Bunkamuraシアターコクーン 翻訳 松岡和子、演出 吉田鋼太郎、ジョン王:吉原光夫、フランス王:吉田鋼太郎、私生児:小栗旬ほか。
2022年12月29日に。
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私にとっては久々のシアターコクーンだったが(つまりコロナ禍で観劇を控えていたのだから――老人で基礎疾患がある身にとっては、たとえ5回のワクチン接種と今年1回のインフルエンザ接種でも、感染は怖いので)、シアターコクーンといえば、舞台奥のドアが開かれると、建物の搬入口と歩道がみえるという独特の構造を持っている。もちろん、そんなドアはめったに開くことはないのだが、開幕前にドアが開いてしまった。そして遠くの歩道と、停車したトラックからの搬入作業が丸見えになった。
通常の公演で、そのドアが開くことはない――開ける必然性もないのだから。ただ一度か二度、何の公演だか忘れてしまったが(蜷川演出だったと思う)、開いたの見たことがある。そのドアが今回、開け放たれた。
そして開演直前になって、遠くの歩道からパーカーとジーンズ姿の一人の青年が近づいてきて、搬入作業中のトラックを横を通り、開口された舞台奥から舞台の中に入ってくる。開演直前の舞台には上から死体に模せられた人形が落ちてくる。入ってきた青年は珍しそうにその死体=人形や舞台装置を携帯で撮影する。芝居が始まったのである。外からやってきたその青年は小栗旬。いったん舞台から消えるがすぐに私生児フィリップとなって登場する。
この仕掛けというか掴みは面白いし、刺激的である。私生児フィリップという存在は、『ジョン王』の特質を決定づける興味深い存在だが、演出では、外部から到来する第三者的目線の持ち主として立ち上げる。それがまた作品全体を上演する根拠となる枠取りの機能も果たすことになる。
【埼玉会館大ホール、名古屋の御園座、梅田芸術劇場ドラマシティーでも、同じように舞台奥の扉が開くのだろうか、あるいは別の演出法が選ばれるのだろうか?】
となると、この枠取りは最後まで機能するのかどうか、それは劇場で確かめてもらいたい。今回、私は、知人といっしょに見に行ったのだが、「カーテンコールがやはり残念でしたね。……小栗旬は結局素に戻ることなく、あの姿のまま観客に印象付けられて、かっこよすぎ」というコメントをあとからメールでもらったので紹介だけしておく。
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『ジョン王』の上演に際して、ジョン王を演ずる予定だった横田栄司の降板があって、吉原光夫と交代したわけだが、小栗旬の私生児フィリップと吉原光夫のジョン王とのやりとりをみていると、もしこれが小栗旬と横田栄司だったら、やはりNHK大河ドラマの余韻が強く残っている時期なので、どうみても北条義時と和田義盛との対話となっていてシェイクスピアの芝居そのものに入り込めなかったのではないか。実際、大河のあとの第二ラウンドを見に来た観客も多かったであろうから――北条義時に殺された和田義盛だったが、この舞台では立場が逆となって横田ジョン王が、フィリップの生殺与奪権を握ることになるのだから、あるいは今回もまた北条=フィリップ=小栗旬が横田ジョン王を翻弄するのだろうかなど、いろいろな思いが観客の頭のなかをよぎるに違いないのだ。
まさか横田本人が、こうしたことを見越して自分から降板を申し出たとか、外部から圧力がかかって交替を余儀なくされたというようなことはないとは思うのだが、しかし、結果的に吉原光男=ジョン王でよかったのではないかという思いにとらわれた。吉原光夫は、声も容姿も良いので、これからさらにもっと注目され活躍すると思ったのは、私だけではないだろう。
【ミュージカル俳優は、歌がすべてで、容姿は二の次というのは、『トゥモロー・モーニング』(2022年12月30日の記事参照)がいまだに依拠している古き伝統で、むきむきタトゥー男で貧相な容姿の男が、歌がうまいだけでスター扱いされるというのは、完全に時代遅れになっているしきたりにすぎない。】
