2022年06月29日

『BLINK』2

池袋のアウルスポットでの公演、フィル・ポーター『BLINK』(荒井遼演出・大富いずみ訳)、Wキャスト:西村成忠・湯川ひな/広田良平・黒河内りくを観ることができた。7月3日まで上演中。私が観たのは〈広田亮平・黒河内りく〉版だが、優れた演出のため、おそらくどちらを観ても(また両方観ても)満足できるものと思う。お薦めの公演である。

1. リモート愛
1か月前に、生まれてはじめて宝塚の舞台のライブ配信を観た。宝塚劇場の舞台ではない別の劇場の公演なのだが、その配信ではミュージカルのあとの短いレビューのなかで、最後のフィナーレ直前に演者が数人舞台に登場して観客向けに短いフリートークを繰り広げる時間があった。ライブ配信であることを意識している演者たちは、しばしばリモートで観ている観客に声を張り上げ、手を振りながら呼びかけていた。

舞台にいる演者にとっては、目の前にいる劇場の観客が一番近く、リモート配信で観ている者は、それこそ海王星の彼方にいるような遠い存在であろう。しかし配信でみていた私のような者にとっては、カメラが彼女たちの顔をアップでとらえるので、画像的には、劇場の観客よりも近い。しかし距離的には私たちは海王星にいる。

観る者と観られる者との関係、演劇や映画において、その生成の根幹にあるこの関係は、物理的距離や心理的距離のみで測定できるものではない、逆説的で複雑な交差関係のなかにある。そのことを、いま現在のコロナ過におけるリモートワークのありかたとか、学校などにおけるリモート授業のありかたを通して、私たちは再考と再認識を迫られているではないだろうか。

たとえば、そのような中で、昔からある遠距離恋愛はどうなるのか。遠距離恋愛、あるいはリモート恋愛というは、続かないというが定説であろう。たとえどんなに頻繁に連絡をとりあっていても、直接的な対面のもつ経験値にはかなわないし、近くにいないことに対する不安や不満がもたらす空虚感は、恋愛関係の腐蝕を招くことになる。しかし、では距離を詰めればよいか、心理的物理的空白を可能なかぎり作らないようにすればいいかというとそうでもなく、近接関係あるいは直接接触がもたらす圧迫感や飽和感もまた愛を衰退させる要因となる。もし四六時中夫婦でともに働いていたら(とはいえそれは異例なことではないのだが)、離婚の可能性や背信の可能性は高くなる。現前と不在のバランス、その適切なバランスのなかに愛ははぐくまれるとするなら、少なくとも、現前だけを、あるいは不在のもたらす効果だけを、排他的に重視するようなかたちで愛のかたちを測定するべきではないことになる。

リモート関係は、愛を終わらせるだけでなく、愛を育むことにもなる。リモートワークは仕事を停滞させるだけでなく仕事を効率化することもある。コロナ禍によって、私たちは距離のもたらす破壊的効果と創造的効果、このふたつのバランスを、それこそ歴史上類をみないかたちで検討しはじめているのかもしれない。

もし『BLINK』 をみて、私たちが思い起こすとしたら、まさにこのことであろう。フィル・ポーターの2012年初演のこの作品は、当時としても評判の舞台だったようだが、演出の荒井遼氏が述べられているように、10年後の2020年の今において、「作品が書かれた当時よりもテーマがビビッドになったのではないか」。

もちろん、そのテーマは、パンデミック下における社会関係のロックダウンや距離関係を常態化する社会的変容現象を通して追究されるのではくて、女性の部屋を覗くという変態スケベ野郎の窃視行為を通してである(この意味からもキェシロフスキーの映画との通底性はある)。

2.観るか観られるか、から、観る/観られるの交差性へ

これから劇をご覧になる方がいると、ネタバレというほどのどんでん返しがあるわけではないとしても、展開の先がみえてしまうと興を削がれることにもなりかねないので、内容についてあまり触れないでおくが、舞台は、最初、若い男女が追いかけっこをしているところから始まる。この男女を結びつけることになったのが男性の窃視行為であるため、それが女性を支配下に置こうとする一種の暴力性を秘めているのではと観客が思い惑うことのないよう、先手をうって、二人の関係が追う者と追われる者、その交差と反転であり、そこには犯罪性よりも愛があることを前もって知らせるという演出上の工夫であろう(原作のト書きには、それがないために)。

舞台に登場するのは二人の若い男女。この二人の語りと演技で最後までもっていく。最初は男性のジョシュの語り。つぎに女性のソフィーの語り。そしてこの交互の語りは続く。結局、このふたりがどうやって出会うことになるのか、そこまでの経緯を知るために観客は耳をすますことになる。

二人の語りには語り口に独特のものがあり、また生い立ちから現在に至るまでの物語もユニーク――とはいえ、うらやましいと思えるような内容ではない。また語りだけではわかりにくかったり、印象が薄くなったりすることを恐れてか、一人が語っているときに、もう一人が別人になって語りに割り込んでくる。たとえばソフィーが会社を解雇されたときの話をしていると、ジョナが、ソフィーの同僚(名前は奇しくも同じソフィー)となって、解雇をソフィーに告げることになる。一瞬、ジョナが、女性になってソフィーに語りかけてくるので、何が起こったのか観ている側が戸惑うかもしれない。台本も、観客の戸惑いを想定しているのだが、それでかまわないとも書いてある。とまれ観客の認識は柔軟だから、戸惑いのあとには、つまり時折もう一人が誰か別人となって話にわりこんでくるらしいとわかったあとには、もう驚かなくなるだろう。

