ルイ・ブニュエルの『皆殺しの天使』である。
オペラ鑑賞後、20名におよぶブルジョワの男女が、あるブルジョワジーの豪邸で晩餐を楽しむことになった。ただし屋敷の使用人たちは、理由はあって(ただしどんな理由かは明示されない)、次々と屋敷を離れてしまう(沈みかかった船からネズミが逃げ出すように)。屋敷の主人夫婦は、ただ一人残った執事とともに、晩餐を用意する。食事の後、音楽室に移った客たちはピアノや歓談を楽しむが、遅くなっても(翌朝に近い時間になっても)帰ろうとせず、床や椅子で眠りについてしまう。次の朝になってみると、なぜか誰も部屋から出られなくなってしまう。
そして部屋から出られないまま数日が過ぎるという、ある意味、シュールな、また不条理なドラマが展開する。食べ物もなく、疲労困憊した彼らだが、最後に、屋敷から出ることになる。どうやってか。
屋敷では死んだり殺されたり正気をうしなったりする人々が出て、主人夫婦の責任を問うまでになり、みんな殺気立ってしまうのだが、そんななか、ある女性が、いまこのとき、みんながいる場所というのは、晩餐会後、ピアノの演奏を聴いて、これから帰ろうかというときにいた場所と同じであることに気づく。その時の状況を思い出すと、いまされがここで再現されている。このことを確認することで、全員が次の瞬間、これまで出ることができなかった部屋を後にして、屋敷から出ることに成功する。
最初と同じ状況になったから、外部に出ることができるのか、その理由はなにも説明されてはいない。ただ、最初の状況というか客の立ち位置に戻ったということが、なにか終わりを納得のゆくものに見せる口実としては、都合がよかったということだろう。
実際のところ、終わり方としては、このまま屋敷から誰も出られなくなって、生き残りのために互いに殺し合うって自滅するか、殺しあわなくても食べるものもなくなり、みんな朽ち果てるか、とにかく出られなくなってみんな死ぬというかたちで終わってもよかった。もちろん解放されて出ることができたと言う終わり方もある。これに対して、閉じ込められる端緒となった状況にもどったのだから、解放も近いあるいは可能だというのは、段取りとしては弱く、むしろ謎を深めるようなところがある。だから一旦は解放された客たちも、また別の場所(教会)で、再び閉じ込められることになって映画は終わる。つかのまの解放は真の解放ではなく、なんら解決をもたらすものではなかったのである。
だからこの弱い理由づけは、合理的なものではなく約束に基づくものであり、もしそこにリアリティがあるとすれば、それは物語構造の根幹に触れるものがあるということだろう。
この『皆殺しの天使』において、屋敷から出られなくなった、あるいは帰れなくなった時点における客人の立ち位置が復活したということは、その立ち位置が運命の分かれ道であったということであろう。三つの線分が交わる図形としてのY字図形があるが、このYの字で、三つの線分が交わるところ、つまり運命の分岐点が再び出現したと映画のなかでは語られるのである。もちろんそこから同じ運命が展開することも考えられるのだが、一度、その可能性は試され出口なし状態が出現したので、今度は、別の可能性が生まれ、脱出できるかもしれないという考え方である。ピアノ演奏そのものが、実は運命の分岐点であった。分岐点にもどった、あるいは分岐点が出現した、次には異なる運命がまっているだろうという理屈である。
もちろん、そのような分岐点をむりやりつくれば、線路の方向を変えるようにして、別の運命が紡がれることになって、物語を終わらせる口実となる。
また、物語を旅にたとえるのなら、物語は二種類の旅から成り立っている。ひとつはX地点からY地点への旅。もうひとつはX地点からX地点への旅、すなわち帰還の旅。
ただしこのメタファーは、旅というのが、すくなくともこの映画にとっては違和感がある。というのも閉じ込められて外に出られない運命というのは、旅ではなくて、出口なき迷宮あるいは迷路における彷徨こそ、ふさわしくないだろうか。そして迷路も、同様に二種類ある。X⇒Yへと抜けるものと、X⇒Xのように出口がなく入り口にもどるしかないもの。
遊園地とかテーマパークにある迷路ではなく、由緒ある歴史的な迷路のひとつ、イギリスのハンプトンコート宮殿の迷路に実際に入った私の個人的経験からすると、X⇒Y型の迷路と思い込んでいて、迷いに迷ったが、実際にはX⇒Xの迷路であった(というか伝統的な迷路はこのかたちである)。まあ迷っている間、何度も、この道を辿れば、入口に行けるという地点に何度も到ったのだが、入口から出るというのは、ルール違反で、追い返されると思って、別の道を探って出られなくなった。最後は、入口にいたる道にまたも辿りついたとき、もうギブアップというかたちで、そのまま入口を目指した。そしてそれが正解だった。X⇒Xだから、入口が出口なのである。入口近くに辿りついたら、あとは出口で解放されるだけである。『皆殺しの天使』は、時間的な回帰、つまり始まりの状況(立ち位置)に戻るというかたちで語られるが、空間的には、実は迷路のメタファーで語られている。入口近くにきたら、もう出口はそこなのである。
物語の約束事――最初に戻って終わり。運命の分岐点――一つの可能性の成就のあと分岐的においてオルターナティヴを探る。迷路のメタファー――入口に近くにもどってきたら解放はすぐそこにある。しかし迷路脱出法には、隠れた最強の方法がある。それは迷路は自分で創り出したものであれ、そこから脱け出せないのは、みずから閉じ込められること望んだからである。自分の精神を覗きこむ。そしてそこに、迷路をつくりあげ、そこに閉じこもろうとする自分の深い欲望をみることができたら、迷路は自然に消滅することだろう。もはや迷路を脱出する必要はない。迷路は消滅したのだから。だが、そこに至るまで、あるいはそこに至らないかぎり、永遠に迷路からは脱出できないだろう。何度も、閉じ込められる。それはみずから望んだ呪われた運命なのである。『皆殺しの天使』の不条理劇が伝えるのは、まさに階級の心の牢獄なのである。
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