1 前途有能な若い男性
『リゾーリ&アイルズ』を話題にしたので、その第7シーズン(ファイナルシーズン)で気になることがあったことに触れてみたい。とはいえ本編そのものではなく、レヴューアーの反応のほうである。
そのレヴューアーの語り口は、穏やかで冷静で一見知的であるようにみえるのだが、基本的にサイコである、というか女性への差別意識がにじみ出る、薄気味悪いレヴューである--気色悪いので、そのほんの一部だけを引用する。
で、そのレヴューは、最終回を迎えたこのシリーズを、褒めちぎった後、一転して、主人公ジェーン・アイルズの人格攻撃に移行する。たとえば
反面、敵対するものには容赦ない。ホイトはともかく、モーラ誘拐犯の実行犯然り、アリス然り。アリスが彼女を憎悪した原因もここら辺にあるのかもしれない。
今シーズン7話のあるFBI候補生も然り。正直このエピは後味悪かった。
ホイトというのは、シリーズはじめから登場するサイコ。ジェーンが襲われても射殺しなかったことから、その後、何度も直接的・間接的にジェーンを襲う。彼女が容赦なく殺さなかったゆえにホイトが暗躍する。「敵対するものには容赦」ないというのは、このレヴューアーの悪意ある事実誤認である。そもそも敵対する者には容赦しないという言い方そのものが、ジェーンが私怨で犯人を殺しているように示唆する点で悪意丸出しなのだが、兇悪な殺人犯でありパブリックエネミーでもある犯人だからこそジェーンに射殺されるというふうにドラマを作らないと後味が悪くなる。私怨性は、共感を引き起こすために必要とされるが、正義がそれにふりまわされてはならないというのがドラマ作りの鉄則であって、このドラマシリーズは、レヴューアーが指摘しているような型破りなことをしているわけではない。
そもそもこのレヴューアー、最初にシリーズ全体を褒めていながら、実際には、大嫌いなのだ。おそらくリゾーリのほうに嫌悪すら抱いている。ならば、頼まれてもいないのだから、見るのをやめればいいのだが、悪口をいわないとどうしても気が済まないらしい。そして批判的言辞を吐くことで、自分が優位に立っているような妄想にひたりたいのだろう。
このレヴューアーが馬脚を現すのは、「今シーズン7話のあるFBI候補生も然り。正直このエピは後味悪かった」というコメントである。このレヴューアーは、最後にも念を押している「ともあれ、結末には満足している。/前述7話で出会ったFBI捜査官との展開は余計に思えるが」と。
このシーズンはファイナルシーズンであり、リゾーリ&アイルズは、それぞれボストン署を離れて別々の道を歩みはじめ、刑事と検視官というコンビが解消することになる。そしてそれがシリーズ全体の終わりとなる。転機となるのがリゾーリがFBI捜査官養成学校のゲスト講師として呼ばれ、捜査官候補生たちに授業をするというエピソードである(リゾーリは最後には刑事を辞め、FBI捜査官養成学校の講師となる)。このときボストン署では事件の捜査が進行中だが、リゾーリは間接的にしかそれにかかわれない。そのかわり授業を通して、捜査官候補生のなかに、公然と女性蔑視発言をする男子候補生を発見する。この男は、当然、リゾーリに対しても侮蔑的敵対的姿勢をとる。
たとえば廊下でリゾーリと立ち話をしているとき、この候補生は、自分の持っていたペンをわざと床に落とす。そのとき近くを通りかかった女性候補生が床からペンを取り上げて、落ちましたよとそのペンを渡すので事なきを得るのだが、私は知らなかった、男が落としたものは、女性が拾って男に渡すというのが正しい男女の在り方だと女性差別主義者は考えているらしいことを。この候補生はリゾーリにペンを拾わせて男女の優劣を思い知らせてやろうとしたのである――女子候補生がいたことで、この試みは失敗するのだが、リゾーリ自身は、拾ってやることを最初から断固拒否していたようにみえる。
胸糞が悪くなるような話だが、レヴューアーが後味が悪いと言っているのは、このことではない。リゾーリは、この候補生の過去を調べてみて、彼の同期だったか、すぐ下だったか忘れたが、優秀な女性候補生がいたのだが、彼女の優秀さをねたんで、この候補生は、嫌がらせをして自殺に追い込んだらしい。そのため、この候補生は、実は、悪辣な女性差別主義者ではないかという疑いが浮上する。女性差別主義者は社会に存在する、しかし、女性差別主義者がFBIの捜査官になるのは好ましいことではないというか、あってはならないことである。授業の最終日、授業後、リゾーリは、この候補生と話をする。経験でつちかった巧みな尋問術で、相手から女性への侮蔑発言や過去における女性候補生への嫌がらせの証言を引き出す。それを聞いていたFBI養成学校の教官は、警備員に彼を拘束させ、学校から追放することになる。
