2022年10月30日

『アムステルダム』

デヴィッド・O・ラッセル監督・脚本・製作。2022年製作。アメリカ映画。

豪華キャストをうたっている映画だが、それを強調することは、映画の内容そのものについては、映画会社としてもやや自信がないことの裏返しではないか。

ちなみに、この作品は、大戦間(第一次世界大戦と第二次世界大戦との間)の合衆国におけるファシズムの台頭と陰謀をあつかった疑似実録物であるため、ネットに巣食っている日本のファシストから酷評されている。一番傑作なのが、いまはファシズムの時代じゃないというもの。ファシズムが消滅したり無害化されているのが現代ならば、過去のファシズム台頭期をふりかえっても誰も傷つかないし、無害なら現代に対する政治的批判性もないわけだから、なにも目くじらをたてる必要なない。逆にいうと、現在のファシストやネオナチやそのシンパどもには、この映画のファシズム批判が突き刺さっているということである。

統一教会という反日カルト宗教団体と結託していた自民党の批判をまともにできない、おそらく自身も統一教会のメンバーであろうファシストたちの意見とは一線を画すことをお断りして、この映画について個人的感想をいえば、予想に反して、面白くなかった。

ロバート・デ・ニーロ演ずるギル・ディレンベック将軍(退役少将)というのは、スメドリー・ダーリントン・バトラー将軍がモデルになっていて、バトラー将軍は、第一次大戦後、戦争を不正な金儲け(racket)として糾弾したことで名高い。

この糾弾によって、電通ににらまれた将軍は、軍法会議にかけられたし、イタリアのファシストでメシアあるいはグレート・ファーザーと呼ばれた文鮮明についての言及で、統一教会と癒着していた合衆国議員から批判され、出世の道を閉ざされもしたのだが、この映画は、将軍の行動を、ファシストに利用されているふりをして、ファシストの陰謀をあぶり出すものとして捉えている。それがアメリカ史における、どれほど斬新な解釈か、ありふれた解釈なのか、わからないが、バトラー将軍をめぐるファシストの陰謀というのが、この映画における大きな陰謀となる。

それは映画を通してよく理解できるのだが、たとえば映画のエンドクレジットでは、バトラー将軍の議会あるいは聴聞会(?)でのスピーチの映像と、そのスピーチを作品中で、ディレンベック将軍を演じたデ・ニーロが完コピした映像が流されて、そのシンクロぶりに圧倒されるのだが、しかし映画のなかでは、デ・ニーロの完コピのスピーチはない。映画のあのときのスピーチは、実際に残された記録映像のスピーチ部分を完コピしたものだと示されれば感動するが、エンドクレジットだけのおまけにすぎない。ひょっとしたら映画の中でも使おうとしたのだが最終的にカットされたのか。いずれにしても、何をどう使うのか映画がそのものがゆれている観が否めない。何をしたかったのかわからないというよりも、総花的な展開で、余分なものがありすぎたり、必要なものがなさすぎたりする、そんな印象なのである――これを通常は「空回り」という。

主人公のバート・ベレンゼン医師を演ずるクリスチャン・ベールは、同じ監督の『アメリカン・ハッスル』では異様に太っていて驚かされたのだが、今回は、老け込んでよぼよぼになり、鎮静剤中毒でもあるポンコツ医師へと肉体改造しての登場である。彼がナレーションを担当して、このオフビートな世界像を、特定の視点からまとめあげるているのだが、なにか説得力に欠ける。実家が富豪である妻と彼が別れ、恋人と新しい人生を歩むとしても、戦傷により身体が不自由になっているうえに、寄る年波によって身体の自由がきかなくなっている医師に、生まれ変わった後の輝かしい未来は待っていないように思われる。

クリスチャン・ベール扮する医師が、第一次大戦中アムステルダムで出逢った黒人兵士(弁護士)と看護師(富豪の妹でもあるが)とのトリオで、陰謀に巻き込まれつつも、その陰謀を暴き、新たな人生を始めるこの映画では、医師/クリスチャン・ベール、看護師/マーゴット・ロビー、黒人弁護士/ジョン・デヴィッド・ワシントンの三人というかトリオで充分なので、それ以外に豪華キャストをそろえる必要はあったのか。

映画はオフビート感は横溢させてもエッジが乏しいがゆえに豪華キャストでごまかそうとしたのか。まあデ・ニーロ扮する将軍はいいとしても、ラミ・マレック扮するナチズムを信奉する富豪ほど、マレック自身に似合っていない役はない。ラミ・マレックの妻役のアーニャ・テイラー=ジョイは、スパイファミリーのアーニャと異なり、可愛げのまったくないいつもの役柄だが、べつに彼女でなくてはならないということもない。

陰謀とかファシスト勢力の動きをうかがっている政府側の人間にマイケル・シャノンと マイク・マイヤーズをもってくる必要はどこにあったのか。マイク・マイヤーズは、最初、誰かわからなかったのだが、観客にとって俳優の名前がすぐに出てこない役柄だったら、最初から名前のよくわからない俳優を起用してもいいのではないか。刑事役のマティアス・スーナールツは、『君と歩く世界』『ヴェルサイユの庭師』『フランス組曲』『リリーのすべて』さらには『レッド・スパロー』まで見ている私としては見間違えようもないのに、最後までわからなかった。私がひそかにファンであるアンドレい心のなかで拍手したが、それはともかく、テイラー・スウィフトにいたっては、いきなり最初から出てきたと思うと、いきなり死んでしまうという役で、だったら無理して出演しなくてもいいのではと思った(ただしマーゴット・ロビー、アーニャ・テイラー=ジョイ、アンドレア・ライブボロー、ゾーイ・ザルダナと、女優は、みんなこれまでのどの出演作においてよりも、美しく撮られていたることは誰もが認めるところだろうが)。

