『ハードコア』Hardcore Henry(2015) 劇場公開日 2017年4月1日
サイボーグ化された男性が愛する妻を救うべく壮絶な戦いに身を投じる姿を、主人公の一人称視点のみで描いた新感覚アクション。ロシア出身の新人監督イリヤ・ナイシュラーが制作したプロモーション映像がネット上で大きな反響を呼び、クラウドファウンディングによって長編映画化が実現。2015年トロント国際映画祭のミッドナイト・マッドネス部門でプレミア上映され、ピープルズチョイス・ミッドナイトマッドネス賞を受賞した。見知らぬ研究施設で目を覚ましたヘンリー。彼の身体は事故によって激しく損傷しており、妻と名乗る女性エステルによって機械の腕と脚が取り付けられる。さらに声帯を取り戻す手術に取り掛かろうとした時、施設を謎の組織が襲撃。脱出を試みたもののエステルをさらわれてしまったヘンリーは、超人的な身体能力を駆使して救出に向かう。「第9地区」のシャルト・コプリー、「イコライザー」のヘイリー・ベネット、「レザボア・ドッグス」のティム・ロスらが出演。
2016年製作/96分/R15+/ロシア・アメリカ合作
コロナ過直前の日本の映画館でみた、最後ではないが、最後から数番目の映画だった。評判の映画で、面白い映画ではあったが、不満も残った、というか、一人称映画から予想されるような驚異の感覚はあっても、閉塞感すらあり、解放感はなかった。まさにそこが問題であった。
一人称映画の古典は、1947年、ハードボイルド小説の第一人者であるレイモンド・チャンドラーの原作を映画化した『湖中の女』であり、探偵のフィリップ・マーロウの一人称語りの小説のスタイルを、そのまま映像化した作品。評判はよくなかったと聞いている。その映画を観ていないので、不人気の理由はわからないが、今回の『ハードコア』をみて、なんとなくその理由がわかったような気がした。
ちなみに『ハードコア』をPOV映画といって、POVに「一人称」と訳語をつけているバカがいるが、POVはPoint of Viewの略で「視点」という意味。文学研究でも使う、けっこう由緒正しい用語。映画の場合、特定の人物の視点で映像を構成することで、「視点映画」といって、英語でもPOV movieと言ったりする。しかしPOV=一人称ではない。もし特定の人物の視点による映像が、映画全体にみられるとき、それが一人称映画ということになる。
【ちなみに監督はインスピレーション源となった映画は『ストレンジ・デイズ/1999年12月31日』(キャスリン・ビグロー監督1995)だと言明している。ある映画紹介によると、この映画は「他人の五感を記録し、第三者に疑似体験させるバーチャル装置「スクイッド」をめぐって、元警官が陰謀に巻き込まれていく近未来サスペンス。冒頭の約3分30秒に及ぶPOVショットが見どころのひとつといっていい」とある。とはいえ、POVショットは一部だけ。また、映画のなかの元警官の主人公を、レイフ・ファインズ(『シンドラーのリスト』とか『イングリッシュ・ペイシェント』の頃の)が演じていたと聞くと、観たくなるでしょう、私は20世紀に観た。キャスリン・ビグロー監督の、ある意味、絶頂期の映画で、私は、いくらジェシカ・チャスティンの力演があったとはいえ『ゼロ・ダーク・サーティ』以後、キャスリン・ビグロー監督作品は見ていないのだが(いや嘘だった、『デトロイト』は観た)。この『ストレンジ・デイズ』は、今なお高く評価されてもおかしくない映画。】
実際、この『ハードコア』のジャンルは英語でいえばThe First Person Action Filmである。強いて言えば、全編、一人称による視点映画ということになる。
問題は、面白い映画とはいえ、一人称性から得られる主人公との一体感がないということだった。ロール・プレイ・ゲームのようなものと考えればいいといっても、ロール・プレイ・ゲームではない。