これがレヴューアーにとって後味の悪いものだったのだ。ここにいたのだ、女性差別主義者が。彼は、優秀な女性や強い女性に対して必要以上に威圧性を感じ、そうした女性を嫌悪するのだ--いやそうした女性たちを死に至らしめてもかまわないと考えている。このレヴューアーにとって驚きだったのは、自分と同じ嫌悪感を抱いた人間が、後進国の日本ではまわりにいっぱいいるのだが、ドラマのなかでは弁護の余地なき悪人として扱われていたことである。自分が疑いもせず、罪悪感も抱いていなかった、ひょっとしたら後進国日本では褒められることすらあれ、よもやけなされることのない女性憎悪が、ドラマのなかで問題視され、そうした女性憎悪の信奉者が、犯罪者扱いされたのだから、それはさぞや、胸糞が悪く、後味が悪かっただろうことは想像にかたくない。
さらにいえばこのファイナルシーズン第7話で、リゾーリがFBI捜査官候補生たちに授業をするのは、彼女がボストン署の有能な刑事であることもさりながら、彼女に向けられるかもしれない憎悪感を手掛かりに、女性捜査官ひいては女性全般に対し嫌悪感を抱く男性候補生を摘発するためだったのかもしれず、リゾーリの授業は、みごとにその目標を達成したといえるのかもしれない。
そしてこのドラマそのものが、このエピソードを通して、このレヴューアーのような女性差別主義者・ミソジニストを摘発する機能をはたしたのかもしれない。ドラマシリーズ全体をべた褒めしながら、リゾーリに対する人格批判を、鬼の首を採ったように繰り返す、このレヴューアーは、このドラマに出てくるサイコパス、あるいはこのFBI捜査官候補生である傲慢で差別的な若者と実によく似ている。自分の同類が犯罪者扱いされたのだから、後味が悪くなるのは当然だろう。
【ちなみに、リゾーリは、授業のなかで、自分が大学に入学を許可されていたのだが、大学に行かなかったのは、早く捜査官になって現場で経験を積みたかったからだと候補生たちに説明している。ところがレヴューアーは、実家が裕福ではなく、大学の授業料が払えなかったからだと説明し、リゾーリが、イタリア系の家族のマフィア的しがらみの犠牲者でありまた加害者であるというような差別的コメントを書いているのだが、大学に行かなかった理由は、長いドラマシリーズのなかで明確に説明されていなかったように思う。ただし記憶は定かではないので、授業料面での困難のために入学しなかったという説明があったのかもしれない。とするなら、シリーズのなかで矛盾した説明が示されたことになる(まあ、よくあることだが)。しかし、アメリカの場合、優秀な学生には大学が金を出す(奨学金その他の方法で)。優秀なリゾーリだったら大学からお金がもらえたのではないかと思われる。優秀な学生なら貧乏だから学業が続けられないというのは理由にならない。後進国の日本とは違うのである。】
結局、この『リゾーリ&アイルズ』のファイナルシーズンのレヴューアーの、主人公のキャラクターに対する、したり顔、どや顔による攻撃が、ゆくりなくもあぶりだすのは、レヴューアー自身の女性差別・女性嫌悪のありようだろう。それは優秀な女性、有能な女性を快く思わない男性のねたみによる攻撃にほかならない。その攻撃が犯罪へとエスカレートするのを、主人公リゾーリは防ぐことができたのだが、現在の社会は、アメリカであれ、後進国の日本であれ、それを防ぐことができていないばかりか、犯罪を放置する場合も多いのである。
2 プロミシング・ヤング・ウーマン
『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)は、エメラルド・フェネル初監督の映画だが、彼女自身、俳優として映画やテレビドラマに出演している。私の見た映画でも、『アルバート氏の人生』(2011)、『アンナ・カレーニナ』(2012)『リリーのすべて』(2015)に出演しているのだが、どこにいたのかは残念ながら今となっては記憶にはない。テレビドラマへの出演のほかに、『キリング・イヴ』セカンド・シーズンでは「ショーランナー」という現場統括責任者のようなこともしているようだ。『プロミシング・ヤング・ウーマン』は多くの賞を受賞した優れた映画で、主役はキャリー・マリガン【ちなみに今回初めて気になったのだが、Carey Mulliganがなぜ「ケアリー」ではなく「キャリー」なのか。そういう発音があるのだろうか。マライア・キャリーのMariah Careyからの連想してCareyの日本語表記がキャリーになったのだろうか。ちなみにマライア・キャリーの場合も、ただしくは「ケアリー」だという説もあるのだが。またこの監督の名前も「フェネル」ではなく「フィネ~ル」だろう】。
