映画。キャサリンを演ずるフローレンス・ピューの圧倒的な存在感が印象的なこの映画は、犯罪が発覚してシベリアへ流刑になる主人公を描く原作とは異なり、最後に屋敷に女主人として君臨するキャサリンの姿で締めくくれる。そのような改変があってもいい。問題は、レスコフの小説にも、またそれを映画化したから当然なのかもしれないが、この映画にも、なぜ「レディ・マクベス」の名前が登場していることである。
レスコフの小説は、妻がその愛人と共謀して夫を殺す物語を展開させる。しかしシェイクスピアのマクベス夫人は、夫を殺さないし、愛人もいない。マクベス夫人は、アイスキュロスの『アガメムノン』に登場するクリュタイメストラではないし、ゾラのテレーズ・ラカン(同名の小説参照)でもない。だが、なぜレスコフは、浮気して愛人と結託して夫を殺す妻を「マクベス夫人」と呼ぶのか。ほんとうにレスコフとそのタイトルを許容したロシア人は何を考えているのかわからない。根本的に間違っている。これと同じ思いを、今回の『オセロー』を観て抱いた。
山下達郎のジャニーズ事務所擁護の発言が問題となり、大炎上。そのあおりで、山下達郎が、過去に、竹内まりあが中森明菜に提供した楽曲「駅」(作詞・作曲、竹内まりあ)の中森明菜による解釈を批判したことも引き合いにだされて、その非難には、ジャニーズ事務所を擁護する意図があったのではとまで言われ始めている。その真偽はともかく、山下から明菜への批判について私は賛成する。なぜなら中森明菜の楽曲解釈は、その楽曲のよさところをすこしも出していないからである。その歌い方は、竹内まりあから提供された曲の世界の可能性を広げるというよりも狭まるものでしかない。
それと同じでというのは、つまり、今回の『オセロー』は、制作者側あるいは演出家が、シェイクスピアの『オセロー』を利用して、人種差別問題を訴えるべく、芝居を構成しただけであって、人種差別も含め、シェイクスピアのこの作品がもつポテンシャルあるいはテーマを最大限実現させようという意図など最初からないようなのだ。べつにシェイクスピアを愛せというつもりはないが、ただ制作者あるいは演出家が、観客に学ばせるだけで、みずから舞台に載せる作品から学ぶつもりはないというのは最悪の舞台になる――今回のよう。
ムーア人/モーロ人であるオセローはアラブ人と黒人の中間的存在である。アラブ人性を強く出してもよいのである。そこからでも人種差別問題を引き出せる。たとえば吉田鋼太郎がオセローを演じた蜷川幸雄演出では、オセローは、アラブ系の存在であった(膚を真っ黒に塗ったりはしない――ただし悪くいうと、吉田鋼太郎のオセローは、アラビアン・ナイトに登場する魔法のランプから出てくるジーニみたいだったのだが)。オセロー=黒人としなくてもいいのである。またシェイクスピアの時代、イングランドは、ヨーロッパ諸国との協定を破って、ムーア人と交易をしていた。また当時イングランドを訪問したムーア人の大使の肖像画が残っている。

この肖像画が、ストラットフォード・アポン・エイヴォンのシェイクスピア研究所内の壁に掛けてあったのを発見した私は、まず肖像画の大きさに驚き、そして、それがシェイクスピア研究所にあることにさらに驚き、思わず、見入ってしまったが――あとで知ったのだが、実は、それはレプリカというか複製画で本物ではなかったし、さらにいえば本物のはもっと大きいとのことだった。
それはともかく、シェイクスピアが思い描いていたムーア人の将軍というのは、このアラブ系の大使の像だった可能性がある。この威厳のある、ある意味、威圧的な、またある意味、優れた知性をたたえた人物の肖像画は、その人物の出自がヨーロッパに匹敵する文明圏であることを如実に物語る。シェイクスピアの時代、異人種への眼差しは、ヨーロッパ中心主義だけでは説明のつかない複雑さを抱えていたのである。
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イアーゴーの年齢ははっきりわかっている。今回、イアーゴーを演ずるのはポール・ヒルトン。いかにも、イタリアのファシストあるいは悪魔といった風貌で、『レディ・マクベス』に、フローレンス・ピューのゲイの夫として出演していた頃の面影はない。
