2022年07月01日

『BLINK』3

池袋のアウルスポットでの公演、フィル・ポーター『BLINK』(荒井遼演出・大富いずみ訳)、Wキャスト:西村成忠・湯川ひな/広田良平・黒河内りくを観ることができた。7月3日まで上演中。私が観たのは〈広田亮平・黒河内りく〉版だが、優れた演出のため、おそらくどちらを観ても(また両方観ても)満足できるものと思う。お薦めの公演である。

3 所有の欲望から同一化の愛へ

 『BLINK』のなかで、若いジョナがすることは、覗きであり、覗きの対象である女性の居場所がわかってからは、ストーカーにおよび、女性宅への住居侵入までしている。しかし彼の行為の犯罪性・違法性が、許されることはないとしても、不快なものにならず、嫌悪の対象とならないのは、ひとつにはソフィーが実は密かに自ら仕組んだことであって、ジョナがソフィーの見えざる手によって翻弄されているのであって(6月29日の記事参照)、ソフィーの策略がなければジョナがそこまでしないだろうと思われるからである。

またいまひとつに、ジョナがソフィーの生活をのぞき見する道具となったのが、ベビーモニターであって、覗きとか監視よりも、介護や世話というケアにむすびつく器具であって、そこに攻撃性や暴力性など犯罪とむすびつく要素が感じられないということもあげられる。ベビーモニターというものを私は使ったことも、そもそも実物を手に取ってみたこともないのだが、モニターそのものは、正方形の画面をもつ、スマホの半分くらいの大きさの器具のようだ(英国での上演資料画像からも、それが確認できる)。今回の舞台のようにタブレットを使うことは、モニターはスマホとかタブレット・パソコンに接続もできるだろうから、おかしくはないのだが、本物のベビーモニターだと観客(私のような)にはそれがなんであるかわからなかったと思うので、妥当な選択でもあると思う。おそらくベビーモニターが、日本よりも普及している英国での上演では、本物のベビーモニター越しの覗きは、ほほえましさを喚起していたかもしれない。そしてもしそうなら、ジョナの行為は、こうして完全に解毒化される。

だが、最大の理由は、ジョナが、ソフィーを性的な窃視対象とするのではなく、同一化の対象とすることだろう。覗き見からストーカーへといたる過程から推察できるのは、若い女性のプライバシーに土足で入り込み、無防備な状態の彼女の秘密を掌中に収めることで、彼女をコントロールしようとする(たとえ現実にコントロールするのではないとしても)、そうした所有の欲望だが、ジョナが劇中で実際に行なうのは、想像のなかで、窃視対象である彼女と共有する空間の開拓であり、彼女の経験をみずからの経験にする、あるいは同じ経験を彼女と共有することである。

彼女の居場所がわかったあと、彼女の後を付け回すのだが、それは彼女と同じ経験を共有する試みなのである。彼女と同じ公園のベンチに座り、彼女の乗る同じバスに少し離れて座り、彼女が訪れる美術館を、彼女と一定の距離をとりながら見てまわる。そこにあるのは、彼女を監視して統御する所有するおぞましい欲望ではなくて、彼女との一体化あるは彼女との共存を求める願い、同一化の願望であって、それが彼を変態的犯罪者性から救っているともいえる。

また、そうなるのは、二人が都会に暮らす孤独な若い男女であり、すでに孤独を独自のかたちで共有していて、この二人が奇しくも観る/観られるという関係性において遭遇したとき、そこに愛が生まれることは、まあ、自然な成り行きなのかもしれない。というのも、そもそも自分が観られるように仕組んだのは、彼女自身であって、彼女がそうしたことの動機には、彼女がかかえていた深い孤独が影を落としていた。つまりこの若い男女が、惹かれあう素地はすでにできていたのである――孤独をとおして。

結局、ソフィーが、自身を観られるように仕組んだということは、彼女が知らないうちに尾行される被害者ではなくて、尾行されていることを知っている行為者であることを意味する。彼女は、ストーカー行為に誘うというか、ストーカー行為をあおっている。ジョナのほうは、そうとは知らずに、彼女との経験の共有を求めて、彼女に寄り添おうとしている。それはまた、二人の関係が、追いかけられ、逃げたり、また逆に追いかけたりするという追う者/追われる者との関係であるともいえる。演出の荒井遼氏が、この芝居には「目」のモチーフがあると明言しているように、目のドラマ、あるいは視線のドラマともいえるこの劇は、同時に追跡のドラマでもある。そのことがよくわかるのが、演出の荒井氏が付け加えた、二人の男女の追いかけっこのシークエンスである。視線のドラマと追跡のドラマ。このふたつは、絨毯の表の模様と裏の模様にように、同じ構図の二つのヴァージョンである。

もちろん視線のドラマにせよ、追跡のドラマにせよ、そこには、演劇全般についての深い省察あるいは演劇についてのメタコメンタリーがあることはいうまでもない。そしてそれは暗闇のなかから身をひそめてじっと見つめる者(観客のこと――とはいえ舞台からみると観客席は闇に包まれているのではなく、けっこうよく見えることもあるのだが)は、第4の壁を通して、人物の秘められた心のうちや行動をのぞきみるという窃視的欲望だけにとりつかれているのではなく、目の前にみているものに、自らを寄り添わせたり、時に同一化したり、そこを基軸に共有できる演劇空間を創造したりという、同一化の欲望にもとりつかれている。観客は人物の秘密が暴露されることの快感に酔いしれるだけでなく、人物の秘密のなかにみずからをすべりこませることの快感に酔いしれることも多い。観客は人物の下に見るだけでなく、上に観ることもあるのだ。

このことは距離の問題とも関係する。観られる者たちの秘密に肉迫したい、あるいは相手を対象化しコントロールしたいという欲望、この窃視的欲望のめざすところは距離の消滅である。できれば、相手に直接接触し相手を統御すること(最終的に殺したりレイプしたりすること)のためにも距離を消そうとする所有の欲望に対して、同一化の欲望は、それこそ距離を消滅させたい(同一化のために)欲望の最高度の発現と思われるかもしれないが、同一化のためには距離が必要となる。また、この同一化が、崇拝的同一化、憧れによる同一化であるのなら、距離を介在させること、それも大きければ大きいほど効果があがるように距離を介在させることは、必要条件となる。

『BLINK』のなかでは、観る観られる関係にあった二人は、最終的に直接出逢う。だが、それは終わりのはじまりであり、距離がなくなったことによって、愛がさまたげられるようなところがある。結局、愛の再開のためには、再び距離をとってベビーモニターでの監視行為が必要となったのである。つづく
posted by ohashi at 01:09| 演劇 | 更新情報をチェックする