キャリー・マリガンが演ずるのは、元医学部生だった女性。彼女が医学部在籍中、同期の友人だった女性が、男子学生にレイプされるが、訴えが聞き届けられず、最後には友人は自殺する。レイプされた友人をケアすることになった彼女は、友人の自殺を止めることはできず、自身も大学を中退する。その彼女が、復讐の天使となって、世間の女性差別主義者に鉄槌を下すだけでなく、過去に、彼女の友人を死に追いやった当事者たちひとりひとりに復讐をすることになる。
物語の軸となるのレイプ事件は、2015年にスタンフォード大学で起こったブロック・ターナーによる女子学生レイプ事件を基にしていると言われている。スタンフォード大学といえば、超有名大学だが、ブロック・ターナーは「スチューダント・アスリート」として在籍していた。スポーツ選手枠の学生(水泳選手)だからといってバカにしてはいけない。大学では、彼のほうが、一般学生よりはるかに優遇されているのだから。その彼が、性的暴行で訴えら、2016年6月2日有罪判決を受ける。性犯罪者として登録され、6か月の禁固刑/3年の保護観察期間(執行猶予のようなもの)となる。禁固6か月というのは刑罰としては軽すぎるとい批判があったのだが、実際には3か月とさらに短い期間で釈放されている。これに対して批判が起こり、判事がリコールされるまでになる。
刑罰が軽くなったのは、被告に、犯罪歴がない(麻薬所持歴はあった)、また若い、そして悔悛の情を示しているというような理由だった。実際に、「前途有望な若い男性」という言葉が判決文のなかにあったのかどうか知らないが、そのような含意は間違いなくあったと思う。
前途有望な若い男性だからという理由で、レイプ犯でも罪が軽くなる(実質的に禁固3か月ののち釈放)。これに対して被害者である女性が、「前途有望な若い女性」でもあっても、その訴えは聞き入れられず、加害者が優遇される一方で、被害者である彼女は冷遇され無視され、人生の輝かしい将来だけでなく自分の命まで失うしかなくなる。「前途有望な若い男性」を、禁固3か月で許してしまう一方で、「前途有望な若い女性」から前途を奪い去っても平然としていられる社会とは、いったい何であるのか。この不合理とジェンダー格差を、この映画は告発しているように思われる。
ただし映画は、この2015年のレイプ事件の再現ではない。この映画における事件は、むしろ、一般論としては、優秀な女子学生あるいは女性一般に対する男性側の妬みによる犯行であり、個別的には医学部における女性排除問題にもつながるものとなっている。そのため高度な一般性と日本でも問題となった医学部における女性排除という重要な個別性を付与されている。酒に酔った勢いによる性的欲望を抑えきれずに暴行に及んだといいう事件に見えながら、その実、学年でトップの女性を辱め退学に追い込むことによって、結果として男子学生がトップとなることを意図したホモソーシャル社会(ならびに個別的には医学部)の悪辣な意図が垣間見えるのである。女性は前途有望でなくてもよい。男性だけが前途有望であればいいのであって、大学当局も、男子学生を守り、女子学生の訴えは却下するしかない。
そしてこのような権力関係、ジェンダー関係は、特殊なものであると同時に、現代の社会のさまざまな分野に蔓延しているともいえる。アメリカですらこうなのだから、後進国日本ではなおさらひどいものとなっているだろう。こうした状況の闇を切り裂き、風穴をあけるような、女性による復讐物語がこの映画なのである。
この映画そのものではなく、映画のレヴューをめぐってひと騒動があったことは記憶に新しい。この映画にはプロデューサーにマーゴット・ロビーが名を連ねている。この痛快だがやや荒唐無稽な復讐物語の主人公には、キャリー・マリガンよりもマーゴット・ロビーのほうが適役ではなかったかという意見が出て、物議を醸しだした。
これは批判されたのだが、ただ、一理はある。深刻な問題を扱いながらも、復讐物語というエンターテインメント性を失わない、この映画の造型世界には、けばけばしいアメコミのヒロインを演じてきたマーゴット・ロビーのほうが、キャリー・マリガンよりもふさわしいかもしれない。それにまた、この映画は、エンターテインメント映画としての復讐物語のフォーミュラにはのっとっている。そのため、深刻すぎない、ある程度、コミカルな雰囲気を維持しようとするなら、かつてのアイドル的な若々しさとは異なる成熟した女性の魅力をたたえはじめたキャリー・マリガンよりも、マーゴット・ロビーだということになる。
