昨年見た映画だが、ここで振り返る。
3D映画は、一時期、盛んに製作され、映画館に行くたびに新たに3D映画用のメガネをに購入しなくていいように、自分でも一つ購入したのだが、いまでは、それがどこにあるのか、捨てたのかどうかもわからない状態が象徴しているように、3D映画そのものが人気が薄れ需要がなくなって今に至るのだが、キャメロン監督の『アバター』の続編は、3D映画の驚異を今一度思い起こさせる、高度に進化した映像処理によって、私たちに再び3D映画用メガネを購入させることになった。
3D映画は、観客席への突出観を実現するために無理な演出というか映像処理をして、かえってうっとうしがられたり、逆に、普通に撮られた映像を、無理矢理3D化しただけの、驚異的な立体感を得られない映像の映画を作ったりと、3D映画が嫌われる要因は多々あった。実際、3D映画なのに、2D映画版で見たことは何度もある(そのほうが料金が安く、うっとうしい3Dメガネともおさらばでき、しかも、映画そのものをじっくり楽しむことができるという、いいことづくめでもあった)。
そんななか、これまでにない3D映像で私たちを唖然とさせたのがゴダールの『さらば、愛の言葉よ』で、物語は、あるのかないのかよくわからなかったが、映像のほうは、これまで見たこともない、ある意味、前衛アート性を誇っていて、見る者を圧倒した。
繰り返すが映画の中に統一的な物語はなく、断片的な物語の寄せ集め、まあ一種のコラージュのようなもので、謎めいているところが妙に惹かれるところでもあった。たとえば、英文学研究者なら気づくのだが、そこにはメアリー・シェリーと夫のシェリー、そしてバイロンが登場し、例の有名な怪談話につながる物語が垣間見える。しかし、その物語はまた未完成のまま、その断片が取り込まれたにすぎないという印象を受ける。あるいは犬。時々犬が、まさに狂言回し的に登場して、妙に印象的だったりする(実際、映画は、「パルム・ドール賞」ならぬ、「パルム・ドッグ賞」を受賞しているのだが)。
物語のコラージュは、映像のコラージュとも響き合っていて、3D映像によって、これまで見たこともない映画空間が形成される。凡百の3D映画は、現実の事物の存在感を映画のなんかで再現する、イリュージョン性を追求しているのだが、ゴダールのこの映画は観客を映画が提供する3Dの世界に没入させるのではなくて、現実にはない映画ならではの異様な、あるいは驚異的な空間を出現させるようにしている。
これは伝統的な遠近法を最大限駆使して立体感を出そうとする前近代的絵画とは異なり、現実のイリュージョンではなく、絵画そのものから発生する立体感を出そうとした近代絵画を思わせる。通常の3D映画は、映画のイリュージョンを現実とみまごう立体映像で補完あるいは強化しようとするとすれば、ゴダールの映画は逆に映画のイリュージョンのまやかしを徹底的に追求して、ありえないというか、映画でしか作り出せない世界を構築する。まさに現実の模倣ではなくて、現実(映画的現実)そのものになろうとして。
しかしゴダールの前衛的な3D映画と通常の3D映画は対極にあるのではない。たとえばフランスの印象派以降の近代絵画に刺激を与えた日本の浮世絵、とりわけその風景画は、遠近法を西洋にはないほど極端に使用したことで衝撃を与えたのであって、遠近法を使いつつ遠近法を異化するということで近代絵画に脱遠近法の可能性を提示したとすれば、おそらくキャメロン監督の『アバター――ウェイ・オブ・ウォーター』のような極限的な3Dイリュージョン映画は、浮世絵がそうであったように、脱イリュージョン的ゴダール的な3D映画への道すじに乗っているということもできよう。
ゴダール的3D映画を、天才の一代限りの作品として終わらせるのではなく、後継者の作品を絶対にみてみたいと思うのだが、その思いは、3D映画の衝撃と魅力を復活させたキャメロン監督のこの映画によって、夢物語ではなくなりつつあるのだ。
