6月2日の記事。まだ尾を引いているとは。
スポーツニッポン新聞社 2022/06/02 16:47
NHKは2日、東京・渋谷の同局で定例会見を行った。前田晃伸会長が、5月21日に放送された「チコちゃんに叱られる!」で“鬼のマナー講師”の異名を持つ平林都氏(61)の言動を巡って一部で炎上している騒動について言及した。
前田会長は「ご批判をいただくことはあってはいけない。放送では様々なことが起きるが、このようなご意見には真摯に受け止めて対応するしかない」とした。担当者も「様々なご意見を真摯に受け止めた上で、制作現場でも番組の在り方について検討に入っている。今後の放送に活かしていきたい」とした。
番組では「フォークの歯が4本なのは、スパゲティを上手に食べるため」というテーマが取り上げられた。様々な種類のフォークが用意され、それぞれを使っての食べ方が検証された。その際に平林氏が登場。企画の検証をした番組の女性スタッフに対して厳しい言動を使って指導し、スタッフが涙を流す場面もみられた。その様子が一部で「パワハラなのでは」などと指摘されていた。【リアルタイムで視聴していた者からすると、スタッフの眼から大粒の涙が流れたわけではない。「泣くんじゃない」と叱られて、涙ぐんでいたのかとわかった程度のことである。】
平林都のマナー指導は、いうなれば芸のひとつであって、どなりあげ、相手を委縮させ、最後に、褒めてほっとさせるという落としどころを含め、約束事に基づくギャグみたいなもの。芸能人が相手だと、そこのところはわかっているので、むしろ素人を相手にして驚かすことで功を奏するというべきか。その鬼教官的指導は、好感度を上げる場合もあるし、逆に下げる場合もあるという綱渡りでもあって、そこのところは視聴者も緊張感をもって見守ることになる。
これをパワハラというのは、現代の愚劣な道徳ファシズムのなせるわざで、端的に言って、冗談も解せない人間こそが、パワハラの元凶そのものである。またそうでなければ、厳しい指導ができない。相手が、なにかまちがったことをした場合、やさしく諄々と説いて聞かせることもできるが、重大な過ちであることをわからせるには、それでは効果がないので、厳しく指導することが、言語行為としては妥当である。
ただし、こんなこともわからないのか、このバカヤローとか、死んでしまえとか、生きる価値もないとか、親の顔が見たいといった、相手の人格を否定するような発言は、無条件にパワハラと認定される。教育する立場にある人間は、教え子をしかりつけるのはいいが、絶対にバカ者とか、それに類することを言ってはいけない。
しかし現在では、怒鳴らなくても、少しでも声をあらげるのさえ、パワハラと認定されかねない。そのため番組内の平林都のしかりつける指導が、それはお約束の芸風にもかかわらず、つまり冗談みたいなもの、ギャグの一種であるにもかかわらず、パワハラだと炎上する。ネット民の質の悪さを象徴している。
たぶんこう書くと、おまえはパワハラの何たるかをわかっていない。「みなさんこういうのをパワハラと言うんですよ。あのくらいで?と思う人はパワハラに麻痺してますよ〜ン」というツイートがあるのだが、こういう*****人間は、自分がパワハラ加担者であることをまったく自覚してないのである。
くりかえすが、NHKの『チコちゃんに叱られる』というバラエティ番組は、けっこう攻めた演出で刺激的なお笑いを提供している。テレビのお笑い番組のなかでは屈指のお笑いレベルの高さとチャレンジ精神を誇っていると思う。今回の講師にしても、招いた講師が突然暴言を浴びせて番組スタッフを怖がらせたというのではなくて、最初からきつい言葉で叱ってくれるよう段取りを決めていたはず、つまり暴言はお約束であって、しかも、その暴言は人格を否定したり侮辱的になったりしないよう内容を配慮している。またパワハラという批判についても、番組が提供する意図的なパワハラめいた暴言という冗談に対して、パワハラだぞと冗談で返した上級視聴者も多くいるはずだが、ネットを支配しているのは、冗談がわかる上級民じゃないほうの人々である。
NHKの会長によれば、視聴者が不快に思ったこと、視聴者からの苦言には丁寧に耳を傾けるということだが、これはNHKの伝統であろう。つまり視聴者からのくだらない不満や、悪質なクレーマーからの批判にも、丁寧に耳を傾けてきたという伝統がNHKにはあるのだろう。それはそれでよいことかもしれないが、一般庶民からの批判に耳を傾ける一方で、政治家からのクレームや圧力にも丁寧に対応して、政治家の介入を許してきたという伝統ももういっぽうにあるといってもいい。ただし、そのくせNHKの報道の不偏性についての批判には、いっさい耳を貸さないという、政治家への尻尾ふりという伝統もしっかりあるように思われる。ほんとうは政治家のほうしかみていないのだが、それを指摘されるのが嫌だから、一般人のくだらないクレームにも丁寧に対応する姿勢をみせているにすぎないのではないか。