なぜならロール・プレイ・ゲーム、もっといえば、ファーストパーソン・シューティングゲーム(First-person shooter、略称FPS)で、次々と襲ってくるゾンビを自動小銃とかレーザー銃で殺しまくっているのは、私自身である。他の誰でもない。正確にいえば、ゲーム世界のアバターと私とが一体化する、あるいはアバターに私が憑依して動いているということになるが、ゲームではアバターの姿かたちはまったくわからないというか、それは私自身と同じかたちと想定できるので、ゲーム世界で行動している人物とプレイしている私は同一である。
なぜ、そんなことをいうかというと、この映画のなかで観客である私は、あるいは観客の一人一人は、主人公の内側に入るというか主人公と一体化するのだが、その主人公がどんな姿形をしているかわからないために、もどかしさのみ残る。あるいは捕らわれ感、閉塞感のみが残る。
つまりFPSで戦っているのは私だが、映画のなかで戦っているのは私ではない。なぞの人物ヘンリーであり、私は、そのヘンリーのなかに捕らわれていて、何もできないまま、ただヘンリーの暴走をみているしかない。エヴァの乗っているシンジ君よりも、ひどい境遇である。
映画ではカメラが主人公の眼となって、主人公の前面というか主人公が顔をむける前面しか見えない。主人公の顔は、鏡面となっているものに反射した像が時折ちらりとみえることがあるが、それ以外に、主人公がどんな顔をしているのか知る手掛かりはない。つまり主人公の顔や、主人公の姿かたちはわからない。
だが一人称映画だから、それはしかたがない。あなた自身だって、鏡か、それに類するものがなければ、自分の顔も、自分の姿かたちもわからないのだからと、言われるかもしれない。実は、それは違う。なるほど、私は自分の前面しか見えないのだが、自分の顔や姿かたち、後姿だって知っている。鏡や写真やその他の手段によって、自分の全体像は直接自分の眼で見ることはできなくても、想像はできる。
なるほど、その想像は、ひとりよがりななもので、自分では、やせ形の長身で姿勢のいい、また温和な表情の知的な雰囲気をたたえた紳士だと自分のことを想像していても、他人に眼からみれば、猫背で変な歩き方をする険しい顔つきのサイコパス的な中年の親爺であるということはある【これは私自身も含めて、特定の人物を念頭に置いた描写ではない】。自分で想定している自己像(往々にしてそれは理想化されているか、逆に実際よりも劣化したものかのいずれかだろうが)と他人の眼からみた姿とは、ずれる、それも大きくずれることは多い。だが、それでも、私は自分の全体像を知っている、あるいは全体像を持っていると言ってもいい。
したがって私の自己像とは、前方のみの現実像と全方位から俯瞰的にもみられた虚構像からなりたっている。そこから私たちの現実は、リアルなものとフィクションから出来ているともいえる。このフィクションは自分勝手な妄想かもしれないものも、私たちの世界観の重要な構成要素である。
そのため、私は、たとえばトム・クルーズ主演の映画をみて、自分とトム・クルーズを一体化させることができる。自分が持っている全体像を、トム・クルーズのイメージに置き換えればいいのである。正確なところ、私は、この世界で一人称で生きていない。一人称的VOPで生きてない。私は。この世界で、「私」という名の三人称で生きている。
よく小説の語り手は傍観者(三人称小説)か共犯者(一人称小説)かのいずれかである言われるのだが、この二者択一は存在しないかもしれない。私たちは、自分自身に対しても、共犯者であると同時に傍観者でもあるのだから。【なおこれは犯罪の傍観者は、犯罪の共犯者と同じというような議論とは全く違う】
私は、前方しか見えない限定的視野をもって生きているのではなく、自分自身を全方向からみながら、またさらに自分自身を俯瞰的にもみながら生きているのである。繰り返すと、私のもつ私とは三人称なのである。だから三人称映画のトム・クルーズのほうが私には一体化しやすい(実際にほんとうに一体化するかどうはべつにしても)。これに対し、姿かたちもわからず、顔つきもわかない人物に私が一体化できるわけがない。むしろ私は、その得体のしれない人物の身体という牢獄のなかに閉じ込められ苦しむという閉塞感しか抱かないだろう。一体感はむりである。