総じて、豪華キャストは、豪華キャストの無駄遣い感が強く、作品の魅力を増すというよりも、作品のよさを損なっているところが多い。

同監督の『アメリカン・ハッスル』と同じ、疑似実録物としての映画は、大戦間のアメリカを襲った陰謀に焦点をあてることで、実は、この時期がアメリカ史における黒歴史であるとともに転換期でもあったことを観客に思い起こさせることにある。

黒歴史であるというのは、帝国主義戦争であった第一次世界大戦とは異なり第二次世界大戦は、ナチズム・ファシズム対民主主義の戦いであったのだが、大戦以前にナチズムやファシズムが民主国家アメリカに浸透していたからである。ナチズムに傾倒する富豪が出てくる。また同じ富豪連中は同時にヒトラーと戦ってもよいと考える――戦争は金がもうかるからである。こうした資産増殖のためなら戦争をも辞さない親ファシストの大富豪たちに蹂躙された市民・国民の代表を、従軍して傷だらけの身になり身障者となった主人公が表象する。モンロー主義を守って他国の戦争には介入しなかったアメリカが、第一次世界大戦では他国の戦争に参戦する。以後、アメリカは海外派兵を繰り返し、たとえ勝利しても多くの犠牲者を出してきた。そして復員兵のなかには、多くの傷痍軍人たちがいた。戦争とは、死者以上に身障者の問題である。そしてこれがアメリカにとって悪夢のはじまりであった。

つまり大戦間のアメリカ社会の問題が、今のアメリカ社会の問題にもつながっているのである。度重なる海外派兵ゆえに国内には行き場のない傷痍軍人や復員兵があふれ社会問題化する--それも常に。とすれば、この映画の射程はけっこう広い。この悪夢へとアメリカが引きずり込まれていくはじまりが、まさに大戦間のこの時期(『グレート・ギャツビー』の時代でもある)だったのだ。

と、まあ、ストレートな演出ならば、そうなるところだろうが、またストレートな語り口でも充分に刺激的な内容だったと思う。題材が、ストレートな提示になじまないほどありふれたものということはなさそうなのだから。ところが、あえてオフビートな語り口へと舵を切ったために、テーマ性なりメッセージ性が弱まっている――それがよいという観客がいてもおかしくないし、まあオフビートな語り口ゆえにあぶりだされる政治性や社会諷刺があることを否定するものではないとしても。

問題は、『アメリカン・ハッスル』よりもさらに進化あるいは深化したオフビート性が、クリスチャン・ベールのさらに進化あるいは深化した肉体改造にもかかわらず、そしてオールスターキャスト(とはいえクセの強いオールスターなのだが)にもかかわず、空回りしているということなのだろう。

しかし、ここで忘れてならないのは、この映画全体が、『アメリカン・ハッスル』を進化あるいは深化させた結果、漫画となっているということだ。内容だけではない、絵柄そのものものも漫画なのである。

漫画といっても、アメリカン・コミックということではない。グラフィック・ノベルとか、バンド・デシネといった、アメリカン・コミックとは一線を画す、オフビートで芸術性も高い漫画のことである――メビウス、エンキ・ビラル、大友克洋といえばわかってもらえるかもしれない。

いっぽうでアメリカ映画では、アメリカン・コミックのスーパー・ヒーローが多数活躍する実写版がスター俳優たちを迎えて次々と製作され、スーパーヒーロー疲れといった現象すら起こっている。マーヴェルとかDCコミックのヒーローたちの実写版映画がSFファンタジーで未来志向的であるのとは対照的に、バンド・デシネ的世界の実写化を狙ったかのような『アムステルダム』は、過去志向で実録物かつノスタルジックである。スーパーヒーロー物の映画がCGを多用しスペクタクル性を横溢させた圧倒的な映像美と躍動で観客を魅了するのとは対照的に、『アムステルダム』では、汚れ疲弊した退嬰的世界を出現させるためにCGが使われている。そこではヒーローはボディビルディングによる均衡のとれた肉体美を誇ることはなく、むしろ、医療整形の繰り返しで異形化し壊れかかっているような脆い身体を誇示するしかなく、ヒーローと言うよりもアンチヒーロー化している。

そう考えれば『アムステルダム』は、アメリカン・コミックのスーパーヒーロー物の実写版へのアンチとして評価できる――あるいはバンド・デシネ的世界の実写版として評価できる。

もちろん題材も、アメリカの黒歴史を扱うという点でも、バンド・デシネ的世界に適合している。惜しむらくは、題材が、実録物としてノスタルジックなかたちで封印されることなく、現代のアメリカあるいは現代の世界の寓意とも化したことだろう。バンド・デシネはおもろしいとしても、アメリカン・コミックのスーパーヒーロー物がいかにくだらないとしても(私はそうした映画のどれも観たことがないし、観るつもりもない)、しかし、だからといって、いまバンド・デシネする意味はあるのかという気持ちは消し去ることができない。
posted by ohashi at 21:05| 映画 | 更新情報をチェックする