はっきりとしないが、このイアーゴーは、オセローと同世代か、年齢的にオセローに近い男のようにみえる。
確認すると、オセローと、彼の妻となるデズデモーナと父親、ブラバンショーは、同世代がである。つまりデズデモーナは、父親と思えるほど年の離れたオセローと結婚したことになる。ではイアーゴーはというと、これもシェイクスピアとは何の関係もない伝統ができあがっていて、主役クラスのベテラン俳優が演ずることが多い。そうなるとオセローに近いか、ときにはオセローを上回る年齢のイアーゴーも登場する。
ある日本のシェイクスピア入門書では、悪魔的で怖いイアーゴーとして、50代か60代にみえる英国俳優の舞台写真を使っていたが、イアーゴーの年齢を知らずに入門書を書かないで欲しい。
イアーゴーは、自分で27歳だと、友人にして金づるのロデリーゴに語っている。イアーゴーは呼吸をするように無意識のうちに嘘をつむぎだすのだが、ロデリーゴに対し自分の年齢を偽る理由はない。となるとオセローやブラバンショーは父親の世代、それに対して、イアーゴーとその妻エミリア、そしてデズデモーナ、キャシオらは、おそらく20代の若者たちなのである。この年齢差、世代差が、大きな枠組みであり背景となって悲劇が発生するのである。
もちろん多くの上演と同様に、今回も、自分が27歳であるというイアーゴーの台詞は省略されている。またイアーゴーに扮するポール・ヒルトンとオセローを演ずるジャイルズ・テレラの実年齢を考慮すると、前者が1970年生まれで50代、後者が1976年生まれで40代後半ということになる。ただ今回、イアーゴーがオセローよりも6歳も年上にはみえない。ほぼ同年齢か、少し若いくらいにみえる(私の主観的判断だが)。しかし、このイタリア人ファシストの悪魔=イアーゴーは、デズデモーナやキャシオと同世代ではない。またエミリアは、イアーゴーにあわせて高年齢化している。
そのため原作の重要な要素をカットする必要に迫られてくる。
芝居の冒頭、原作においてイアーゴーは、ロデリーゴを相手に最近副官に任命されたキャシオの悪口をいいまくる。ここでは、たたき上げの軍人であるイアーゴーが、日本風にいうとキャリア組のキャシオに対する憎悪の念が噴出する。ここにあるのは、キャリアとノンキャリア組の階級問題である。
しかし、このとき、イアーゴーは、自分自身ではなくてキャシオを副官に任命したオセロー将軍に対して、あんな移民の子がとか、異人種の傭兵がとか、ヴェニスをつくったのは白人であって、黒人ではないだから、黒人が偉そうにするなという、欧米の白人優位主義者がいうような人種差別的呪詛を一切口にしない。あくまでも副官の地位をめぐって自分のライバルであるキャシオをおとしめるだけである。
実際、このあとイアーゴーが、間接的におとしめるのは、同じく彼と同じ世代のデズデモーナであり、デズデモーナとキャシオの不倫関係を匂わせることで、イアーゴーは、オセローとキャシオの信頼関係を壊し、そしてオセローとデズデモーナとの夫婦関係にヒビを入れるのである。またイアーゴーは自分の妻エミリアとオセローとが不倫関係にあったのではないかと疑う(イアーゴー自身、これが自分の妄想かもしれないと認めつつ、最後には真偽のほどはどうでもいいとまでいう)。
キャシオ、デズデモーナ、エミリア――イアーゴーと同世代のこの三人がイアーゴーの敵である。どうしてか。それはこの三人(もしくは二人)が、オセロー将軍の寵愛を勝ち得ているからであり、ひとりイアーゴーだけが、将軍から眼をかけてもらっていない。そのためこの三人を排除して、みずからその後釜に座る、つまりオセロー将軍による寵愛の座につくことがイアーゴーの目的である。
もしイアーゴーが階級的に差別される者の怨念しか抱いていないのならキャシオをおとしめればそれですむ。しかし彼はデズデモーナをも巻き込もうとする。さらにいえば、自分の妻エミリアの不貞疑惑を持ちだし、妻がオセローの持ち物になっている可能性を匂わす。イアーゴーはキャシオの後釜のみならずデズデモーナの後釜にも坐ろうとしている。そして、エミリアではなく自分がオセローの持ち物になることを望んでいる。
