2022年10月11日

『グレート・ギャツビー』

すでに公演は終わったのだが、宝塚劇場でミュージカル『グレート・ギャツビー』(月組、小池修一郎脚本・演出、月城かなと、海乃美月ほか)を観た。コロナ禍で高齢者の私は家でおとなしくしていることが最善の策だと信じて観劇などを控えていたのだが、今回、誘ってくれチケットをとってくれた女性の厚意に感謝を示すべく、日比谷に出かけた。

久しぶりの宝塚劇場だったので、ただただまばゆいばかりの舞台に圧倒されると同時に、いかにも宝塚の舞台向けともいえる『グレート・ギャツビー』なのだが、アレンジが独特で、こてこての宝塚らしさがないところが面白かった。

3度目の上演とのことだが、実際のところ、2度の舞台化をみていれば『グレート・ギャツビー』に関する私の認識も、もっと早く変わっていたかもしれないと悔やまれた--ただし上演ごとに内容が改変されているので、今回がこれまでとは異なるアレンジをしている可能性もあるんだが。

この宝塚版『グレート・ギャツビー』を観て、あらためて作品の時代がアメリカの禁酒法の時代であることを思い知らされた。禁酒法といえばアル・カポネとかエリオット・ネスが活躍した時代、まさにドラマあるいは映画の『アンタッチャブル』の時代であるのだが、小説を読んでも、あるいは映画版でも、たとえば今回の舞台でみられたようなもぐり酒場で、ウィスキーやワインをコーヒーカップで飲むという場面は登場することはなかった。

まあ禁酒法の施行が厳格なものではなかったり、例外措置も設けられたりしたことから、たとえギャツビーの裏稼業が禁酒法と密接な関係があったとしても、禁酒法とその社会的文化的影響が前景化されることはなかったのかもしれない。逆にいえば、禁酒法時代を前景化した今回のアレンジが異様だが新鮮なものに感じ取られることになった。

そのため最初の方はアレンジの仕方もあって、『グレート・ギャツビー』がどんな物語だったのか必死で思い返すことになった。後半、ミュージカルも終盤になってくると、小説と同じ展開になるので、なんだか安心することになった。

休憩時間に、チケットをとってくれた女性と話をした。『ギャツビー』の映画版はみたことがあるかという話題になった。その女性はバズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』(2013)は観たことがあるのだが、ロバート・レッドフォード、ミア・ファーロー共演のジャック・クレイトン監督『華麗なるギャツビー』(1974)はまだ観たことがないということだった。年寄りの私は、ロバート・レッドフォードのギャツビーのほうに感銘を受けた世代であって、バズ・ラーマン版の『ギャツビー』は、デカプリオのギャツビーに、キャリー・マリガンのデイジーでしょう、ふたりとも童顔で、大人の男女の恋物語というよりも、少年少女の恋物語にみえてしまい、どうもピンとこないと話したのだが、そう語りながら、私は、ある発見をしていた。

宝塚版も、そうなのだ。禁酒法の時代、ギャングの元締めへと闇落ちしたギャツビーだが、それでもなお、少年の日に出逢った美しい少女デイジーへの愛を引きずっている。ギャツビーとデイジーだけは、外見はともかく、その内面は少年と少女のままなのである。

バズ・ラーマン版『ギャツビー』は、このことを童顔の二人、デカプリオとキャリー・マリガンの恋物語として示していた。キャスティングそのものに意味があったのだ。宝塚版もまた少年少女の恋物語というテーマで統一していた。ただし宝塚の舞台は、高齢の男女も中年の男女も、なんら困難を覚えることなく舞台化することができるのだが、幼子から10代までの若者の男女だけは、舞台化することはできない。そのため月城かなとと海乃美月の二人は大人の男女の魅力を発散することはできても、子供らしさだけは、どうすることもできないのだ。だからヴィジュアル的ではなく、台詞と歌に頼ることになる。とはいえ宝塚版は、禁酒法時代と少年少女の恋物語とい二つの要素によって、たとえ台詞と歌のレベルであっても、従来にない『ギャツビー』像を提示することにまちがいなく成功したのだが。

付記 1
近年、英米圏ならびにそれに影響をうけた日本においても‘Vulnerability’という言葉ないし概念がよく使われるようになった。「可傷性」とか「被傷性」などと訳されるのだが、その形容詞形が‘Vulnerable’つまり「傷つきやすい」という意味である。

私が生まれてはじめて、この‘Vulnerable’という英単語に出逢ったのが、ほかでもない『グレート・ギャツビー』なのだ。へーっと驚いているあなたは英語で『グレート・ギャツビー』を読んだことのない人だ。『グレート・ギャツビー』の冒頭、その第一節にこの単語は出てくる。

もっというと、昔々、どこかの大学が英文解釈の入試問題に、『グレート・ギャツビー』の冒頭の一節を出した(英文解釈問題としては難しいほうの部類にはいるだろう)。そのこともあって、この冒頭の一節は、私が英語の入試勉強を始めた頃、英文解釈の参考書に例文あるいは過去問として掲載されていた。そして『グレート・ギャツビー』をはじめて英語で読んだとき、冒頭の一節をみて、受験参考書にあった例文だと気づくことになった。私はVulnerableという単語を『グレート・ギャツビー』の冒頭の一節にあることを知らずに、その冒頭の一節で出逢っていたのである。

付記 2
今年の初めに上梓したテリー・イーグルトンの『希望とは何か』(岩波書店)では、引用文は、既訳のあるものは、すべてそれを使うという方針をたてた。そのため本文というか地の文と表記が異なったり、表記の不統一が生ずるのだが、そんなことなど気にすることなく、既訳を使った。

イーグルトンは『グレート・ギャツビー』からも数か所引用していた。『ギャツビー』の翻訳は数種類あるのだが、そのなかで私が選んだのは村上春樹訳である。これだけでも特筆に値することだと思うのだが、誰もなんとも言わない。おそらく読まれていないのだろう。

これももっというと、イーグルトンは『ギャツビー』の引用の後、ポール・オースターからも引用している。オースターのその作品で既訳は柴田元幸氏のものしかない。当然、柴田元幸訳を使わせてもらったのだが、そうなると、そのすぐ前の『ギャツビー』の引用は、村上春樹訳を使うしかないのではないか。たとえ柴田氏自身は、なんとも思わないかもしれないとしても、読者から何か声があがるのことを怖れたのだ。とはいえ、怖れる必要もなかった。私の翻訳は、そもそも誰も読んでいないのだから。
posted by ohashi at 19:03| 演劇 | 更新情報をチェックする