とはいえジョン王のキャラクターについては、前半は、りりしく勇猛果敢な強い王で、ローマ教皇に破門されても意に介さないたくましさを誇示し、それにふさわしい客観的相関物として吉原光夫の高貴で威厳のある国王像が機能していたのだが、後半になるとジョン王像がぶれはじめ、前半とは異なる、妥協的でご都合主義的な、シェイクスピアが得意な弱い王(ウィーク・キング)になってしまう。ジョン王は前半と後半で別人となる。前半では教皇に破門されても平気であったのに、後半では教皇と和解する。アーサーをひそかに殺そうとする。そのどれもに失敗して病に倒れるか毒殺される。すでに母親エリナー妃は死に、有力貴族からは離反され、アーサーの死が殺人か自殺かうやむやになって、後半はカオスの度合いが強くなる。
ジョン王の後半における変貌を念頭に置くとなると、ぶれまくり、保身に走る、ご都合主義的国王像には、横田栄司のほうがふさわしかったといえるかもしれない(後半の吉原光夫の演技だだめだったということでは決してない)。
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ただ前半と後半にジョン王の性格が異なることはあるが、それは共作ゆえにとか、作者の若書きゆえにということではなく、最初から意図されたブレなのだろうと思う。要は、シェイクスピアはジョン王の時代の年代記を、その絶頂期から没落期までを圧縮して舞台化しようとしたまでであって、当時わかる範囲で、史実を舞台に再現しようとしたまでであろう。
だが、かつて、こういう時代があったことを、舞台における再現を通して知ってほしいと願っただけではないだろう。そのような無償の知は、当時、この劇の上演に関係した者たちは夢にも思わなかったにちがいない。
それというのも、法王庁との闘い、国内の教会財産の没収など、ジョン王のしたことは、なんとなくヘンリー八世の所業とよく似ている。もっと正確にいえば、ジョン王の生涯と功績は、ヘンリー八世のプロトタイプになっているということだ。これは私の単なる思い付きではない。当時、ジョン王とヘンリー八世は類似性によってつながれていた。当時のプロテスタントの文人、ジョン・ベイルは『ジョン王King Johan』という芝居を書いて、ジョン王を顕彰した――ローマ教皇と対立するプロト・プロテスタントの英雄として。
【ベイルの『ジョン王』は、トマス・クランマーの館で上演されたようで、その手書きの台本が残っている。ちなみにトマス・クランマーとは誰だと思われるかもしれないが、2022年に『ヘンリー八世』の舞台をご覧になっていれば、後半、王の寵愛をうけるプロテスタント派の高位聖職者であるとわかるはず。この松岡和子翻訳/吉田鋼太郎演出の『ヘンリー八世』でクランマーを演じたのは、金子大地――源頼家の。大河の影がここにも。】
したがって、この作品でシェイクスピアが提示しているジョン王が君主だった戦乱の時代は、ヘンリー八世からエリザベス女王へとつづくチューダー朝の宗教戦争と内乱の危機の時代とアナロジーによって結ばれているのである。ジョン王の時代は、同時代でもあったのだ。
このことはまた今回の演出にもあてはまる。そもそも現代の日本において『ジョン王』の世界は、無関係なものである。またもし『ジョン王』が頻繁に上演される有名な作品だとすれば、たとえ内容に現代日本との関連性はなくとも、英米圏における人気作品を通して、その文化的社会的状況を把握することは有意義であろう。しかし、『ジョン王』はめったいに上演されることのない作品で、私もこれまで『ジョン王』を舞台であるいは映像でも観たことがなかったし、また今後、死ぬまで『ジョン王』を観ることはないだろう――これが最初で最後の舞台で観る『ジョン王』である。
そのため、この『ジョン王』が現代の私たちの「いま」と「ここ」とに、どのよううな関係があるのかといえば、私利私欲に動かされるあさましい格差社会のありようがまさにそれであり、さらにいえば戦争によって多くの命が奪われている、あるいは奪われそうになる時代という点であろう。多くの人間が戦争で死んでいるというのに、あるいはコロナ禍で死者が増えているというのに、目の前に死体がころがっているのに、私たちは、それが見えてない、あるいは見て見ぬふりをしているのだ。『ジョン王』の世界は、21世紀のグローバル・ノースの日常でもあるといっても過言ではない。
