2022年06月28日

『BLINK』1

池袋のアウルスポットでの公演、フィル・ポーター『BLINK』(荒井遼演出・大富いずみ訳)、Wキャスト:西村成忠・湯川ひな/広田良平・黒河内りくを観ることができた。7月3日まで上演中。私が観たのは〈広田亮平・黒河内りく〉版だが、優れた演出のため、おそらくどちらを観ても(また両方観ても)満足できるものと思う。お薦めの公演である。

はじめに--『愛に関する短いフィルム』

クシュトフ・キェシロフスキーの映画『愛に関する短いフィルム』(1988)を思い出した。同監督のテレビシリーズ『デカローグ』第6回の拡大版で87分の長くはないが短いともいえないフィルム。ワルシャワの集合住宅を舞台に、亡くなった友人の老母と暮らす19歳の郵便局員が、向かいの集合住宅に暮らす歳上の独身女性の部屋を毎夜望遠鏡で覗き見する。覗き見だけでなく、偽の為替振込通知を女性宅に送ったり、彼女宛ての手紙を隠匿したりと、この若者のすることはかなり悪質である。

そもそも姿をみせることなく一方的に女性を窃視すること自体、女性を所有物として対象化する男性の優位性を確保するための悪辣で幼稚な行為であり、おまけに直接的ないやがらせ行為も含む卑劣な行為である(冷戦下のポーランドをはじめとする共産圏国家が、国民を統制監視する監視国家であったことは決して忘れるべきではない。キェシロフスキーの映画でもポーランドを舞台にした映画には監視国家のありようが直接的・間接的に影を落としている)。しかしネット上ではこの変態のクズともいえる若者に対して好意的あるいは同情的な意見が多いのは、日本では男性による女性抑圧に対して鈍感であることも理由のひとつだろうが、それ以外にも、映画のなかで、この若者が、覗き見をした者であると自ら名乗り出て、女性の恋人にぶんなぐられることで、一種のみそぎがすんだように思えてしまうことと、覗き見をされた女性のほうも、この年下の覗き魔の男とデートまでし、、若者を、自殺未遂に至るほど翻弄し追い込むので、加害者である男性が被害者になってしまうことも要因としてあげられる。

もちろん加害者と被害者の立場の逆転は、さらなる変容をもたらすことになる。

映画の最後(テレビ版ではなかった追加の場面)が素晴らしい。自殺未遂の後、退院して帰ってきた若者宅に見舞いにきた女性は、その若者が覗いていた望遠鏡を自分でも覗いてみる。もちろん昼間まで、望遠鏡が向けられていた彼女の部屋には、彼女がこちらにきているのだから、誰もいないし、基本的にみるべきものはない。しかし、望遠鏡の向こうに、その若者が覗き見していた景色が、彼女にはみえる。ドゥルーズのいう「時間イメージ」である。すなわち現実の出来事ではなく、想像のなかの出来事――彼女が想像する、覗き見する彼の視界――でありながら、ただの想像ではなく、観る者の真実と実相を伝えるリアルな出来事の映像である。それはまた彼がみていた彼女の姿、あるいは彼にみられていた自分の姿であり、その彼女の姿を通して、それをのぞきみる彼の姿も見えてくる。現実と幻想、客観と主観、自己と他者とがまじりあった映像(ドゥルーズのいう「時間イメージ」)で映画は閉じられる。

いいかたをかえれば、彼女が望遠鏡で覗いていたのは、向かいの集合住宅の誰もいない彼女自身の部屋ではなく、その青年の心のなかであり、ひいては彼女自身の心のなかを除くことにもなったのである。

具体的にいえば、転機となるのは、恋人とのトラブルのあと一人自宅で泣いていた彼女の姿を、この若者が見たことによる。そのときこの若者は、安全圏から女性の私生活をのぞき見する窃視的欲望から脱却して、ひとりの女性の悲しみに寄り添い、その孤独を共有したのである(同一化の徴候は、もちろんそれ以前からあって、彼は彼女の自宅でのふるまいと同じことをしていた――彼女が食事をするとき、彼もまた望遠鏡を除きながら食事をするのである)。繰り返すが、この時の彼は自分が観られることのない安全圏から女性の生活を監視して面白がっている男性優位者ではなくなっている。望遠鏡を通して、もはや観られる者、観る者との距離がなくなり、行為遂行的にも、情動的にも、一体化する。孤独なふたりが、窃視行為を通して、一体化してしまう。それは一方的な所有havingの愛(だがそれは暴力的・犯罪的にもなりうる)ではなく、相互的な所有の愛、いうなれば同一化beingの愛である。このむしろ顧みられることの少ない同一化の奇蹟、それこそが真の愛ではないかと映画は告げているのである。

今回『BLINK』の舞台をみたあとで、キェシロフスキーの映画を思い出して、こんなことを考えた。キェシロフスキーの映画『愛に関する短いフィルム』は、有名な映画だから、私と同様に思い出す人は多いことだろう。

さらに、二つの集合住宅の部屋と、郵便局くらいが主な舞台の『愛に関する短いフィルム』は、『BLINK』の今回の舞台構成をみると、このかたちで、この映画を舞台化できるかもしれないという空想も広がるし、都会に暮らす孤独な男女の窃視行為を通してのふれあいと愛は、『BLINK』のテーマそのものでもある。ただし、同時に私は、映画以外のことも、思い出していたというか思い浮かんできた。それはコロナ禍におけるリモートの愛である。つづく
posted by ohashi at 07:55| 演劇 | 更新情報をチェックする