『邯鄲』については以下を参照。
能・演目事典:https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_059.html
昔、中国の蜀という国に、盧生(ろせい)という男が住んでいました。……楚の国の羊飛山に偉いお坊さんがいると聞き、どう生きるべきか尋ねてみようと思い立ち、旅に出ます。
……盧生は邯鄲という町で宿を取りました。その宿で、女主人に勧められて、粟のご飯が炊けるまでの間、「邯鄲の枕」という不思議な枕で一眠りすることにしました。
……盧生が寝ていると、誰かが呼びに来ました。それは楚の国の皇帝の勅使で、盧生に帝位を譲るために遣わされたと言うのです。盧生は思いがけない申し出に不審がりながらも、玉の輿に乗り、宮殿へ行きました。
……盧生が皇帝になって栄華をほしいままにし、五十年が過ぎました。宮殿では、在位五十年の祝宴が催されます。……盧生が面白く楽しんでいると、……一切が消え失せます。気づけば宿の女主人が、粟ご飯が炊けたと起こしに来ていて、盧生は目覚めます。皇帝在位五十年は夢の中の出来事だったのです。
……五十年の栄華も一睡の夢であり、粟ご飯が炊ける間の一炊の夢でした。盧生はそこでこの世はすべて夢のようにはかないものだという悟りを得ます。そしてこの邯鄲の枕こそ、自分の求めていた人生の師であったと感謝して、望みをかなえて帰途につくのでした。【……は省略箇所を示す。また原文とは異なる行換えをしている】
映画のなかでは黒木華が、簡略化したかたちで「邯鄲」の内容について説明している。この能「邯鄲」は、主人公の運命のメタファーになっているのだが、映画を観ていると、途中までそのことに気づかない。というか気づかないからこそ、物語の展開が意外性にとみ、スクリーンから目が離せなくなる。
50年も経てから、実はそれは一瞬の夢幻であったと、いまとここに引き戻される。この下でも上でもなく水平方向のバンジージャンプ効果は、文学や文化的領域において、けっこう前例あるいは実例がある。
フロイトは「善悪の彼岸」のなかで、孫による糸巻きを使って遊びについて報告している。幼児は、糸巻きを放り投げて眼前から消してしまうが、握っていた糸をたぐり寄せて糸巻の本体を出現させて喜んでいた。しかもそれを何度も繰り返す。
フロイトの解釈では、幼児にとってその糸巻きは母親の代用である。母親は幼児の前から姿を消し幼児は不安になるが、母親は幼児のもとに必ず戻ってくる。母親不在の不安を紛らわすために幼児は糸巻きを放り投げたぐり寄せるという遊びをする。幼児はこうして、無力な存在から糸巻き=母親の消失と出現を司る場面の支配者となる。
しかし幼児が、糸巻きを母親に喩え、糸巻き=母親をたぐり寄せるというのは、無力な幼児のファンタジーとしては無理があるのではないか。むしろ糸巻きは幼児のことである。幼児は糸巻きのように親から放り出されるかもしれないが、親はかならずたぐり寄せてくれるというファンタジーではないかという解釈もある。
そしてこのファンタジーには幼児が想像することのできない別の面もある。いくら親から距離を置き、離れていこうとしても、逃れることはできず、最後に連れ戻されるかもしれないという不安あるいは運命への予感が。
そしてこのことはフロイト自身の精神分析学とも関係する。精神分析にとって、子どもは親の親である(ワーズワスの名言みたいな話だが)。私たちはいくら年齢を経ても幼児時の体験の影響下にあり、そこから逃れられない運命にあるというのが精神分析の基本概念である。幼児こそが人間の基盤にあり、幼児の遊戯からの議論こそ、精神分析における議論の基本型でもあった。成熟しても、老年になっても、幼児期に引き戻される人間。
ただどんなに離れてもあるいは変化しても成長しても引き戻されるという水平方向のバンジー効果は、なんといっても、その突然さ、不意打ちによって印象づけられる。不意打ちなければ、バンジー効果はない。
アンブローズ・ビアスの「アウルクリーク橋での出来事」【訳題は数種あり】は、古典的な例といえるだろう。アウルクリーク橋で絞首刑になる南軍将校が、ロープが切れて川に落下、追跡を必死に逃れて自分の家にたどり着いたと思ったその瞬間、首の縄が絞まり絶命するという結末。絞首刑の失敗と必死の長い逃避行は首が絞まる瞬間に垣間見た幻想にすぎなかった。これは、長い時間が一瞬の夢であるという邯鄲の世界観ともいえるが、どんなに離れても唐突に引き戻されるという、これも邯鄲の世界観のいまひとつのかたちともいえる。落下したと思ったら引き戻されるという、まさにバンジージャンプ効果。
