実は、日本においては、単行本からネット上に挙げられているものまで数種の翻訳があり、研究も盛んである。
私にとって、この作品を読むときに欠くことのできない文献は、以下のものである。
高松雄一/川西進/櫻井正一郎/成田敦彦(著)『シェイクスピア『恋人の嘆き』とその周辺』、英宝社、1995年
これは、1991年の日本シェイクスピア学会におけるパネル・ディスカッションをもとにして、参加者4人の本格的論考4編と、シェイクスピア『恋人の嘆き』の原文とその翻訳と注釈(成田篤彦訳)、さらに関連作品を二篇の原文と翻訳(成田篤彦・櫻井正一郎訳)を、巻末に加えた、きわめて充実した内容の本であり、『恋人の嘆き』について原文から解釈・批評まで深く知ろうと思えば、これ一冊で済むという有益かつ貴重な本である。執筆者も、私にとっては、仰ぎ見るような大先輩方えある(というか先生にあたる方々である――高松先生の授業には出たのだが、ほかの方々もチャンスさえあれば、私が受講生であったとしてもおかしくない方々)。そして四半世紀前の本とはいっても、決して色褪せてはいない。
【なお、本書において、「当時にあっても、強固なカトリックの信者はいたが……表立った組織としてのカトリシズムはもう存在していなかったと見ていいだろう」(p.14)という一文があるのだが、現在のエリザベス朝文学・演劇分野におけるカトリシズム研究の復興と人気を知っている読者は、ここまで言い切れるものではないと批判するかもしれないが、1995年当時は、この認識でよかったし、まただからといって全体の論や解釈が古くなったということは全くないのである。】
さらにもうひとつ特筆すべきは、私が持っている物理的にも色褪せてないないこの本は、高松雄一・川西進・成田篤彦の連名で、献本していただいたことである。櫻井正一郎氏は、高名な研究者で名前はもちろん存知あげているが、個人的に面識はないので、献呈者に名前がなくても不思議ではない。
そのどこが特筆すべきかといわれそうだが、実は、今だったら、高松雄一・川西進・成田篤彦の三氏は(高松先生は亡くなられたが)、私に本を贈ろうとはされなかったと思うからだ。べつにこの三人の大先輩に不義理をしたとか喧嘩したとかいうことではない。1995年には私は前途あるシェイクスピア研究者だったかもしれないが、2022年の私は、前途もなければ、シェイクスピア研究者でもなくなっているからである。
それはともかく、この詩がどういう内容なのかについて、成田篤彦氏によれば、作品の構成は次のようになる。
1-4 詩人は娘の嘆きの声を聞き、身を横たえてこれに耳を傾ける。
5-56 娘の登場。詩人による取り乱した娘の描写。
57-60 「近くで牛に草を食ませる老人」の登場。詩人による老人の紹介。老人、娘に近づきわけを尋ねる。
71-84 娘、愛を与えた若者に裏切られた嘆きを老人に語る。
85-147 娘による若者の描写。若者の外見・立居振舞の美しさ、乗馬に秀でていたこと、弁舌が巧みであったこと、多くの娘に慕われたことが語られる。
148-177 若者が不実であることがわかっていながら、余りにも巧みな弁舌に騙されたことに対する娘の嘆き。
177-280 その巧みな弁舌を駆使した口説きが、若者自身の直接話法の形で示される。
281-329 再び娘の口から、若者がいかに偽りに満ちつつもいかに魅力に溢れていたか、またその魅力を前にすれば、自分は再び道に迷いかねないことが告げられて、作品が終わる。
『シェイクスピア『恋人の嘆き』とその周辺』pp.70-71.原文の漢数字は算用数字に変えた。
Wikipediaの説明はひどすぎるので、成田氏の簡潔にして要を得たこのまとめで、内容について理解していただけると思う。
