2023年07月01日

『ある馬の物語』

トルストイ原作『ホルストメール――ある馬の物語』のロシア版舞台化の翻訳をもとに、独自の演出なり音楽を加え、「音楽劇」と銘打った『ある馬の物語』を世田谷パブリックシアターでみた。

自腹でチケットを購入(わざわざこんなことを書く必要もないのだが)、あまりよい席ではなかったものの、興味深い作品だったので、とにかく劇場に足を運んだ。そして驚いた。

舞台と客席のフロアとの段差がなくなっていて、しかもA~F列までの席がすべて取り払われていた。G列が最前列の席だった。となると私のチケットは、そんなに悪い席ではなくなって、最前列ではないが、最前列に近いよい席となった。

なお、上演後のトークショーもあったので、それを見届けた。

白井晃演出には数々の工夫が凝らされ、また演者たちの力演も手伝って、迫力のある力強い舞台となっていて、しかも時として喜劇的/スラップスティック的であったり、また時として残酷極まりなかったりと、多様かつ多彩な変幻自在のパフォーマンスは、観客にも深い感銘をあたえたことがみてとれた。端的にいって、観客に受けていた。

最初から最後まで、舞台には工事現場を思わせるような、あるいは大きな倉庫内の棚を思わせるような枠組みが鎮座しているのだが、いかにも白井晃好みの舞台装置も――時として、その抽象的というよりも、むしろ無機質な日常的な装置が反発を受けるこもあるのだが――今回に限っては女性観客にも好意的に受け止められているように思われた。

だから、満足度の高い、優れた舞台であることは誰もが保証できると思う。このことを確認して観劇のコメントを終えてしまうことができれば、どんなによかったことか!

というのも上演後のアフタートークを聴いた限りでは、プロデュース、演出、演者の意識の低さに驚いた。こんなになにも考えないで、あるいは肝心なことを考えずに、よくもまあ上演できたものだと思った。ただし、舞台そのものは、すぐれた舞台なので、自信をもって推薦できるし、関係者がどんなことを考えているか、あるいは考えていないかは、上演そのものには全くといっていいほど影響を与えていないので、あえて口をつぐんでいてもいいのだが、やはり一言述べておきたい。


トルストイの『ホルストメール――ある馬の物語』は、アニマル・スタディーズの動物文学篇においては必須文献のひとつで、私も、いまから5年以上いや10年前くらいに読んでみた。とはいえ日本語の翻訳はあるのだろうけれども、見つからなくて、英語訳を読むことにした。そのため日本語の翻訳版探しは英語訳を読んだ時点で終わりにした。ひょっとして文庫本に入っているかもしれず、そのときは、ただ恥ずかしいばかりである。

英語訳はStriderという。大股で飛ぶように走る馬という意味である。短編ではないが、長編というには短すぎる中編といったところか。英語訳を読んでみて抱いた感想としては:

1) 貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)である。
主人公のストライダーは、高貴な血脈に生まれ、その血統にふさわしいサラブレッドとしての資質を受け継ぎながらも、その毛並みがまだら模様であるがゆえに忌み嫌われ不遇の境遇に置かれていることから。

ホルストメール/ストライダーが本物の貴種であることは、競馬場での飛び入り出場での優勝が物語っている。もちろんその栄光は一瞬で、次に転落と契機となる出来事がつづくのだが。

2)異化効果
恥ずかしながら今回はじめて知ったのだが、シクロフスキーが異化概念を語るとき、例として挙げていたのが、このトルストイの『ホルストメール』だった。馬の視点から人間界の不条理を暴くということなので。

ウィリアム・エンプソンは『牧歌の諸変奏』のなかで、単純なもので複雑なものをするのが牧歌ならびに牧歌的ジャンルの特徴であると説いた。エンプソンのいう牧歌は、ひろく諷刺文学批判を指すものだが、子供の視点でみられた大人の世界、馬の視点でみられた人間の世界、田舎者の視点でみられた都会人の世界――すべてこれ諷刺性を発動させる異化の仕掛けそのものである。トルストイの『ホルストメール』における動物の視点からの諷刺・批判はかなり過激である。

ホルストメールが批判するのは、人間や動物を「所有物、財産」とみることの不条理である。この批判性は、トルストイの思想の根幹にあるものだが、これはまた共産主義思想の根幹でもある。共産主義をプーチンの独裁、習近平の中国共産党の覇権主義とみなすような(その見方は間違いないのだが)昨今の世界の若者たち、あるいは日本のZ(ゾンビ)世代の若者たちには想像すらできないことだろうが、所有物、所有概念の否定が社会を変革しユートピアを実現すると考えるのが、本来の共産主義である。ちなみにロシアで大富豪でもないのに莫大な私有財産をもっているプーチンは、本来なら共産主義の敵であるはずなのに、共産主義国家の指導者として君臨するという歴史の皮肉が解消される日はくるのだろうか。

馬による人間世界への諷刺ということで思い出すのは『ガリヴァー旅行記』の第4部フウイヌム編である。そしてトルストイの『ホルストメール』は、ロシア版あるいはトルストイ版『ガリヴァー旅行記 フウイヌム渡航記』である。

