ネット上に、「没後30年“松本清張”作品で好きなドラマ・映画ランキング、1位は「中居正広を俳優として初めて認識」」という記事があった(『週刊女性PRIME [シュージョプライム] 』2022/05/28 06:00)
松本清張作品についてのアンケートによるベストテン作品を発表したもの。
1位が『砂の器』(280票)となったが、ポイントは、原作の小説ではなく、ドラマ化されたり映画化されたりした作品のランキングであること。(ちなみに2位は『点と線』)
『砂の器』は、1960年・読売新聞夕刊に連載。
1972年に松竹映画化・丹波哲郎、丹波哲郎、加藤剛、森田健作。
2004年にTBS系テレビドラマ・中居正広、松雪泰子
映画、テレビドラマを考慮すれば、『砂の器』がベスト・ワンであることに違和感はない。監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍、山田洋次、音楽監督:芥川也寸志という映画版『砂の器』が傑作であることは誰もが認めることだろう。
映画、ドラマ化のベストテンなので、原作は無視してもいいのだが、記事では原作についても触れていて、原作を映画やドラマ化と同等の傑作扱いにしているが、記事を書いた人間は、ほんとうに原作を読んだことがあるのか。
松本清張の『砂の器』は、映画版とは比べ物にならないくらいの駄作である。映画版で感動してから、原作を読む読者ならわかるだろうが、感動をもたらす部分は、すべて映画版で付加したところであって、原作には感動を呼ぶ要素など存在しない。
そもそも犯人の和賀英良は、映画にあるようなピアニスト兼作曲家ではない。電子音楽の作曲家兼パフォーマーであって、重厚なクラシック音楽のピアニストではない。映画版では和賀英良は、別れた父親と、みずから作曲した音楽(タイトル『宿命』)のなかで出逢っているのだと語られるが、原作では、前衛的な電子音楽などを作っているような人間は、肉親愛を欠き、血も涙もないない反自然的・人工的アンドロイドのようなもので、だからこそ、父親を捨て、平気で殺人を犯すことができるという設定となっている。父親との永遠の別れの代償としての音楽における再会などという戯言を松本清張は信じてないというか、構想すらしていない。
しかも電子音楽の作曲だからといって、電磁波とか超音波を使って殺人を行なうというのは、どういう飛躍なのだろうか。超音波によって人が殺された例は、この『砂の器』が、最初で最後、空前絶後である。小説のなかで語り手は、超音波で人は殺せるのだと力説しているのだが(説得力はない)、そうまでして、前衛芸術家が、電子音楽家が憎いのか、彼らをアンドロイド化しないと気が済まないのかという、松本清張の妄執めいたものすら感じられるのだ。
もちろんモダンの社会の、あるいは高尚かつ権威ある共同体の、しらじらしい自己充足状態が、過去の封建的怨霊の闇の侵食を前にして、もろくも崩れ去るときに、まさにそのインターフェイス上に事件(多くの場合、殺人事件)が発生する。
【ここから先は本来なら、たとえメタファーとしてであれ、語ってはいけないことなのだが、松本清張にとって、近現代の日本の社会的身体は、健康的で美しい、その外見の下に、あるいはその外見そのものが、病に冒されているのである。『砂の器』における病の選択と、松本清張の社会観はつながっているとみることができる。】
ともあれ、松本清張の世界のダイナミズム、ただし図式的すぎるダイナミズムのなかで、悪辣な犯人が血も涙もないアンドロイドになるのは当然の結果であり、しかも殺人手段も、素手によるものでも凶器を使うものでもない、超音波というこれまた実体を欠いた不可視の抽象的現象であり、悪を観念性・抽象性・脱身体性へと収斂させてゆくその徹底ぶりは空恐ろしくなる――超音波殺人というSFすらびっくりの蓋然性無視の姿勢を貫かずにはいられないほど、あるいは蓋然性を犠牲にせずにはいられないほど、モダニズムを松本清張は憎くてしかたがないのである。
反モダニズム姿勢の幼稚なまでの暴走が原作の欠陥であることを見抜いていたのは、映画版『砂の器』の製作者たちである。犯罪小説としての対立構造は、なにもモダニズムをアヴァンギャルドを敵に回さなくとも、充分に成立しうるのであり、これがわかっている映画版製作者たちは、原作のなかで抑圧されていた可能性を十全に開花させたと言ってよいだろう。
長編小説の映画化は、ほとんどの場合、単純化さらには劣化なのだが、『砂の器』に限っては、映画化のほうが原作を凌駕しているといってもいい。原作は駄作だが、映画化は傑作である。あるいは原作のひどさを前にして、原作のもつ可能性をうずもれさせたくはなかったというのがアダプテーションの動機だったのかもしれない。
【付記:ベストテンには入っていないのだが松本清張作品のうち、もっとも映画・テレビドラマ化が多いのは、「地方紙を買う女」である。映画化1回、テレビドラマ化は9回を数える。おそらく今後も続くだろう。理由はよくわからないが。
比較的最近、CSで、そのいくつかを放送していた。原作は短篇なので、2時間ドラマにするには、原作をふくらませることになるが、その過程で、ドラマ化はやりたい放題である。つまりほとんどのドラマ化が、原作のドラマ化とはいえないほど加工変形されていて、なぜ地方紙を買うのか、その理由すら定かでないものもあるのだから】
2022年05月29日
『砂の器』アズ・ナンバー・ワン
posted by ohashi at 20:10| 映画・コメント
|