しかし当初、この映画は、最後の結婚式シーンはなかったという【このことに触れると、ネタバレまであと一歩になるので、ここで警告:ネタバレ注意・Warning: Spoiler】 。そうなるとたんにアメコミ的な荒唐無稽な復讐物語という特質は、ほんとうにそれが映画のめざすものだったのかという反省せざるをえなくなる。むしろこの映画は、その悲劇性を前景化しようとしていたのではないか。そしてその悲劇性は、復讐物語のフォーミュラともなじむものだったのだ。
復讐するは我にあり、我、これを報いん、というときの「我」とは神のことである。復讐は神がなすべきもので、人間は復讐をしてはいけない。復讐は神にまかせるものであり、人間が神のかわりに罰を下すのは、それは犯罪と変わりない。そもそも人間による復讐は、私怨とか個人的事情によるものが多く、それは犯罪である。したがって復讐者は、たとえ復讐に成功をし続けても、犯罪者性が強まるだけで、そのため精神を病んでくる。そして最後に復讐者は、復讐を成就しても、みずから死ぬしかないのである。
この復讐物語のフォーミュラが、女性の復讐者という設定と絡み合う時、どうなるのか。エンターテイメント映画のお約束として、行動的で勇気があり大胆不敵で果敢な性格の女性は、最初は、男性のみならず、誰をも圧倒する超人的強さを見せつけるのだが、徐々に弱くなっていく。どんなに男勝りの女性でも、最終的に男にかなわなくなるというのが、エンターテインメント映画における強い女性の定番コースである。
たとえば『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(Edge of Tomorrow 2014)では主役のトム・クルーズ以上の活躍をみせ英雄視される女性軍人を演ずるエミリー・ブラントは、最後まで、その強靭さを失わないのだが、『ボーダーライン』(Sicario 2015)のエミリー・ブラントは辣腕のFBI捜査官でありながら、最後には、女の弱さをみせはじめ、男たちの世界に呑み込まれて影が薄くなる――これがお約束の展開なのだが。
この『プロミシング・ヤング・ウーマン』でも、最初のほうは、あれほど強く大胆であった復讐の天使キャシーは、最後の復讐においては、強さがミニマムとなり、逆に弱さがマックスとなる。つまり復讐を成就する前に、殺されるのである。
しかし、これはいっぽうで復讐物語と、またもういっぽうでは強い女性の活躍物語という、エンターテインメント映画の二つのフォーミュラ――ひとつは、復讐者は最後には死こと、もうひとつは物語進行とともに女性の強さが減衰すること――に律儀に従っているかにみえて、その実、最強の帰結を到来させるのだ。なぜなら復讐をする相手に返り討ちにあって殺されることは復讐のぶざまな失敗であるかにみて、その実、相手の有罪性の動かぬ証拠(死体)を提供することになる。また殺されること、存在を消去されることは、弱さの極限であるかにみえて、その実、その死を最高度の告発行為に変換させことになる。死によって、不可視のものを可視化する。土壇場の、窮状における最後の最高度の劣勢の転換。これを主人公はなしとげるのである。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』の結末は、復讐すべき相手と差し違えるというよりも、黙殺された告発と犯罪を可視化する最後の手段として、相手に致命傷を負わせることになる。それが事件の最終決着なのである。
思えば、マーゴット・ロビーとの関わりは、案外、有意義なものだったのかもしれない。彼女の近年のぶっとんだ役どころは、DCコミックスのスーパーヴィラン、ハーレイ・クインだが、このハーレイ・クインが登場する映画は、いまのところ三作『スーサイド・スクワッド』 (2016)、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』(2020)、そして『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』(2021)であるが、そこに共通する「スーサイド・スクワッド」という組織と名称。これは帰還・生還が望めない「自殺部隊」、日本風にいうと「玉砕部隊」である。思えば、『プロミシング・ヤング・ウーマン』における復讐は、自爆テロのような自殺テロ、自殺攻撃であった。そしてそれしか復讐の方法がない、あるいは復讐を通して自殺をするしかないほど、深い傷と悲しみを負った主人公の苦悩に、おそらく誰もが胸打たれるはずである。
なお主人公キャシーは、本名がカサンドラであると、行方不明後に警察から知らされ、驚くのだが、カサンドラの象徴性もまた、女性が置かれている悲劇的立場ともからまりあう。ただ、このことについて語るのは、またの機会に。