【放送大学の教材で『ガリヴァー旅行記』(とくに第3部と第4部を中心とした)を扱ったのだが、そのときフウイヌム国渡航記と似たような動物寓話や動物物語の一例としてトルストイの『ホルストメール』を掲げようと思ったのだが、あいにく翻訳が簡単に手に入らないこともあってあきらめた。】

3)晩年のスタイル
トルストイの『ホルストメール』のなかにあった言葉かどうか定かではないのだが、その演劇版のコロスでは明確に聞き取れるセリフとして、いろいろな晩年のありようを列挙するものがある。

そもそも『ホルストメール』で最初に読者の前に登場するのは、ホルストメールと呼ばれているが、その名におよそふさわしくない、老齢の薄汚れた馬なのである。だが、その老齢の馬には、過去の輝かしい歴史があった。その馬が自分語りを始めると、他の馬たちも集まって耳を傾ける。読んでいると読者の脳裏に彼が生まれたばかりの頃、そしてまだら模様が差別されつつも、生気にあふれた若かりし頃のりりしい姿が浮かんでくる。

晩年とは、老残の身をさらしつつも、その魂のみずみずしさは失われていない二重性にあるとトルストイの原作にあったような気がする。若々しくも耄碌しているという矛盾と二重性こそ、サイードが『晩年のスタイル』で述べたような、老熟や円熟とは程遠い、老いることのない晩年性であった。

そもそもサラブレットでありながら、毛並みがぶちでまだらであるがゆえに、競走馬としての高貴さや優秀さを認められることなく苦難の生涯を送るホルストメールは、生まれたときから晩年のスタイルを生きている。

サイード的晩年のスタイル、Late Styleとは、時期的に遅いということだけでなく、遅れている、ずれているということ、空間的比喩に転換すると、場違い(out of place)、エグザイルであるということである。毛並みがぶちであることによってホルストメールは、異物、よそ者などのイメージがつきまとう。彼は生まれた時から晩年のスタイルを生きたエグザイルであったのである。

小説から戯曲へ

トルストイの『ホルストメール』出版されてまもなく戯曲化された。今回の公演も、その戯曲化作品に基づいている。

だが、それが不思議なのである。そもそも馬が語ったりする小説が、戯曲になりやすいわけがない。

たとえば最近まで上演されていた太宰治の『新ハムレット』は、シェイクスピアの『ハムレット』をもとに太宰が自由な脚色を加えた作品だが、対話形式で書かれているために、そのまま戯曲の台本として舞台化もしやすいし、実際、舞台化の試みは何度もあったようだ。

ただし対話篇からなる作品だからといって、そのまま演劇化できるかというと、そうでもない。かなりの困難を伴うことがわかるのだが、ただ、それにしても『ホルストメール』は最初から戯曲化はむつかしいと思われる――馬が主人公というだけではない、老いた馬が若いころの思い出を語るという二重構造も、おそらく面倒なことになるだろう。だが、それでも戯曲化されてきた。

英米圏では、この小説の戯曲版(ただしロシア版に基づくものかどうかは不明)が学校演劇作品として上演されてきたとの情報もある。もしそうなら動物が主役となるので、子供向け、学校教育用としての評価がなされ、実際の舞台化に伴う困難を乗り越えることになったのだろうか。

と同時に、出版直後から戯曲化されたこの作品は、小説というよりも演劇として知られているといってもいいかもしれない。『ホルストメール』は伝統芸に属するものであることを、今回初めて知った。それがある意味、私にとって落胆の原因ともなった。

というのも人間が動物の所作をまねるこの音楽劇は、ミュージカル『ライオンキング』とは異なる。後者が、動物しか登場しないアニマル・キングダムの物語であるとすれば(もちろん、その下敷きにあるのはシェイクスピアの『ハムレット』だが)、『ホルストメール』は、人間と馬とのかかわりを描くという点で、動物寓話ではなく動物物語であり、21世紀になって盛んになったアニマル・スタディーズの知見に寄与する重要な作品ともいえるのである。

事実、冒頭で述べたように、私はアニマル・スタディーズを通して、この作品について初めて知った。アニマル・スタディーズの文学部門において、トルストイの『ホレストメール』は、必読文献であり古典中の古典なのである。そして今、『ホルストメール』を上演するというのは、動物と人間との関係が問い直されている21世紀の文化的潮流に掉さすものだと、むしろ感激もしていたのだが、どうやらそうではないらしい。

上演はコロナ禍が始まる以前に計画されていたようだし、この作品は、日本でも何度も上演されていた。しかもロシアの劇団が日本で上演したこもある。どうやら、『ホルストメール』は、演劇作品のなかでは異色だが同時に定番商品のように伝統的に継続して上演されつづけてきた。ある意味、今回の上演は古典作品のひとつを舞台に載せたというにすぎず、文化的社会的出来事ではなかったのだ。アニマル・スタディーズとは関係なかったのだ。

ただ、今回の上演をみて感動もしまた満足もしたであろう観客の立場からみれば、そこにアニマル・スタディーズと同様な問題意識と意識的覚醒がみられることは確かなので(台本のすばらしさゆえに――演者や演出家の卓越した努力も加味されていることはいわずもがなだが)、動物と人間の運命をこの劇を通して感じとることは決してむつかしくない。

つづく
posted by ohashi at 21:07| 演劇 | 更新情報をチェックする