類似の例は、たとえばいまでもカルト的人気をほこる連続テレビドラマ『プリズナーNo.6』をあげることができる。主人公は毎回、監視の裏をかき避暑地の遊園地のような牢獄から逃れようとするが脱獄成功と思ったやさき発見され引き戻される。あるいは囚われの身からの脱却ならば、いまも人気がありすぎるループ反復物のドラマを例にあげることができる。たとえば同じ一日を繰り返すという境遇に陥った主人公は、どのような努力や冒険を試みても、同じ一日の朝に目覚めるしかないのである。
しかし『ヴィレッジ』の情況に近いのは、カザンザキスの『最後の誘惑』であろう。
マーティン・スコセッシによって映画化もされたこの小説では、十字架にかけられたイエスは不思議な力で十字架から解放されマグダラのマリアを結婚し、子どもや孫ももうけて、その寿命を全うせんとしている。そこに、かつての弟子たちが訪れる。映画版を思い出していただきたい。やってきたユダ(ハーヴェイ・カイテルが演じていた)はイエスに向かって、この裏切り者がと罵るのである。
本来ならイエスは十字架で息絶え、三日後に復活して救世主となるはずだった。救世主になると信じて、ユダは裏切り者の汚名をきたのに、のうのうと生きながらえ幸せな余生を送りいま臨終の時を迎えるとは、なんというていたらくだ。イエスよ、おまえは私たち全員の期待を裏切ったのだ、と。イエスは最後の力を振り絞って、家の外にでる。屋敷の外ではローマ軍によってユダヤ人が虐殺される惨劇がくりひろげられている。こんなはずではなかった。自分は何という過ちを犯していたのだと絶望するイエスは、次の瞬間、自分が十字架にかけられていることを知る。すべては悪魔がみせた幻だったのだ。自分はまだ十字架にいる。事は成就した。イエスは満足して死ぬのである。
『ヴィレッジ』における片山優/横浜流星の運命もこれであろう。犯罪者の子として蔑まれいじめられ借金を重ねる母親との二人で、夢も希望もないその日ぐらしを余儀なくされている片山/横浜流星は、中井美咲/黒木華の尽力もあってゴミ処理場の広報係となり、テレビにも出演するようになる。そして順風満帆の未来が開けたと思われた矢先、ゴミ処理場への不法投棄が発覚、彼自身の過去における加担も暴かれそうになる。「邯鄲」の世界さながら、未来への栄光が約束された境遇の変化は、一瞬の夢、幻にすぎなかった。
と同時にゴミ処理場の社長で、村を牛耳っている村長大橋修作/古田新太から、片山は、父親が謀殺されたことを知り、大橋/古田新太を殺し、その屋敷に火を放つ。それはゴミ処理場に反対した父の遺志を継ぐことなく、ゴミ処理場で働くことになった自己を、その偽りの境遇から解放し、父の遺志を継ぎ、父を殺した大橋/古田新太への復讐することにもなった。映画最後の片山優/横浜流星の、すがすがしい笑顔は、自身が復讐を遂げたことに対する、満足感の表明であろう。
と同時に、長い回り道を経て、本来の使命に目覚めたのは、『最後の誘惑』のイエス・キリストのようによかったとはいえ、その使命が復讐であるため、ハムレットがそうであったように、復讐者には、地獄落ちの運命が待っている。映画の最後は、片山優/横浜流星の憑きものがとれたような笑顔と、刑事・大橋光吉/中村獅童による逮捕を予感させるものとなっている。
因習と閉鎖性に束縛された村社会から逃避にしようとしても、また罪深い過去の暗黒から脱却し未来を志向しようとも、村と過去と闇にひきもどされる。まさに運命悲劇。
主人公は、結局、みずからの犠牲によって村社会を変えることができたのか。ひとつには村を支配していた大橋一族を抹消できたことで、彼は正義の鉄槌を下した革命の闘士である。と同時に、ゴミ処理場に産業廃棄物を不法投棄したり死体を埋めたりする闇の営みと同じことを、主人公がしたといえなくもない――実際、過去に不法投棄を強制的に手伝わされた主人公は、新たな殺人と放火によって重罪犯となる。アリストテレスの言葉を使えば、この映画で、復讐を遂げた主人公に対して、私たちはカタルシスを感ずるのだが、その行為に対しては、同情しつつまた恐れるしかない。憐憫と恐怖。古典的な感慨だが、この映画にはぴったりくる。