シェイクスピアの時代に、ジョン王の時代の現実が、ヘンリー八世からはじめる宗教改革の時代の現実と重なる。ジョン王の時代がヘンリー八世の時代のプロトタイプであること。ポスト・ヘンリー八世時代のいまのなかにジョン王時代が透けて見える……。ジョン王の時代は、ヘンリー八世時代の対位法的カウンターパートだともいえる。しいて言えば、ジョン王の時代は、ポスト・ヘンリー八世時代がなり得たかもしれない地獄の変奏でもあろう。
そしてこうした二重性は、シェイクスピアの『ジョン王』のなかに、現代の日本あるいは世界の情勢との関連性を見出す演出の冴えというか洞察の深さともつながっている。ジョン王とヘンリー八世は、シェイクスピア時代の感覚では似ていたし、シェイクスピアは類似性の発掘と照射に力をいれているように思われる。
史実のジョン王とヘンリー八世は似ているところがある。シェイクスピアの『ヘンリー八世』と『ジョン王』は、残念ながら演劇作品としては全く似ていないのだが、それでも『ジョン王』と『ヘンリー八世』、この二つの作品を、松岡和子訳/吉田鋼太郎演出によるすぐれた舞台でみることができたのは、2022年の貴重な体験として特記すべきことがらだといえる【コロナ禍で途中で上演が中止になった『ヘンリー八世』は、今年、彩の国さいたま芸術劇場で再演され、『ジョン王』は、彩の国シェイクスピアシリーズの最後を飾る作品だったのだが、コロナ禍で最初から上演中止となった。ようやく2022年12月26日から上演にこぎつけたことに対しては感慨深いものがある】。
『ジョン王』の背後にはポスト・ヘンリー八世時代がある。『ジョン王』上演の背後に、いま起きている戦争の惨禍がある。
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小栗旬演ずるところの私生児フィリップは、『ジョン王』の世界においては、第三者の目あるいは他者の目として超越的な視座を確保している。王侯貴族の戦争と外交的駆け引きを私利私欲に突き動かされた愚行であると見抜いているのだから。
と同時にシェイクスピア劇の中の批判者は誰も超越的な地位を確保できない運命にある。たとえば『お気に召すまま』では結婚や男女の恋愛に批判的な道化のタッチストンは、結局、最後には結婚する。いっぽう厭世的でシニカルなジェイクィーズは最後には仲間たちから離れ隠遁生活を送ることを選ぶのだが、それによって彼の超越的視線は消滅する。批判する対象から離れてしまうからである。いずれにせよ、シェイクスピア劇で安全堅固で侵入されることのない超越的な場とか姿勢は許されることはない。
事実、私生児フィリップも最初のうちは英仏両国の戦争、意地の張り合い、私利私欲の交錯などに鋭い評言を与え続け、その歯に衣着せぬ直言に感嘆の念すら覚えたのだが、後半になるとその鋭い舌鋒にも陰りがみられはじめ、さらに軍事組織の要職に就くようになると思うように戦果をあげることができなくなる。
そういえば私生児フィリップは、両国の戦略や策略を私利私欲に動かされた狂気の沙汰と批判するセリフのなかで、自分が批判していられるのも、私利私欲の世界に、まだはまっていないからであり、もし、この世界にとりこまれてしまったら、自分だってどうなるかわからないと、超越的視座にある賢者的人物にふさわしからぬ述懐をする。結局、私生児フィリップも、この世界のインサイダーとなるにおよんで超越性を失うことになる――シェイクスピア的人物の常として。
『ジョン王』の最後を締めくくるのは、この私生児フィリップのセリフなのだが(このことは、作品における彼の重要性の証左ともいえることだ)、それは彼の敗北宣言であり、またこの敗北、この失意を通して、国策や戦略において賢明であることを説く内省的弁明でもあって、超越性は失われている。