この映画では、主人公は、顔がわからない(クレジットされているのはスタントマンの名前だけである)。また記憶喪失にもなっていて、どんな過去をもち、どのような人格かもわからない。さらに主人公はアドロイド的な超能力ももっているらしい。そして敵方のテレキネシスによって無理やり宙に浮かばされたりする。もう、どうなっていることやら。こんな人物に観客はどう一体化できるというのだろう(繰り返すと、私はスーパーマンやスーパーガールに一体化できる。たとえ地球人でなくとも、その姿かたちが可視化され、その来歴や性格を示す物語的提示がなされている三人称映画のなかでなら一体化はできるのである)。
ここにこの映画とその不満とがある。この映画において、スクリーン上の映像は、観客ひとりひとりの視界と完全に一体化しているのに、観客は、それを自分個人の私的視界にできなくて、一歩引いて、あるいは眼球を身体内へと180度回転させて、自分はどんな人物のなかに閉じ込められているのだろうと、自意識的に思索を始めるのである。観客の視界が映画の視界と一体化することはない。映画理論でいうと、観客の眼差しが、映画のカメラの視界に縫合(スーチャー)されることはないのである。
では、この映画はいったいどういう映画だったのか。
Wikipediaにおけるストーリー紹介を引用する。とはいえ予告編のようなストーリー紹介でしかないが。
近未来。主人公であるヘンリーはロシア高空に存する研究施設で目を覚ます。極度の重傷を負い、記憶を失っていた彼はエステルという自分の妻を名乗る女性によってサイボーグ手術が施され、切断された手足の修復などが行われていた。
失った声帯の修復が行われようとしていた矢先、研究所がエイカンという念力を扱える男と重武装した彼の部下たちによって襲撃され、ヘンリーはエステルと共に地上に脱出するも待ち構えていたエイカンの部下によってエステルは拉致され、自分は追われる身となる。 声帯を失っており、声すら出せず訳もわからない状況で彼はジミーという男に窮地を救われる。エイカンの部下の追撃によってジミーはすぐに死亡してしまうが直ぐに全く性格の違うジミーが現れ、ヘンリーをサポートする。
ジミーは過去にエイカンの元で働いていたがエイカンの手によって全身麻痺の後遺症が残るほどの重傷を負い、復讐のために自分のクローンを量産していたのだった。
ジミーの話でエイカンが死人をサイボーグに改造して量産することで世界を牛耳ろうと目論んでいたことを知ったヘンリーはジミーと協力し、エステルを奪回するためにエイカン一味に戦いを挑む。
と、まあ、こんな物語を展開するのがこの映画だが、映画表現としては、これもWikipediaによれば、
ほぼ全シーンが主人公・ヘンリーの視界として、スタントマンの頭部に固定されたGoPro Hero 3を用いて撮影されているため、主演男優・女優のクレジットはない。監督のナイシュラーもスタントマンを務めた。
とあって、この映画では、名もなき、顔もなき、姿なきスタントマンがブランドスポットであり影の主役あるいは中心なのである。この見えないスタントマン、いやスタントマンは見えているのだけれども、それはたとえば主人公の身体として認識されるだけで、スタントマンの身体は見えないまま、まさに見えないスタントマンに、観客は一体化するのである。つまり一体化できない者に私たちは一体化させられる。こうして映画は、演技者のものからスタントマンのものへと移行する。その意味で、もしかしたらスタントマンが主役となった世界ではじめての映画なのかもしれない。
ちなみにスタントマンが主役のテレビドラマシリーズがあり日本でも放送された。『俺たち賞金稼ぎ!!フォール・ガイ』(The Fall Guy)。アメリカでは1981年10月4日から1986年5月2日まで全5シーズン112話が放映された。