この詩の最大の問題は、その最後である。「再び娘の口から、若者がいかに偽りに満ちつつもいかに魅力に溢れていたか、またその魅力を前にすれば、自分は再び道に迷いかねないことが告げられて、作品が終わる」というのは、この娘、自分を騙した男を恨んでいるようにみえて、そうではなく、また騙してほしいと願っているようなのだ。経験から何も学んでいない。学ばないどころか、騙され悲嘆に沈むことに快感すら覚えているようなのだ。
成田篤彦氏の翻訳で、その最後の部分をみてみたい。
「……
あゝ、私は穢れてしまった。でも、わたしはわからない。
今一度、こんなことがあったら、わたしはどうするだろう。
あゝ、あの目に宿る穢れた雫、
その頬に輝く偽りの炎、
心臓から轟く作りものの雷鳴、
空ろな肺腑の吐く悲しげな吐息、
本物らしくは見えるが、借り物にすぎぬ
あの人のすべての仕種が、
欺かれた者を再び欺き、
悔い改めた者を再び迷わせる。」(321-329)
これで終わり。これは「饅頭怖い」みたいな話で、男が、ひどい奴だと嘆いているこの女性は、ほんとうは、いまもその男が好きでたまらないというか、そもそも騙されてもいないし、ふられてもいないのではないかとも思われる。ただストレートに気持ちを伝えることがはばかれるので、好きだというかわりに嫌いだと言い、素晴らしい人だというかわりに偽物の不実な詐欺師と嘆いてみせているにすぎないのではないか。
この解釈もありだと思うのだが、ただ、この方向に進み過ぎると、たとえばレイプされた女性が、実は、ほんとうはレイプして欲しかった、自分にはレイプ願望があるのだと告白して、男性の性暴力を許容してしまうような、悪辣な男性中心主義、セクシズム的主張へと陥りかねない。実はシェイクスピア自身、たんに男性だけを悪者にして安心する姿勢【©河瀨直美】を批判し、女性だって男性の詐欺行為や暴力の犠牲者ではなく、共犯者だと、まさにセクシズム的主張を展開する寸前にいるのかもしれない――たとえそのようなシェイクスピアは読みたくないと思っても、それが冷厳な事実かもしれない。
この可能性あるいは危険性は常に念頭に置きながらも、ここまで、セカンドチャンスとしえ考えてきた願望・行為からも、この詩の最後に、あらあれる女性の、あのすばらしいしい誘惑の日々、騙されつづけた偽りの愛の日々よ、もう一度という、ある意味唐突に表れる願いについて、考えることができるのではないか。
セカンドチャンス論(論とは言えない、ただの覚書程度のものだが)のなかで、例としてあげたのは、「浮気者型の男女を恋人にした男女が、次も同じような浮気型男女を恋人にすることが多いのはなせか」、それは「セカンドチャンスを狙っているからである」。「一度は失敗したが、二度目は自分でコントロールして裏切られることがないようにできると自信をもつのである」と。ならば『恋人の嘆き』のこの女性も、もう一度、あの人に誘惑されたい、恋も二度目なら、騙されているとわかっていながら、相手と戯れることができる、相手に復讐できるかもしれないし、冷静に燃え上がることもできる……。と考えているとみることはできる。もちろん、逆に、ふたたび手玉にとらえることになるのだろうが。
そう、そんなにうまくいくはずがない。どうせ、二度目も裏切られ苦汁をなめる。はたからみていると、浮気するに決まっている男、軽い気持ちで誘惑しているにすぎない男、恋人にしたら絶対に裏切られるに決まっているこんな男を、『恋人の嘆き』の女性は、相手の不実を嘆いたうえで、なぜ最後の土壇場になって、恋焦がれているのだろうか。最初の失敗から逃げるだけで克服はできない。相手を屈服させてこそ、勝利といえるのである。もちろん結果は眼に見えている。二度目だが三度目だろうが、裏切られつづけるだろう。最初は悲劇、二番目は喜劇どころか茶番となる。