ただし今回の炎上騒ぎ(とはいえ騒いでいるのはごく一部の人間にすぎないという気もするが)から学ぶべきところがある。どのような立場であれ、声高に罵倒するような批判は、かえって反発を食らうということだろう。これから日本は軍国主義者が大手をふってまかりとおることになろうが、平和主義を唱えるにしても、軍国主義者に負けない大声を出すと、怖がられ、パワハラと批判されるかもしれない。いくら義憤にとらわれても、冷静に対処して声を荒げずに声を通すことを心がけねばならないということだろう。
またパワハラが摘発されて炎上することは、軍国化への抑止につながるような気もしないではない。パワハラへの嫌悪があるのなら、平和主義を踏みにじる趨勢に対する強力な抵抗勢力の誕生を促すかもしれないのだ。とはいえ、それは望み薄かもしれない。パワハラだと炎上することは、それ自体がパワハラで、村八分的な暴力へとつながる。魔女狩りを批判する者たちが、魔女狩りに走ることは容易に想像がつく。今回の平林講師は、彼女の持ちネタであるパワハラ的暴言を、さらに上回るような誹謗中傷や侮辱をネット上で受けている。パワハラ批判者は、もう嬉々として彼女を侮辱している。どちらがパワハラなのだ。片方は冗談というか芸風のパワハラ。もう一方は本気のパワハラなのである。どちらがたちが悪いのだろう。
ともかく炎上圧力が、平和主義につながることはなく、むしろファシズムへとまっしぐらである。日本には確実にネオナチがいる。プーチン大統領に退治してもらいたいものだ【もちろん冗談である。実際には日本のネオナチは、プーチンのおかげで日本のファシズム化を推し進めるだろうから。プーチンと日本のネオナチは、お友達である。どちらもネオナチ。そう、敵こそ、わが友。】
ちなみに、私は退職前には、研究者や教育者を養成する職についていた。大学教員であるということだが、学生や院生を、きびしくしつけたり、きびしく指導したことは一度もない。学生や院生に対して、注意したことはあるが、叱ったり怒ったりしたことは一度もない(人間だから怒りたくなるときはあるとしても)。それは、そもそも叱ったり、叱られたりするのが嫌いだからである。生理的に受け付けない。
だからパワハラでなくても、厳しい指導すらしてない。なぜなら、いくら院生を厳しく指導しても、その院生が大学院修了後、望む研究職とか教育職に付けなければ、院生にとっては、ただの、叱られ損だからである。
もし学生・院生が、卒業後、終了後に、全員、望むポストに就けるのなら、私も、どんなに性分にあわなくても、鬼教官役をかってでて、学生・院生を厳しく指導していたかもしれない。どなりまくり、罵倒し、叱責しまくりだったかもしれない。学生や院生にとっては、不快かもしれないが、就職できれば問題なし。研究者や教育者の作法のようなものを教える厳しい指導は、よい思い出となり、感謝されることすらあれ、恨まれることはないだろう。
ところが大学院修了後は、就職できることのほうが難しいのであって、就職できずにアカデミアを去るほとんどすべての院生たちに、厳しい指導などできるはずもない。
これに対してマナー指導は、着実に役に立つ。社会において、仕事において、マナーを知り、マナー通りのふるまいができることは、本人とってマイナスになることはない。厳しくマナーを教え込まれても、そのマナーを活かす場がなかったということは、まずありえない。教えられたことは、直接、役にたつ。だからマナー指導者は、特権的なのである。ある意味、無敵である。
これに対し、卒業・修了してもほとんどが職に就けない学生や院生に対して、厳しい指導などできない大学教員は、弱い立場にいつづける。マナー講師は、マナーが役にたたなかったとうらまれることはない。だから強い立場でいられる。そのため厳しい指導もできる。厳しい指導で恨まれることはない。
もちろんやさしく親切にマナーを指導することもできる。しかしマナーは、身に着かせねばならない(いうなれば一種の洗脳を経なければならない)ので、叩き込むという指導がどうしても主流となる。たとえマナー本来の機能が、他人を思いやり、他人に不快な思いをさせないということであっても。親切で思いやりのある人間になるために、鞭でひっぱたかれなくてはならないのであり、そうでなければ親切心も思いやりの精神も身につかない、とそう思われている。
だから、平林講師のパワハラじみた暴言は、マナー指導のカリカチャーというか、マナー指導の洗脳的性格をおもしろおかしく誇大にみせているということになる。ああ、心優しく、寛容で、他人を不快にさせない、優雅な身のこなしを体に教えるために、私たちは、およそ優雅さと優しさとは程遠い、地獄の特訓を、心折れながら、苦しみながら、泣きながら耐えねばならなった。美しいマナーのために、私たちは美しさのない指導に耐え忍ぶことになる