日本では1984年にシーズン1が、1990年にシーズン2が放送されただけである。本職は映画のスタントマンだが、開いている時間に賞金稼ぎをしているという設定で、主役はリー・メジャース(『600万ドルの男』)だった。タイトルのTheFall Guyだが、辞書などでは「だまされやすい人、カモ」「人の罪を追わされる人、スケープゴート、身替り」とい語義が説明してあるが、身替り=スタントマンということなのだろう。フォール・ガイと聞いて、いきなりスタントマンを思い浮かべる英米人はいないと思うが、スタントマンならフォール・ガイだと連想する英米人はいるのかもしれない
なおfall guyの正確な語源は不明だが、fallは「落下」とか「秋」とは関係ないらしい。だが、たとえそうでもスタントマンは落ちる人間なのである。
たとえばターセム・シン監督の『落下の王国』(The Fall,2006)は、重傷を負ったスタントマンの男性が、同じ病院で治療中のオレンジの木から落ちて腕を骨折した少女に語る、悪と戦うスーパーヒーローの物語を描いたもの。少女はお転婆で木から落ちて大怪我をしたのではない。オレンジ収穫のために子供でも危険な作業に駆り出されるのだ(あるいは子供だから高い木に登らされ働かされる)。そう、カリフォルニアにおける二大産業、映画とオレンジ、この二つの産業の犠牲者・負け犬たち――半身不随となったスタントマンと移民労働者の子ども――が、絶望の淵で、ファンタジーを紡ぐことでかろうじて希望をつなぎとめる。まさに涙なくしては観ることができない映画だった。
ここかわかるのは、スタントマンと落下はつながっていることだ。そもそも高所からの落下というのは、よくある危険なスタントである(また映画自体が上下運動、落下運動を組織あるいは演出することを映画的特質とみなしている――ある意味、映画は〈落下の王国〉なのだ)。事実、映画の草創期、多くのスタントマンが落下のスタントで命を失ったり大怪我をしたことが伝えられている――『落下の王国』もまさに、映画の暗黒史に材を得ているのだ。
『ハードコア』の主人公ヘンリーはどうか。彼は記憶を失ったまま実験室で目覚めるが、その実験室は飛行中の航空機のなかにあることがわかり、そこを襲撃されることで、地上へと落下する。これが映画の始まりだった。主人公は落下する男、フォーリング・ガイなのである。そして続くめまぐるしいアクションの連続では、落下運動、あるいは浮遊運動が大きな割合を占める。
すでに述べたように、観客は、この主人公と一体化させられるのだが、主人公の顔も姿かたちもわからないので、一体化はかなりむつかしい。しかし、顔も姿かたちもわからない存在こそ、スタントマンのありようであって、観客は、主人公と一体化できないが、スタントマンとは、メタフォリカルなかたちで一体化するのである。身体のイメージなき自己像を得ることによって。
この映画は、スタントマンが主役である。
なぜなら、この映画は、GoPro Hero 3を頭部に付けて動きまわる、落下したり、はじきとばされたりするスタントマンのパーフォーマンスなくして完成しなかったのだから。ただし、その一人称性は、疑似一人称性でもあって、現実における私たちの自己認識とは異なるために、観客は、自分が超人的な能力を発揮して敵を倒すというようなイリュージョンを抱けない。また観客は自分の顔や姿かたちをイメージとして与えられないため、自己の身体からは疎外される。この疎外感はまた、身体的存在でありながら自己の身体を認識されないスタントマンの悲哀ともつながる。
つまり観客は物語の主人公(スタントマンが身替りになっている)とは一体化できないが、そのことによって、主人公の身替りであるスタントマンとは一体化しているのである。
この映画は、もうひとつの「落下の王国」である。この映画はスタントマンが描き、作り上げていると同時に、スタントマンを描き、作り上げている。ある意味、スタントマンが作り上げてきた影の王国、落下の王国、映画の王国を浮上させたのでる。