もちろんそれでいいのだが、ただ、そうなると作品が内側に閉じてしまい、その作品から外に出る人物が誰もいなくなる。つまり外に出る人物--まさに舞台で観客に語りかけるような人物が典型なのだが--が、作中世界と観客の世界をつなぐ働きをするはずが、そうした人物による繋ぎがなくなってしまうのである。作品は自己完結して、現代性、同時代性はなくなる。『ジョン王』は、ひとつの歴史的骨董品として終わるしかない。それもあまり人気がないがゆえに値がつきにくい、むしろ安い骨董品として終わるしかない。
ネタバレ注意/ Warning: Spoiler
今回の上演というか演出では、私生児フィリップは内在性と外在的超越性の二重性を帯びる人物となっている。シアターコクーンの舞台奥から外(建物の搬入口と歩道)へと通ずる開口部からふらっと入ってきた現代日本の青年が、『ジョン王』の舞台、その演劇的世界に取り込まれ、私利私欲渦巻くその世界にどっぷりつかるしかなくなった瞬間、戦争という現実が彼を舞台から超出させる/解放することになる。
カーテンコールのなか、私生児フィリップだけは、素に戻ることはないまま演技をつづけている――つまりその場で身じろぎもせず固まっているのである。彼は、シアターコクーンにおける俳優でもなければ観客でもなくなってしまう。私たちの世界そのものから超越した存在となっている。私たちは小栗旬に拍手を送りたいのだが、肝心な小栗旬は私生児フィリップのままなで、素にもどってくれない。そしてカーテンコールが終わり、演者たちが舞台から完全に消えたとき、おもむろに私生児フィリップは、現代日本の青年に戻り、開け放たれた舞台奥の入口/出口から、外の歩道へと消えていくのである。
これは小栗旬に拍手を送れない設定なので、演出上の工夫としては失敗しているとみなす向きもいよう。しかし、舞台の奥の開け放たれた開口部からやってきて、またそこから帰っていくという演出は、衝撃的で、なおかつ問いかけることの多い優れた演出ではないかと圧倒された。
『ジョン王』の舞台では、劇中人物たちは、外から紛れ込んだ日本人の青年が扮する私生児フィリップを同じ世界の一員として扱っていたのだが、最後のカーテンコール、劇中人物が素の役者にもどっても、ひとり素にもどることのないこの人物は、もはやシアターコクーンンが存在している世界の一員ではないと私たちは了解すべきなのだろう。仲間にみえて、実はエイリアンだったという設定は、『ジョン王』の外にも波及している。
この日本人の青年、最後に舞台奥の開口部からみえる現実の歩道へと去っていくこの日本人青年は、私生児フィリップでもなければ小栗旬でもなく、現代日本の青年でもないように思われる。私には、彼が、未来から到来した使者のように思えてならない。あるいはベンヤミンのいう「歴史の天使」かもしれない。
彼は私たちのほうに顔を向けながら、彼方へと、あるいは未来へと飛び去って行く。この死体がころがっていても平然と生きている私たちの日常に対して、何かを語り掛けよとする表情をみせながら、あるいは、あきれかえって物が言えないとでもいいたげな顔をしながら、この歴史の天使は、未来へと消えていくのである。
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ジョン王とヘンリー五世が交錯している。いや交錯はそれだけではない。劇中世界でいえばイングランドとフランスが領土的・政治的に交錯する。過去と現在が、現在と未来が交錯する。和と西洋とが混じる和洋折衷の舞台。あるいはオール・メールの配役だからこそ、男性と女性との交錯がみえてくる。西洋風と和風との和洋折衷も、そうした交錯のひとつ。その他、交錯は数え上げたらきりがないのだが、セリフと歌との交錯――ミュージカルにまではなっていないのだが。歌は反戦フォークソング。ただし昭和の反戦フォークソングは、歌詞を聞いていても、それが反戦歌だとはわかりにくい叙情性とか叡智あふれるメッセージ性が顕著で、予想されるようなプロパガンダ性はないことは付け加えておかねばならない。そしてこうしたフォークソングの使用は、昭和と冷和【「冷和」は意図的に使用】の交錯を生むことにもなる。そしてそれは蜷川演出へのオマージュとともに(上から何かが落ちてくるというのも蜷川演出へのオマージュなのだが)、蜷川演出と吉田演出の交錯を生む。そして舞台奥の扉を開けることで、現実の空間と舞台の虚構空間が交錯する。
