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青木理氏、失言で「更迭」された葉梨康弘前法相に断…「人間としての限りない精神の退廃」
報知新聞社 2022/11/13 08:29
TBS系「サンデーモーニング」(日曜・午前8時)は13日、「法相は死刑執行のはんこを押す時だけニュースになる」などの不適切な発言で批判を受けた葉梨康弘法相(63)=衆院茨城6区、当選6回=が11日に首相官邸で岸田文雄首相(65)に辞表を提出、受理されたことを伝えた。事実上の更迭とみられる。
コメンテーターでジャーナリストの青木理氏は今回の問題に「死刑問題は僕、かつて、かなり集中的に取材したことがあったんですけど」とした上で「死刑制度を肯定するにせよ否定するにせよ、国家の名の下に人の命を奪うっていうのは、これ以上の最高度の国家の権力の行使って基本ないんです」と明かした。
その上で「それを冗談にするって政治家っていう以前に人間としての限りない精神の退廃っていうか、これはすさまじい精神の退廃だと思う」と断じていた。【以下略】
青木氏のコメントは、その通りであり、メディア全体の論調も一致してそうした主張を行っている。それについて問題ないのだが、老人の癖として、個人的な昔話をさせてもらうと――
中学生の頃だったと思うのだが、社会科の授業で、死刑制度の話になり、そのとき先生の口から、裁判で死刑が確定しても、実際のところ、法務大臣は死刑執行のハンコを押さないことが多いと話してくれた。中学生だった私は、そういうものかと驚いた。
Wikipediaによると「執行までの期間」は、「死刑判決確定後6ヵ月以内に、法務大臣が執行を命令しなければならない(刑事訴訟法475条2項)が、平成15年9月12日から平成27年7月27日までの実績では平均5年4か月だった」とある。
6ヶ月以内に法務大臣が執行を命じないのは、再審請求が行なわていたり、共犯者の刑が確定してないというような理由があるらしいのだが、法務大臣がハンコを押そうとしないことも、その理由のひとつであろう。
中学の社会科の先生の話だと、法務大臣職は長期にわたって続けるものではない。内閣改造にともなって交代する役職だから、自分が法務大臣になっている短期間に、死刑執行という人殺しになりたくないというのは人情としてわからないわけではないとのことだった。
死刑囚にとっては、何時死刑執行されるかわからい日々を長く経験することは拷問に近いことだろうが、同時に、極悪非道な犯罪者にして国民の敵でもある死刑囚とはいえ、その死に関わることは、たとえどんなに死刑執行の正当性を信じていたとしても、尋常ではない覚悟と強靱な精神を必要とするだろう。ちなみに死刑制度の不条理は、死刑囚が一定期間あるいは時には長い年月を経て改悛し真人間になってから殺すことにある。死刑は悪人ではなく善人を殺す制度なのである。
ネット上には、「歴代法務大臣の死刑執行命令数」というのがあって、執行を命じていない法務大臣は、任期が短かった法務大臣を除いても、存在している。しかも、そうした記録は、古くても1980年以降であって、それ以前の記録は、ネット上では見つからなかったのだが、おそらくハンコを押さなかった法務大臣は、けっこうな数いたと推測できる。たとえ職責に反することとはいえ、良心のかけらは、そうした法務大臣には残っていたのではないか。それが私の中学の社会科教員の発言にもつながったのではないかと思う。
逆にいうと、平気でハンコを押す大臣が増えたことも問題ではないか。ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、死刑執行の時を待っている死刑囚の心象風景にも思えてくる。待ちの苦しみを和らげてやろうと法務大臣は死刑執行を早めているというのは真の理由ではないだろう。なかには嬉々として死刑執行のハンコを押す自民統一教会の法務大臣もいたはずである。腐敗し不正に荷担している自分の所業に向き合うことなく、正義による死刑執行を信じて疑わない精神異常者が。
葉梨前法務大臣は、死刑執行に対し無神経だったのだが、当人はハンコを押す前に更迭させられた。しかし繰り返すが嬉々として(つまり義務を果たすことに自己満足して)ハンコを押し続け、死刑執行命令数の多さを自らに対する勲章みたいに考えていた法務大臣もいたはずで、それは、自民統一教会のなかに蔓延するようになっていた、死刑に対する感覚の麻痺、人を殺す経験の苛烈な重さへの無自覚の結果ではないのかと、私はそう思わずにはいられない。
葉梨前法務大臣の失言は氷山の一角なのである。