2022年05月03日

敵こそ我が友 2


毎日、ウクライナでの悲惨な状況が報道され、多くの人が心を痛めている昨今、4月12日の東大の入学式に映画監督の河瀨直美のスピーチを思い出すと、よく、あんな恥知らずのことが言えたものだとあきれるし、東大生に対してだからというのではなく、どこの大学生に対してであれ、あのスピーチは、大学生に対する侮辱以外の何物でもない。しかし問題は、スピーチの内容が、暴言に近いものだとか、あからさまな煽動的プロパガンダというのではなく、むしろ一見、深い真理を語っているかにみえることだ。むしろ、それのどこが問題なのかといぶかる人がいてもおかしくないくらいに。

あらためて、前回の記事の一部を繰り返させてもらうと、

東京大学公式サイトに全文が掲載されている河瀨監督の祝辞によれば、

それによると河瀨監督は、奈良県吉野町の金峯山寺(きんぷせんじ)の管長と対話した際のエピソードを紹介。管長が本堂の蔵王堂を去る際に「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」とつぶやいたと明かした。

この言葉の真意を正したわけではないとした上で、河瀨監督は菅長の思いについて以下のように想像していると話した。

<例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?>

こうした見方を紹介した上で「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」と新入生たちに訴えた。「自制心を持って」侵攻を拒否することを促していた。


「金峯山寺(きんぷせんじ)の管長」の話は、やや舌足らずで、何をいいたいのかよくわからないところもあるし、管長の言わんとするところを推測・想像しているだけであり、またそのつぶやきも、たとえ直接話法でも、ほんとうに正確に伝えられているかもわからないので、管長については一切不問にする。たとえ河瀨監督の発言を批判するとしても、管長を批判するつもりは毛頭ないことを断っておきたい。

河瀨発言における主張:「例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」、「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」と新入生たちに訴えた。「自制心を持って」侵攻を拒否すること」というのは、一見リベラルな平和主義的主張のようにみえる。

実際、過去に他国を植民地化し、さらに帝国主義的植民地拡大のために他国を侵略したのは、ほかでもない日本である。日本の帝国主義的野望は戦後の平和憲法下においても消滅していなかったどころか、ウクライナでの戦争を機に、タカ派右翼は声高に軍備拡張を、核保有を、防衛費GDPの2パーセント増額を叫ぶしまつである。河瀨監督の言葉は、こうした右翼自民党の軍拡派に対して、おまえたち恥を知れと批判しているのだろうか。

「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」そして「自制心を持って」侵攻を拒否すること」を河瀨監督は訴えたとしたのなら、それは自民党の恥知らずな軍拡派に対しても向けられるべきである。だとすれば、河瀨発言は歴史に残る自民党批判ともなって後世に語り継がれてもおかしくはない。

だが、ほんとうのそうか。悪名高いオリンピック関係者という安倍一族のポチのひとりの河瀨監督に、そんなことができるのか。いや、そんな勇気があるのかということではなく、最初から、そんな批判など意図していなかったのである。

そもそも「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」という主張からして、ロシアを擁護する気満々である。ただし、あからさまではない。ロシア擁護を、どの国も侵略者になる可能性があるという、ある意味、まっとうな普遍的な真実によって、批判を回避するかたちで強化しているのである。

これは、誰もが人殺しになる可能性があるから、殺人犯を無罪にせよという理屈である。誰もが万引きをしているか、万引き願望があるから、万引き犯を許せとか。誰もが異民族に対しては反感をもっているから、ナチスのホロコーストを許せというようなものである。断固として、このような理屈を容認してはならない。

杓子定規な道徳観で、人間の犯罪を断罪するのではなく、柔軟に、その原因や行為の妥当性などを慎重に冷静に考慮するというのは、文学的な姿勢でもある(文学が許す唯一の道徳主義とは、反道徳主義という道徳主義なのだから)。しかしこれは悪人を野放しにすることではなく、悪人とは何か、悪人の真実を理解すること、ひいては私たち自身を理解することを通して、悪のない未来を目指すことである。文学からユートピア志向を差し引けば、文学ではなくなる。

また両論併記(ロシアの正義とウクライナの正義)による価値の相対化、そしてこの相対化へと突破した後に、相対化を普遍化することによって、正義を相対化し、悪をなしくずしにするという、ある意味、使い古された戦略を、恥知らずな河瀨監督は堂々と披露したのである。

「自制心を持って侵攻を拒否すること」という河瀨監督の主張は、ロシアが中国が侵攻してくるという可能性を過大評価し、防衛費の増額を迫る、自民タカ派のくずどもへ冷水を浴びせかける強烈な批判たりえているのだろうか。

そんなことはない。河瀨の主張は、ロシア様、プーチン様を責めてはいけないということのなのだから。プーチン様を独裁者・侵略者・戦争犯罪者として悪人呼ばわりすること、また平和を唱え戦争犯罪を批判する耳障りなリベラルな平和主義に、「自制心を持って」訴えないことこそ重要だとというのがその主張なのだから。

そもそも河瀨の主張は、批判行為そのものを悪として断罪しているのである。だが、そうなるとプーチンを刺激したNATO拡張主義への批判も禁ずることになるし、NATO諸国のみならず日本の、さらには北朝鮮や中国による、戦争を長引かせて軍備拡張の口実にすることで、覇権主義を助長する行為にも目をつぶることになる--「敵こそ我が友」、そうプーチンによる戦争はありがたいものなのだ(ウクライナ市民は虐殺に耐えてもらうしかないちおうことであろう)。

あるいは悪・対・善、不正・対・正義の二項対立をくずし、みんな悪人だから、悪は存在しない、悪の断罪は愚かだという河瀨の主張は脱構築的批判の展開ではないかと思われるかもしれない。だが、特定の悪人はいない。みんな悪人だ。悪人をでっちあげて、自分は善人だと安心しているというのは、脱構築的批判ではなくた、ただ、それだけのことである。

脱構築的批判というのは、おそらくこうなる。プーチン一人を悪人とし、ロシアを悪辣な侵略者として祭り上げることで、自分を正義の味方と安心しているという河瀨の主張は、それ自体、ロシアを一方的に批判することが悪、冷静に自制心をもってロシアだけを非難しないことが善であるという、誰にもわかる二項対立に依拠しているのであって、悪を存在させることで安心しているのは河瀨自身であり、こんな奴に、悪を存在させて安心しているなどと批判されたくはない。

それもまた河瀨という悪を存在させていることで安心しているのではということに対していえば、悪を存在させることなくして、私たちはなにも判断できないのである。悪を存在させなければ私たちは一歩も動けない。だから悪を存在させることは必要悪である。ただそれが必要悪であること、悪は常に捏造されることを自覚し、自制心を持って、みずからの判断と行動を律することは重要である。そうでないならば、つまり悪を存在させて安心している者は愚かであり、自分はそのような愚か者ではないという無自覚こそ、極悪そのものである。結局のところ、自分の悪辣さを無自覚で、大学生にご託宣を述べている河瀨こそが、悪を措定して安心している張本人であり、こいういう無自覚な愚か者に偉そうな口をきいてほしくない。

もし河瀨に希望を託すなら、ウクライナをナチスと同一視し、そんな誰が見てもありえない悪を存在させて安心しているプーチンにこそ、河瀨は、その「悪の捏造による安心理論」をぶつけるべきではなかったか。まあ安倍一族の河瀨には最初から無理だっただろうが。

posted by ohashi at 09:38| コメント | 更新情報をチェックする