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『アバター――ウェイ・オブ・ウォーター』の物語は、前作の『アバター』とその後を語るものとはいえ、前作と同じパターンを踏襲している。もちろんそれゆえ安心してみれるし、同時に斬新感はないのだが、驚異的3D映像が私たちに退屈になる暇を与えないとしても。
3時間を超える映画が終わるとき、主人公は、これからは逃げるのではなく戦うのだという決意を表明する。これによって、この作品には続編があるとわかるのだが、前作でも、今作でも、実は、充分に戦ってきた。まだ、あるいは、このうえさらに戦うのかと驚くことになるのだが、ただ今回の戦いは、前作とは設定は同じでも様相を異にしている。
アメリカの大衆文化における海兵隊擁護あるいは海兵隊員のヒーロー崇拝には、うんざりするのだが、キャメロン監督は、帝国主義の先兵たる海兵隊をはっきり批判する,ある意味、稀有な監督でもある。実際、海兵隊を悪く描く前作は、アメリカの右翼から批判された。今回も設定は同じであるので、海兵隊が悪役となっている。しかし前作とちがって、世界情勢が変化している。つまり惑星パンドラを侵略し橋頭堡を築き、そこから惑星の征服のために原住民や自然環境を破壊する、悪辣な資源開発企業RDA社の先兵となる海兵隊は、アメリカの海兵隊というよりも、ウクライナに侵攻しているロシア軍にしかみえない。
この海兵隊=ロシア軍とその軍事テクノロジーが、原住民の抵抗によって破壊され、敗退を余儀なくされるとき、私たちは、ロシア軍に勝利するウクライナ軍の夢をみているとしかいいようがない。今回は、海兵隊がロシア軍によって消えた感がある。
パンドラの原住民、とりわけ海の部族が心を通わせるトゥルクンが地球でいうクジラと同類であることは誰にでもわかるが、その巨大で、人間よりも知能が高いトゥルクンを、1リットルにも満たない脳髄物質(不老不死の効果があるらしい)のために殺すという所業は、かつて街灯の油を得るために巨大なクジラを殺していた米国の捕鯨への批判であろう――食用にもしなかったのである。だが、そのことを知るアメリカ人は多くないだろう。むしろ、アメリカ人は、いまも捕鯨を国民的伝統として守ろうとする世界に冠たる劣等民族である日本人の所業への批判とみるだろうが。
キャメロン監督の信条は、「女性が世界を救う」であった。『エイリアンズ』とか『タイタニック』を見ればわかる。
そして『アバター』においてキャメロン監督は、動物との交流と共存なくして人間は存続できないというヴィジョンを提出しているように思われる。フェミニズムから動物へといいうのは、米国におけるリベラリズムのメインの路線である。右翼にとってみれば、反米的な要素が満載の映画である。しかし、その映画はスペクタクル巨編として観客の目を奪う。きわめてラディカルなテーマが、ラディカルに印象深い映像によって供される。テーマそのものには批判的な観客も、映像の強度には沈黙するほかはない。
こう考えるのなら、3D映像は、内容には反対の立場の人々を沈黙させるか説得するための手段ということになろう。言い方を変えれば、ある種のおめこぼしをねらう、賄賂のようなものである。これは芸術における手段と目的の問題を再考する契機ともなるだろう。芸術は手段が目的化したものと言われる。言葉によって何かを伝えるコミュニケーション行為において、手段である言葉を磨き、その可能性を広げるのが文学だとすれば、文学は手段を目的化するものである。しかし、芸術が当初の目的を無視して手段そのものを目的化するとはいえ、しかし、当初の目的そのものが失われたわけではないだろう。形式とか媒体のすばらしさを強調することによって、メッセージを伝えることを容易にするという方法論も存在するからである。