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劇場から出るときに、私の近くに小さな男の子がいて、母親(と思われる)に「よくわからなかったけれども、おもしろかったよ」と話していた。おそらくこの感想は、多くの大人の観客の感想と同じだろうと思われたのだが、ただし、そもそもなぜ小さな子どもが劇場にいたのか。よりにもよってシェイクスピア劇に。まあ低年齢層にも観劇のチャンスをあたえるという劇場側の取り組みの一環なのかもしれない。あるいは『ジョン王』に出演している子役の男の子の関係者(家族、親戚、友人、出身劇団のメンバー)かもしれないのだが、気づくと子供がいるというのは、今回の『ジョン王』の特徴でもある。
シェイクスピアの全作品中でセリフのある人物は、約1000人。途方もない数と思われるかもしれないが、そんなに驚く数ではない。仮にシェイクスピアの全作品を35とする(計算というか概算しやすいようにこう決める)。シェイクスピアの一作品の登場人物の平均数は20~30(『ジョン王』ではセリフのある人物は25人くらいいる)。ときには40~50くらいのこともある。そこで、20人×35で、700人。30人×35で1050人。まあ1000人というのは概数だが妥当な数だとわかるはず。
このなかで子供は、5,6人。少なすぎる。まあシェイクスピア劇は子供とは無縁の世界の出来事を提示しているといえようか。
登場する子供たちは、みんなかわいげがなくて、小生意気で、そして死ぬ。『リチャード三世』には、エドワード四世の子供で、リチャードの手下に殺される兄弟が登場する。『マクベス』ではマクダフの子供がマクベスの手下によって殺される――小生意気な子供だが、母親を守って死ぬ――とはいえ母親も殺されるのだが。あるいは『冬物語』におけるマミリアス。父親と母親との不和に対して悲嘆のあまり死んでしまう。そして今回の『ジョン王』のアーサー。
アーサーの死をめぐるごたごた。王の腹心のヒューバートに殺されたかと思うと、助けられるが、みずから城壁から飛び降りて死ぬというの自殺なのか事故死なのかわからないうえに、貴族たちからは他殺と受け止められ、貴族たちの王からの離反を決定づける。物語の展開からしても、すっきりしないのである。
しかしそれを脇において考えれば、アーサーの悲運は、この劇と今回の演出に影を落としている。あるいは大人のドラマに、子供のドラマが交錯する。城壁から落下するアーサーは、上から死体が降ってくるという今回の吉田演出の源泉的イメージともいえる。飛び降りるアーサーは、劇中に何度も降ってくる死体の一部(メトニミー)かもしれないが、同時に、劇中に降ってくる死体の代表あるいは中心でもある(メタファー)。このアーサーの印象的な死は、戦禍のなかで犠牲になる無辜の民への鎮魂歌的機能をはたしている。
今回、アーサー役は、子役ふたりのWキャストなのだが、実はアーサーは、ジョン王とも、そして私生児フィリップともつながる、あるいは彼らのWキャストのひとりであるかのように思えてくる。『ジョン王』の影の主役とまで言ってもいい存在感をこのアーサーは放っている。
Wキャストの子役のうち一人しか見てないわけだが、シェイクスピアの長台詞をよどみなく、一度も噛んだりすることなく、よく通る声で劇場に響かせる、その演技力は二人に共通しているものと確信している。そして子供の口をとおして松岡和子氏の見事な翻訳のセリフを聞くことができただけで、涙こそ流さなかったが、体が震えるような感動を覚えた。
シェイクスピアの『ジョン王』は、アーサーのドラマ、そしてシェイクスピア劇では珍しく子供のドラマでもある。これから50年は、『ジョン王』の上演を観ることができないと思うと、今回観ることができたのは、言葉にいえないほどの幸運であった。