オセローが、みずからを裏切った(と思わされたのだが)デズデモーナとキャシオに復讐すること(具体的にはオセローは妻デズデモーナを、イアーゴーはキャシオを殺すこと)を決意するとき、オセローとイアーゴーの二人は跪いて復讐の誓いをたてる。これは結婚の誓いと同じである(動作姿勢ならびに言葉遣いが、まさに結婚の誓いそのものである)。オセローとイアーゴーは、復讐の誓いを結婚の誓いの形式でおこなう。オセローとイアーゴーは、はれて夫婦になったということもできるのだ。
ローレンス・フィシュバーンがオセローを演じ、ケネス・ブラナーがイアーゴーを演じた映画版『オセロー』(オリヴァー・パーカー監督、1995)では、復讐の誓いの場面、ふたりは最後にしっかりと抱き合い、イアーゴー/ケネス・ブラナーは眼に涙を浮かべるのだ(もちろん嬉し涙である)。なお映画ではこの場面、海浜ならびにその近くで展開し、水が暗示的に使われている――そう、同性愛の暗示として。
ここのどこに人種差別があるというのか。イアーゴーのこうした一連の行動のなかに、人種差別的蔑視と偏見が、どこにあるというのか。イアーゴーがオセローを憎いというとき、それは人種差別的な偏見からではない。オセローが、キャシオ、デズデモーナ、エミリア(すべて白人)を愛していて、自分(つまりイアーゴー)を愛してくれないことへの憎しみであり、そこに人種差別的な憎悪はない。さらにいえば、そこにはまぎれもなく同性愛的欲望がある。
演出家クリント・ダイアーは、このことが見えてないというよりも、見ようとしない。いや、おそらく見えているからこそ、つまり人種差別的偏見がないことをわかっているからこそ、自分の手で、人種差別的欲望を作り出したのだ――そして同性愛的側面を抑圧する。
そう、今回の舞台は、階段状のベンチ席のようなもので三方を取り囲ませている。登場人物は、囲まれた平場のようなところで演ずる。そして階段状のベンチシートには、見物人が坐っている。場面によって坐っている人数は変化する。彼らは表情や所作で、主として嫌悪感をあらわにするが、台詞を発することはない。いうなれば市民の側、共同体のなかにひそむ人種差別的偏見なり憎悪を、舞台上の観客が代表する。オセローもイアーゴーも、キャシオもデズデモーナもエミリアも、そうして人種差別的な視線にさらされているし、そうした視線に応答しているかにもみえる。とりわけイアーゴーは、そうした視線の代表者であり、またそうした視線を誘導したり創造したりもする源泉ともなっている。
イアーゴーの言葉のなかに人種差別的見解はない。台詞面から、これは確かである。また同性愛的欲望は如実にみてとれる。そのためありもしない人種差別的無意識を可視化するような舞台にこしらえて別の物語をつくるしかない――同性愛的要素を抹消した別の物語。黒人の演出家だから、『オセロー』を人種差別の犠牲者の悲劇にしたい、そのために、原作にはない要素を付け加えるのはいい。しかし原作とは別の物語にすることは、翻案とかアダプテーションの限度を超えている。繰り返すが、それで同性愛的要素を抹消するのは許しがたい。
ニコライ・レスコフの小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、愛人と結託して夫を殺す女性を「マクベス夫人」と称しているのだが、シェイクスピアの『マクベス』におけるマクベス夫妻は仲が良く、マクベス夫人には愛人などいないし、マクベス夫人は夫を殺したりはしない。どういう誤解から、マクベス夫人とは似ても似つかない悪女を「マクベス夫人」と称することになるのか。このクソ・ロシア人作家にほんとうに聞いてみたいのだが、その小説を、舞台をロシアからヴィクトリア朝のイングランドに置き換えて映画化した作品『レディ・マクベス』も、愛人と結託して夫を殺す若妻が「マクベス夫人」と呼ばれることになるのだが、シェイクスピアの『マクベス』とは似ても似つかぬ、別の物語としかいいようがない。ちなみに『レディ・マクベス』でフローレンス・ピューに殺される夫は、今回の『オセロー』でイアーゴーを演じているポール・ヒルトンである。
これと同じで、クリント・ダイアー演出の『オセロー』は、シェイクスピアの『オセロー』の翻案ともいえない、別の物語になっているという、もどかしさ、そして凡庸な演出家への憤りが私のなかでは拭いされないのである。
つづく
