ジャン・ジュネの『恋する虜』鵜飼哲・海老坂武訳(人文書院1994)は、難物を全訳しえた偉業ともいえる翻訳であることに、異論をはさむ者はいないだろう。だから、こう指摘しても、その翻訳のすばらしさをいささかたりとも傷つけることはないと信じているが、翻訳の本体ではなく、訳者あとがきの冒頭でのことである。
訳者のひとり鵜飼哲氏は、訳者あとがきの冒頭、話の枕として、1986年4月15日というジャン・ジュネが死亡したその日、アメリカ軍がリビアの首都トリポリを爆撃したことに触れている。リビアの元首カダフィ大佐殺害を狙った航空爆撃だったわけだが、鵜飼氏は、こう語っていた――
大統領レーガンの指令を受けたアメリカ第六艦隊所属のF一一一爆撃機が、リビアの首都トリポリを、一切の予告なしに爆撃した〔略〕。(p.593)
これのどこがと思うかもしれないが、アメリカのF111は、空軍の所属で、海軍機ではない(こんなことを知っている自分が恥ずかしい)
Wikipediaの「リビア爆撃(1986年)」によると
アメリカと同盟各国による秘密裏の外交交渉が続いた後、ロナルド・レーガン大統領は4月14日に攻撃命令を発した。〔中略〕
攻撃に参加したのはイギリス駐留のF-111(48TFW,第48戦術戦闘航空団)、EF-111(20TFW,第20戦術戦闘航空団)と地中海に展開していた第6艦隊の3隻の航空母艦(アメリカ、コーラル・シー、サラトガ)搭載の艦載機隊(A-6、A-7、F/A-18、EA-6B)である。
アメリカ空軍機と海軍機が攻撃に参加したため、情報を整理するなか、いつしかF111が海軍所属機になったのであろう。リビア爆撃は大きな事件だったが、F111がイギリスの基地から爆撃のために発進したことは大きく報じられた。ただF111という機体そのものについて知っているのは私のようなヒコーキ少年というかヒコーキ老人だけで、鵜飼氏も編集者も間違いに気づかなかったようだ。
実はこのF111という大型の可変翼の戦闘爆撃機は、最初、空軍と海軍における主力戦闘機を同一機種にするという目的で開発されたものだった。それ以前に、海軍で開発されたF-4ファントムが、その高性能をみこまれて空軍にも採用されたことがあった(空軍ではF-4のことを一時的にF110と呼んでいたことを私は覚えている――ああ、こんなことを知っている自分が恥ずかしい)。そのため最初から空軍・海軍を同一機種にするためにF111が開発された。しかし空軍と海軍では制空戦闘機に対する要求が異なるため、同一機種の使用は不可能とわかり、空軍だけが、F111を採用し、海軍は、同じく可変翼の、艦隊防衛用の戦闘機を新たに開発することになった(こんなことを知っている自分が恥ずかしい)。そしてそれが『トップガン』に登場したF-14だったのである(こんなことを知っている自分が恥ずかしい)。
話をリビア爆撃に戻すと、海軍から攻撃に参加したのは、A-6、A-7、F/A-18、EA-6Bであって、F-14は参加していない。F-14は、艦隊防衛のための戦闘機であって、攻撃機ではないので、三種の空対空ミサイルを運用したが、この時期、地上攻撃能力はなかった。
攻撃にはF/A-18ホーネットが参加しているが、この時期F-18は、F-14を補佐する戦闘機兼攻撃機。いまは『トップガン・マーヴェリック』にも登場するスーパーホーネットが艦載機において戦闘攻撃兼用機でまさに主流。かつてのF/A-18は、レガシー・ホーネットと呼ばれている(こんなことを知っている私が恥ずかしい)。
アメリカがリビア爆撃に踏み切った経緯にはいろいろなことがあるのだろうが(またこのリビア爆撃は、一般市民を巻き添えにした点で、戦争犯罪として国連で告発された――いまロシアのゾンビ軍(Z軍)がウクライナでしていることと何ら変わりない)、原因のひとつが、リビアのシドラ湾においてアメリカ海軍機とリビア空軍機が交戦したことあげられる(第一次シドラ湾事件 1981年)。
アメリカの空母艦隊に接近してきたリビア空軍機二機を哨戒中のF-14がミサイルで撃墜した。リビアのミグ機と語られることが多いのだが(私も前回の記事でミグとまちがった記述をした)、交戦したのはスホーイSu-22(Su-17の輸出型)で、こちらもF-14と同じ可変翼機である(可変翼技術としてはF-14よりは一世代前の機体)。
これが36年前の『トップガン』の最後のクライマックスで描かれた事件。映画では、F-14は、敵機に肉迫しているので、敵機をバルカン砲で仕留めてもいように思ったのだが、ミサイルで撃破したのは、実際の事件の再現にこだわったためだろう。
あと『トップガン』でSu17/Su22の役をつとめたF-5は、似ても似つかない機体である。
かくしてジャン・ジュネの死とリビア爆撃とが同日に起こったのだが、リビア爆撃の背後には、シドラ湾事件における、F-14とスホーイとの交戦があった。そしてこの第一次シドラ湾事件こそ、第一次『トップガン』で扱われた空中戦そのものであった。
そして、はっきり言えること、それは、こんなことを知っている私が恥ずかしいということである。