友敵関係
C.シュミットが『政治的なものの概念』 (1927) において提起した概念。政治の本質は友-敵の対立状況において根源的に表われると彼は考える。……彼はワイマール時代のドイツの政治的混乱を解決するためには国家にとっての真の敵,つまり共産主義勢力の一掃が必要であると説いた。彼にとって政治の本質は例外状況である戦争に現れるのである。この概念はナチズムの思想に受継がれ,やがてはヒトラーの独裁を正当化する根拠にもなった。
まあ敵か味方/友かに分けて考える思考なり政治である。もし自分が友とされたら悪い気はしないが敵とされたら怒りを感ずるだろう。
もちろん友とされても怒りを感ずることはある。少し前にあったオフレコ問題。オフレコで物を言うとは、相手を自分の仲間・同類と考えて問題発言を語ってしまうこと(問題発言でなければオフレコと釘をさす必要もない)。オフレコと言われた相手は、発言者の仲間・同類と思われているということである。これを嬉しいと思うこともあろうが、おまえと同類ではないと怒りを感ずる者もいよう。同性愛者に対する差別発言をオフレコとして言われた場合、そういう差別意識を共有していない私は憤慨し、また同類と思われたくて、その問題発言を公けにすることになろう。
いっぽう自分自身を敵とみなされた場合はどうか。最初から敵対関係にあればとくに怒りもわかないが、友と思っていたら敵視されたとなるとかなり衝撃を覚えることになる。
L・グルーエン編/大橋洋一監訳『アニマルスタディーズ――29の基本概念』(平凡社、2023)を上梓したが、そのなかで、「人新世Anthropocene」をどう表記するかで迷った。日本語では、「じんしんせい」と「ひとしんせい」のふたつの読み方がある。両方の読み方がこれから併存するのか、あるいは、いずれどちらかひとつに統一されるとしても、どちらなのか。私個人としては特に情報もなく、予測もできないし、どちらかひとつにすることで党派争いに巻き込まれることも嫌だと思っている。
本文中は「人新世」とだけ表記し、読み方は読者にまかせることにした。しかし索引をつくるとなると「じんしんせい」としてサ行におくか、「ひとしんせい」としてハ行におくか決断を迫れられた。私の決断は、決断しないことだった。「人新世」を「じんしんせい」として読む項目と「ひとしんせい」と読む項目のふたつの項目を用意した。索引としては異例のことだと思うが、現時点で、表記がひとつではない場合、大胆にして最善の策であると思っている。
いまや中堅の研究者である知人が、昨年上梓した翻訳のなかで「人新世」を「じんしんせい」と表記していた。私が尊敬しているその知人に「じんしんせい」という表記が一般的なのかと質問した。もし、そのとき、そうだという答えが返ってきたら私は躊躇なく「じんしんせい」の表記に統一するつもりだった。ところが回答は、「じんしんせい」が絶対に良い読み方とも思わないが、次善の策として「じんしんせい」を採用したというか、「ひとしんせい」という読み方が嫌だからというような、煮え切らない答えだった。そこで私は両方の読み方を索引でとることにした。
話はここで終わらない。
その知人には『アニマル・スタディーズ』の翻訳を出版されてからすぐに贈呈した。すると彼は、索引を調べて「人新世」が「ひとしんせい」と読まれていることを知り、私に、あなたは敵だったのですねとメールをよこしてきた。
これは彼自身が私のことを最初から敵扱いしていた証拠ではないか。
なぜなら、もし私のことを友/味方と思っていたら、「人新世(じんしんせい)」という項目を確認して、あらためて私のことを友/味方だとみなして、それで終わりであったはずだ。ところが、最初から「人新世(ひとしんせい)」という項目を探して、それがみつかると、やはりこいつは敵だったのかと確認したのである。繰り返すが、それは彼が私のことを最初から敵と思って証左である。私としてはかなりショックを受けた。友と思っていた相手から、敵と思われているのはつらいことである。
ちなみに、「じんしんせい」と「ひとしんせい」の両方の読み方を索引では採用し、「人新世」の項目がサ行にもハ行にもあるとその知人に伝えたら驚いていた。まあ、慧眼な彼にしてみれば、両方を表記するというのは、実は中立的であるかにみえて、隠れたかたちでどちらか一方を支持することであると指摘したかもしれない。両論併記ほどたちが悪いものはない。しかし彼からはそこまでの指摘はなかった。
最後に、友敵関係は、カール・シュミットによれば政治的操作である。その知人は、私を敵とみなしていたようだが、そうすることでどういう政治を目指していたのか、考えると、恐ろしくなる。
【その知人は、このブログは絶対に見ないので、この記事は、内密に】
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