ちなみに、原作では、入院中療養中で、体にいろいろな管がとりつけられているソフィーが、管がはずされていないまま、別人となってジョナの会話のなかの再現場面を演ずることになるが、さすがに今回の演出では治療用の管をさしたまま別人に変ることはなかった。これは美意識というよりも、劇の進行上の都合で、そうなったのであろう。

ふたりの話から徐々にみえてくるのは、母親を亡くし残されたお金でロンドンで一人暮らしをはじめるジョナと、父親を亡くし父親のいたフラットを貸し家にして暮らし始めるソフィが、どうやって知り合いになるのかが関心の重要な対象となるだろうということだ。

ジョシュは、もといた宗教的コミューンを離れロンドンにやってくるが、ロンドンに知り合いはいなくて、孤独な一人暮らしを余儀なくされる。いっぽう会社を解雇されて、最愛の父親を亡くしたソフィーは、自己の存在感の薄さに悩みながらの一人暮らし。ただしジョナが借りることになったフラットは、ソフィーの父親が暮らしていたフラットとなる。そのジョシュのフラットのすぐ上のフラットにソフィーは住んでいる。これで二人は出逢うかというと、そうでもない。不動産会社を通して契約したジョナは大家であるソフィーには会っていない。いっぽうソフィーのほうは、階下のジョシュのところに、ベビーモニターの端末のモニターを匿名で送りつける……。

ジョナのほうは、差出人のないモニターのスイッチを押すと、モニターに若い女性の姿が映し出される。そのためジョナのほうは、そのモニターに窃視犯のように魅了されてゆく。

この大胆さに観客はうなるほかはない。これは自らの存在感のなさに苦しむ女性が、自身が観られる存在になれば、彼女を観る者によって、彼女自身の存在が与えられると考え、匿名でベビーモニターを送ったわけであり、自分を見るように彼女は自分から誘っているのである。最近というか近年のリモート会議の用語でいうと(私がそれを聞いて最初戸惑ったのだが)、彼女は、自分のプライベート映像(プライベート会議)に男性を「招待」しているのである【なおイギリスでの上演では、ほんとうにベビーモニターのモニター端末を使っているのだが(つまり大きさはスマホの半分くらいのもの)、今回の上演ではベビーモニターではなくタブレットだった。もちろん、そのほうがわかりやすい。本物のベビーモニターだったら、それが何であるかわからない観客がいてもおかしくないのだから】。

このベビーモニターは、ソフィーの父親が彼女を観察監視するために使っていたもののようだが、父親がすい臓がんで入院後は、彼女が病院での父親の様子を見るために使ったものである。父親の死後、彼女は、モニターを階下の間借り人というか借家人に匿名で送る。すると間借り人であるジョナは、モニターが映す若い女性がどこの誰なのかわからないまま、毎日、観察しはじめる。ジョナは、その女性が何も気づかずに、自身のプライベートな映像を、モニターにさらしていると思い込んでいて、超越的な境地から、その映像を楽しんでいるのだが、実は、彼女は自分が覗き見されていることを知っている、というか覗かれるよう仕向けたのである。招待したのである。

これは観る観られる関係を単純に能動的姿勢と受動的姿勢として区分するのではなく交差させている中道態的姿勢であろう。主体/主語がみずから働きかけるのが能動態であるのに対し、主体/主語が外部から働きかけられるのが受動態とするなら、主体/主語が、みずからへの外部からの働きかけを、みずからの手で操作し仕組むこともある。この時、主体は、みずからを受け身にするように能動的にはたらきかける。これは能動態でもあり受動態でもある中間態あるいは中道態(middle voice)といえる。もちろん、能動態・受動態の二分法を崩さないとすれば、中道態は、能動態のひとつともいえるのだが、一般には受動態のひとつに分類されるようだ。

この劇に即して考えれば、会社を解雇され友人もおらず父親とも死別して、幽霊か透明人間であるかのように誰からも顧みられない、あるいは観られることのないソフィーは、階下の借家人を、彼女自身を窃視する人間に仕立て上げることで、みずからの存在を確保することになった。私は、誰か一人でもいい、その人物に観られることによって、自己の存在を確保できるのだから。

ここから、言えるのは、彼女のこの試み、せつなくもまた救済的な希有な試みが、都会に暮らす孤独な彼女を窃視的リモート映像を通してもうひとりの孤独な若者と遭遇させるとことで、物語の原動力となっていること、しかも、たんにロンドンに暮らす孤独なふたりの若者たちの物語にとどまらず、コロナ禍での自粛とリモート活動を余儀なくされる私たちの閉塞的な状況ともどこかでつながっていると思わせることである。しかも観る観られるの視線をめぐる中道態的事態は、統御され招待された観客の視線にさらされる人間の行為でもあり演技でもあるという二重性ともつながっている。二人の若者の行為は、演劇そのもののありように関するメタコメンタリーにもなっている。

フィル・ポーターの『BLINK』の深いたくらみ(良い意味での)には、唸るほかはなかった。つづく

posted by ohashi at 18:24| 演劇 | 更新情報をチェックする