ここで同じことは賭け事に言えると考えた。賭け事にはまる人間は、次こそはと、賭け事をやめる気配はなく、毎回、次は勝てると思いつつ、負けてゆくのである。それはビギナーズラックにみられるような成功体験があって、それが忘れられなくて賭け事にはまるともいえるのだが、しかし基本は失敗があって、次は成功するという思いで、失敗し続けるのである。ビギナーズラックあるいは成功体験とは、失敗が原動力となっている倒錯性を隠蔽する口実にすぎない。『恋人の嘆き』の女性も、あのすばらしい誘惑の日々よ、もう一度と願っているからにみえるのだが、実は、もう一度、騙されて苦しい思いをしたい、悲嘆にくれる日々をもう一度繰り返したいと願っているのではないか。悲劇や悲哀の克服ではなく、その反復を願っているのではないか。まさに文字通りに。最初は悲劇、二番目も悲劇。No悲劇、No人生。
賭け事の場合も、運よく成功して大金を獲得したときこそ、危機が訪れる。損失を取り戻して願いがかなったのだから、賭け事をやめる潮時となる。だが、それこそが最も恐れ、最も望まなかったことであって、再び賭けをはじめ、失敗しつづけ、せっかく獲得した大金もすべて失ってしまう。こうしてギャンブル中毒になる。しかし、この世俗の沼に沈んだようなギャンブル中毒こそ、世俗に穢れたものであるからこそ、マイナス面が一挙に裏返るような敬虔な信仰への回路である。あるいは同じことの表裏ともいえるものである。
男に捨てられても懲りることなく再び男に捨てられ続ける女、捨てられる人生が常態となるマゾヒズムの倒錯性こそ、信仰のありようと似ている。負け続けなければ満足しないがゆえにギャンブル中毒になる人間のありようは、裏切りと懐疑にさいなまれつつも、あるいはそうであるがゆえに、神を信じ続け、救世主の到来を希求する信仰者のありようと似ている。もし宗教とか信仰を馬鹿にしようと思う者がいたら、このギャンブル中毒の例を、また捨てられるのが嬉しいマゾ女の例を出すだろう。だが、それは神への冒涜であるとともに、最高の強度に到達する信仰のありかたでもあって、信仰者は、このメタファーを否定はしないだろう。そこが宗教のむつかしさであり、一筋縄ではいかない深みなのである。賭博は神聖であり、恋人の嘆きは信仰という絶望のメタファーそのものなのである。
実はシェイクスピアの長詩『恋人の嘆き』で使われている語句には宗教的意味を含意するものが多いことは、つとに指摘されている。『シェイクスピア『恋人の嘆き』の周辺』でも、丁寧な語注によって、あるいは論考によって、このことは指摘されている。この詩は、いろいろに解釈できようが、一つの解釈は、神と人間の関係、信仰のありようをめぐる省察であり、それがプレイボーイに捨てられたおぼこ娘の嘆きという下世話の極致の物語をとおして語られるのである。そう、下世話の極致が神聖なものとつながっている。それは絨毯の表と裏の図柄と同様に、どんなにかけ離れているかみみえて、同じ図柄を、同じ構造を共有しているのである。
『恋人の嘆き』は、そのまさに結びの複数行――偽物の男にまた騙されたい、惑わされたいと願う、愚かな娘の不条理な願望の吐露――で、女性の経験全体を絶望的かつ倒錯的な信仰へと変換するといってよい。いや、絶望的かつ倒錯的な信仰があるのではない。そもそも信仰とは絶望的かつ倒錯的であって、プレイボーイに愛されたいと願う、愚かな娘との関係こそ、神と人間との典型例であることを、この詩は伝えようとしている。
【なおプロテスタントの読者は、この詩に、そこはかとなく漂う信仰へのメタ視線を感じとって、宗教性もこの詩の一部であることを認識するだろうが、カトリックの読者は、ここに見捨てられた女性の嘆きと誘惑された日々への回帰願望のなかに、カトリック信徒が置かれている苦しい立場や苦難の嘆きをみるかもしれない。】