2023年03月02日

『ボーンズ・アンド・オール』

『ボーンズ アンド オール』(原題: Bones and All)は、2022年製作のアメリカ合衆国・イタリア合作の恋愛ホラー映画。『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督がティモシー・シャラメと再び組むことになった映画で、ティモシーのファンなら、これはみないほうがおかしい。

昭和歌謡に『骨まで愛して』という曲があったが、この映画は、骨まで全部食べて欲しいという死にゆくリー/ティモシー・シャラメの願いをタイトルにしている。

というので、初日に映画館へ。

人肉を食べる衝動を抑えられない特殊な性向の持ち主たちの物語という、衝撃的な内容なのだが、彼らは予想したより異常な人間ではない。この映画のティモシー・シャラメは、ぶっとんだ若者という印象を最初に受けるが、その印象は映画のなかでは徐々に修正され緩和される。後半で彼はふつうの青年である。

いっぽうテイラー・ラッセルは人肉を食べるということで異様な女の子だが、『エスケープ・ルーム』(2019続編は21)とか『ロスト・イン・スペース』(18-21)などに登場していた彼女にはスターのオーラがあったのだが、この映画では、オーラが消えている。もしこの映画で初めて彼女に接する観客がいたら、なぜ、このように平凡な彼女が相変わらず美しいティモシー・シャラメとからむのか不思議に思うかもしれない。

しかし、これは映画の欠陥ではなくむしろ特性であろう。『君の名前で僕を呼んで』のルカ・グァダニーノ監督は、題材をセンセーショナルにみせることよりも、この映画のように、たとえセンセーショナルな題材でも、それを平凡な日常性のなかに取り込むことで、対照性を掘り下げる、あるいは同じもののセンセーショナルな、もしくは対照的な裏面をこしらえることに優れているのではないか。

たとえばティモシー・シャラメが故郷の実家に帰ったものの、近くに湖の岸辺でテント生活するようになったと言われ、テイラー・ラッセルが会いにいく場面がある。予想されるのはティモシー・シャラメが大自然に抱かれ隠者のようにテント暮らしをしているさまだが、実際に行ってみると、湖畔の彼のテントのまわりにも無数のテントがあり、その一帯は完全に俗化していて観光地のようにみえる。すぐ脇には駐車場もある。観光バスなんかも来ていたかもしれない。あるいはトレーラーパークのようなところかもしれず、多くのテントはホームレスの人びとの住処なのかもしれないが、いずれにせよ静かな隠遁生活とは全く無縁の環境だったが、そうした環境とは対照的に孤独な青年が周囲に紛れて暮らしているのである。

あるいは最後のほうの惨劇の場面。それが起こっている建物の外壁が、惨劇の途中、何度も映し出される。落ち着いた住宅街のレンガの壁の邸宅は、そのなかで血まみれの惨劇が起こっているとは予想だにできない静謐さをたたえている。実際、邸宅を外から映し出すシーンには音はない。静謐な日常と阿鼻叫喚の惨劇。しかしこのふたつは対照的でありながら、同時に一体化して、両者が絨毯模様の裏表を形成しているのである。

おそらく人肉食も、愛のセンセーショナルな裏面であろう。冒頭の場面。学校で孤立しているテイラー・ラッセルにやさしく声をかけて、ホームパーティに誘ってくれたクラス・メイトの指を、テイラー・ラッセルは思わず食べてしまう(指の肉をしゃぶって、ほぼ骨だけにしてしまう)。

これは彼女が、親切なクラス・メイトを憎んでいるわけでもなく、また食いしん坊でこらえ性のない彼女が思わず親友の指を食べてしまったということではく、ただ好きだから思わず食べてしまったということだろう。

この映画のなかでマーク・ライランス(テレビドラマ『ウルフ・ホール』のトマス・クロムウェルを演じた彼は私に強烈な印象を残しているのだが)は、人肉食ピープルのなかで唯一、不気味なサイコパス性を顕在化していて高い評価を得ているのだが、その彼も、テイラー・ラッセルを見出し、彼女を人肉食へと誘い、高齢の女性の死体をいっしょに食べるのだが、彼は、その死んだ女性をたまたまみつけただけではいだろう。おそらく彼は、その高齢の女性を愛していた。そして彼女の死によって彼女を食べることで、その愛を全うしたととれないことはない。

ティモシー・シャラメが食べる相手は男性なのだが、どれも同性愛で結ばれたか結ばれる男性を食べている。そして仲良しのクラス・メイトの指を食べたテイラー・ラッセル。人肉食と愛は、対立し相容れないものではなく、同じものなのだ。だから致命傷を負って死に行くティモシー・シャラメは、テイラー・ラッセルに骨まで食べてくれと頼むのである。

愛を同一化の欲望と所有の欲望で説明することがある。これは同性愛と異性愛の説明法でもある。たとえば男性である私が、同性と同一化したいと思う時は、私は異性愛者である。私は同性と一体化し異性を所有しようとしている。これが異性愛者の定義。

もし男性としての私が、異性に一体化し、同性を所有しようとしていたら、私は同性愛者である(ただ、この同性愛者は「オカマ」ということになるが、その他の同性愛者についてうまく説明できない)。

しかし所有と同一化を峻別して愛について説明することには解せないところもある。私が男性として男性と一体化したというときには、男性のありかたを模倣し演技するということになる(ジェンダーのパフォーマンス性)。しかし模倣という根源的な距離を前提とする行為ではなく、無媒介的な心身共の一体化の欲望もあるのではないか。愛する人を所有するというのは、愛のありようのすべてではないだろう。愛する人に所有されたい、あるいは愛する人と一体化したいという欲望、所有と一体化の同時共存こそ愛の極致ではないか。そのためにも所有を、相手を隷属化。所有と一体化が融合することで、愛の極北を実現できる。これは相手を文字通り食べることだ。それによって愛を全うできる。

となると静謐な日常の裏面あるいはメタファーが血の惨劇であったのと同じように、愛と人肉食は表裏一体化し、愛のメタファーが人肉食になっているとみることはできる。

愛は戦争であったり、愛は戦いであったり、愛は狂気であったりと、さまざまなメタファーがこれまで生まれてきた。映画は、愛が人肉食であることをその全体で示している。

新しいメタファーが加わった。いや人類学的にみて、愛する者を食べるというのは古代からある習慣であって、メタファーとしては由緒正しいいにしえのものかもしれないが。
posted by ohashi at 22:59| 映画 | 更新情報をチェックする